「映画であることを放棄した映画」明日への遺言 べっちさんの映画レビュー(感想・評価)
映画であることを放棄した映画
ピカソのゲルニカで幕を開ける。
「映画」はまだ始まらない、戦闘と無差別爆撃という犯罪との違いを解説する。
そのこと自体は必ずしも苦痛にはならなかっただろうと思う。だがナレーションに竹野内豊を起用したことがすべてをぶち壊しにした。
竹野内豊はきらいではない。役柄にもよるが好感を持つほうかもしれない。
だがあのようなナレーションをやるだけの能力は無い。これは彼の問題というよりも、そんな無理をさせた製作サイドの問題であろう。
このオープニングは実に重要だ。
本編に入る前にナレーションと実写とで背景説明を行なう、この手法自体は珍しくもなんともないのだが、おそらくは十分以上に及ぶその長さ。オープニングで語られるその内容もさることながら、この長さがすでにメッセージを有している。
そのメッセージを伝えられるナレーションであれば、だが。
べつに名優を起用せよとは言わない。いや、かえってごく普通のアナウンサーのほうが「声の匿名性」があってよいだろう。とにかくあの長さを、その内容に集中できるよう朗読してくれればよい。
映画の舞台はそのほとんどが法廷であり、ごくわずかに獄中での主人公岡田中将の生活が描かれる。カメラは常に人物から距離を置き、決してその表情を大きく映し出すようなことはしない。
だが時折、なにを血迷ったのか「浪花節」のようなシーンが挿入されてしまうのだ。
最悪であったのが囚人たちの入浴シーン。ひとりが歌い始めた「ふるさと」を、やがてみなが口ずさみ合唱となる・・・・ まさかそんな陳腐な展開にはなるまいと思い続けて観ているだけに、それが現実となるのは悪夢の如し。
悪いことにカメラはやはり人物に寄ることはしないので、感情移入の余地もなければ、かといって完全に醒めた客観的な出来事として捉えているわけでもない、なんとも中途半端な気持ちで眺めているという居心地の悪さ。
いや、その居心地の悪さが狙いであればよいのだが、どうやら描かれているのは人物の心情らしいので困ってしまう。
そう、法廷劇としては緊迫感があり投げかけられる疑問はしっかりと受け止めねばと思うのだが、時折挟み込まれるこうした心象風景がまるでちぐはぐで、映画の流れを乱し観る者の思考を分断し、何を訴えようとしているのかがわからなくなってしまう。
それが作り手の悩みを反映したものならば良かろう。だがどうもそうでは無いように思う。
ナレーションへの竹野内豊の起用、そもそもこれがこの映画全体を象徴しているように感じてしまう。
監督の制御下にはない力が働いていたのではないか。
とってつけたような「浪花節」シーンを入れなければならない、そうでなければ納得しないような外力が存在したのではないか。
もちろんアチキの憶測、妄想の域を出ないが、しかしそうとでも思わない限りこの空中分解したような映画を理解することは出来ない。
伝えるべき内容よりも、その手段たる作品が悲劇となってしまったようだ。