「リアルとリアリティの間に横たわる生理的な心地よさ」インランド・エンパイア 瑠璃子さんの映画レビュー(感想・評価)
リアルとリアリティの間に横たわる生理的な心地よさ
リンチの作品でいちばん好きなのは「マルホランド・ドライブ」だ。あらかじめ失われて「しまった」、その喪失感が画面の中に満ちている感じがして。今回もまたその「すでに終わってしまった出来事への郷愁」が強く感じられる作品となっていた。夏休み終わり間近の夕方、ゆっくりと日差しが弱まっていく瞬間をビルの上から眺めていた幼い日の記憶といったものに似た、過去それを手にしていたかどうか曖昧ながらも、ひどく懐かしくそしてもう永遠に手に入らないことだけをしみじみと実感している、そういう感覚に対しておそらくリンチは執着・固着しているのであろうということがよくわかる映画だった。
「インランド・エンパイア」は「マルホランド・ドライブ」と同じようにハリウッドを舞台にし、同じように多重構成なストーリーでなおかつ両者のテーマも通底していることを考え合わせればリンチの一貫性こだわりに恐れ入るばかりだ。たまらんです。リンチは同じ話を繰り返し違った角度から描くのが本当に好きだ。同素材を用いて何度も何度も箱庭を作り続けているかのように。その偏執狂ともいえる情熱を支えている大きな要因のひとつに「女優という職業に対するリンチの偏愛」があげられるだろう。「マルホランド・ドライブ」でもそこの部分は描かれていたが、女優という「狂った職業」を、リンチは愛してやまない。蝶マニアの少年が虫眼鏡で展翅板に貼り付けられた毒々しい蝶々をじっくりと愛でるように、彼は「壊れていく」女優を見守っている。
ストーリーは、ローラ・ダーン演じる女優が劇中主演する映画の撮影風景を縦軸に(どちらかというとローラ・ダーンそのものが縦軸ともいえる)それをテレビで見守る女、ウサギ人間の公開録画番組、ハリウッドにたむろする娼婦、ポーランドで男たちがもめたりしている映像が絡む。羅列しただけではなんのことやらさっぱりだろうが、本編をみてもさっぱりだから安心したまえ。リンチが思い描くイメージが次々と画面を横切り、横溢する。
180分という時間はかなり長く、鑑賞中は眠くなったりだれたりするけれど、そうしたこちら側の感情を見抜くように突然派手な50年代アメリカンポップスの大音量とともに娼婦のダンス映像が始まったり、絶叫するローラ・ダーンのモノクルオシイ顔がこれでもかと画面いっぱいに映し出されたり、下手なホラー映画が裸足で逃げ出すくらいキョーレツなピエロの顔が大写しになったりする。そういったトラウマ必須30年保障つきみたいな映像を見るにつけ、つくづくリンチは「生理的」な感覚を知り抜いていると実感。だからこそそれ以外のシーンは実に生理的心地よさに満ちているのだが。それらはたとえば雨粒が目に入ってぼやけて見える街灯の感じとか、ふと振り向いたとき目に飛び込んできた他人の顔、ぼんやりとした室内灯によって浮かびあがる「見知らぬ自分の部屋」といった具合の「いつかどこかで目にした風景」を「こちら側」に喚起させる。どぎつい化粧をした娼婦たちのたむろする寒々しい路上、オレンジ色のライトの中の交歓、彩度と明度のはっきりしない画面に映し出されるこれらの映像の、なんと「リアル」なことか。(デジタル映像ゆえの画の粗さみたいな部分も関係してきているとは思うが)
彼の作品を見るたび、リアルとリアリティの差異について考えてしまう。
およそ多くの映画にとって必要なのはリアリティであって、リアルではない。リアルな喧嘩では人は啖呵なんかきらないし、そんな暇があればさらに二三発続けざまにぶん殴ったほうがよい。待ち合わせ相手がどんなに遅れていようとも駅で腕時計見ながら「あいつ遅いな」などとは言わないし、息子夫婦の不和を語りながらご飯を作り食器を洗いながら自らの置かれている微妙な立場について説明をしたりはしない。だが映画にとってそれがリアルではなくてもそういう場面は必要である。そこをいかに自然にもっともらしく織り込んでいくか、それが「リアリティ」である。そういう意味で言えばリンチの映像は「リアリティ」はないが生理的感覚に根ざしているが故の「リアル」さがある。退屈だが見るのをやめようとは思わない。「リアリティ」という「小賢しさ」から遠く離れたリンチのみがもつ惹きつけてやまない磁力なのだ。
話の内容はフロイト的解釈でも古典映画からの引用でもさまざまに読み取れるようになっている。いつまでも残るシーンとともにあれこれ解釈を考える楽しみもリンチ映画の魅力のひとつだ。見終わってウサギ人間の意味を考えてしまったなら、既にリンチ的箱庭迷宮にとらわれた証左なのだ。私は今もその迷宮に囚われている。