「160316『官僚の反逆』と『アイアン・ジャイアント』」アイアン・ジャイアント 水玉飴さんの映画レビュー(感想・評価)
160316『官僚の反逆』と『アイアン・ジャイアント』
中野剛志の『官僚の反逆』読了。これは難しい本だ。オルテガの「大衆」とウェーバーの「官僚制」を、「主体性が無い」「無責任な」「計算可能な処理のみに偏った」「画一的な」「血の通わないロボットのような」などの、近代以降の、階級文化としてではなく人格的性質としての弊害を批判する、思想的文脈の発端と位置付けたところから、現代の日本社会や国際社会における「官僚主導」から「政治主導」への政策の数々がことごとく、世間一般に喧伝される表向きのスローガンが示すものとはむしろ真逆の、まさにオルテガ的かつウェーバー的な「官僚制」の強化に貢献してしまっている本末転倒な実態を、改めて見直させる行政学的検証の書である。オルテガやウェーバーは「大衆民主主義」や「超民主主義」を危惧する一方で「自由民主主義」という民主主義のありかたを保守すべきと述べる。政治家と官僚とが国民から負託された主権の行使と国益の追求のために、この権限と責任を一身に負わしめる、国民国家固有で自決的な、非関税障壁としての行政構造を保守することこそがオルテガ的かつウェーバー的な「自由民主主義」の条件であり、これが現代にも読み継がれ続ける近代保守主義の知恵が志向する民主主義の真髄だということなのだろう。
ところで理想主義的政治経済思想とは、国民国家の自決権や国境や関税や伝統などを旧態の弊害とだけ解釈して撤廃し、世界統一政府の如き統治構造で国際社会を政治的にも経済的にも文化的にも宗教的にも一元化させることで人類平和を合理的に実現させようとする、いわゆるユートピアニズムだ。ユートピアニズムは、地球惑星の気候風土やこれを生存拠点とする民族性やこの死生観の表れとしての宗教性などに貫かれる多元性、この合理的な数値評価の不可能な諸々の不確実性を度外視するといった欠陥をその前提に孕んでおり、この思想的破綻が招いた実際の例が、21世紀初頭におけるEUや合衆国の主流派経済学的な政治経済思想による制度体系の行き詰まりに見ることができる。米ソ冷戦終結で勢いづいたアメリカのユートピアニズムは国際社会の標準規格として拡散され始めてから数十年を待たずして、この思想的限界が既に露呈しているわけだが、こういった「一元化」「規格化」「画一化」などで示せる本質こそが、オルテガやウェーバーが危惧した民主主義の没落傾向としての「官僚制」のそれと相通じているのであり、この観点から、例えば足元の日本の行革のことごとくは、政治や行政の裁量権限を数値評価できるという錯覚を前提にした透明化だの、民営化による縮小整理だの、緊縮財政絶対視だの、市場均衡論に依った流動性の罠への無策だの…、いずれも政治家や官僚がこの一身に負うべき自由民主的な権限に伴う使命感や責任を放棄させるような流ればかりで、直接民主主義的な素人の無責任さで形成された世論に振り回されてばかりのポピュリズムの温床、こういった意味での「官僚制」、つまりオルテガやウェーバーが危惧した「官僚制」が強化されただけだったという、より本質的な解釈が得られるというわけだ。実証的な行政学なる学問分野を渉猟しながら、こういった保守主義的な行政史の検証を試みることは、そもそも経済ナショナリズムにおける「精力的行政」の様々な実態への把握を積み重ねる意義からも興味をそそられる。そもそも私は依然、オルテガの『大衆の反逆』やウェーバーの『経済と社会』をまともに読んでいない。がんばろ。
ところで、久々にアニメ『アイアン・ジャイアント』を観た。さしずめ、本作品に登場するケント・マンズリー捜査官は「官僚制」的な官僚であり、一方で、アイアン・ジャイアントはロボットでありながら「名望家」なのだろう。孤高のヒーロー像を子供に提供する『アイアン・ジャイアント』は、オルテガやウェーバーからも絶賛されるに違いない。