それから(1985)のレビュー・感想・評価
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漱石文学の見事な映像化ーー未熟で美しい自己本位な生き方の挫折と孤独
1985年、昭和の最後の時期に公開された映画だ。当時、観たのかどうか記憶がない。森田芳光監督は「家族ゲーム」(1983)で僕のような一般観客にも知られるようになった。僕が初めて観たのは、次回作「メイン・テーマ」(1984)だ。10代後半だった僕が村上春樹とともに拠り所にしていた片岡義男の本の映画化だったからだ。「それから」は、この2作品の次に撮影された映画である。この3作だけでも作風や作品の方向性が全く違う。森田監督がいかにジャンルと作風と軽々と飛び越える、多彩で知性と教養に溢れた人であったかが、これだけでも証明されている。
「それから」は今回の国立映画アーカイブの特集上映で初めて見た。夏目漱石は、30代も後半になってから、僕にとって重要な作家になった。講演録「私の個人主義」で漱石が語った〝自己本位〟という言葉が、20代30代とサラリーマンを続けても、自分らしさみたいなものが確立できず鬱々としていた僕に、突破口を示してくれるように感じたからだ。
今回改めて「それから」を観て、自己本位であることの大切さと困難を、小説の中でも描いていたことが確認できたと思う。そして、それが現代の僕らにもまだ残された課題であることも痛感した。この点について整理してみたい。
まず、小説「それから」は1909年(明治42年)に朝日新聞で連載された作品だ。主人公は、20代後半なのに定職も持たずブラブラ暮らしている代助(松田優作)だ。高等遊民と言って当時、流行したらしい。これが可能になったのは、代助が財閥系の名家に生まれた次男だからだ。近代化で、大資本家が続々生まれ、華族や官僚などと結びつき上流階級を形成していた。代助もその一員だ。映画でも、大臣などが参加する自宅でのパーティに代助も燕尾服で参加する場面がある。
なにしろ選挙権は、国税15円以上納める男子限定で、人口数パーセントしかいなかったというのだから、拝金主義的な社会でもあると言えそうだ。
代助は、そんな社会も、そして「金のために働く」ことも軽蔑している。実家からの仕送りで暮らしているにもかかわらずである。家督相続制度で、家業は長男が引き継いでいる。代助は一家にとっては、家柄の良さを証明する教養豊かな人物でもあり、家業では働かせないのだと思われる。
もう一つは、代助が学んだのは外国語や文学や西洋哲学などだろう。その教養に見合うだけの理想の職業は見つからず、そして必死に働く友人たちの、新聞記者や翻訳家の仕事などもやればできるのにやる気がない。「金のための(低俗な)仕事」はNGなのである。そして今でいう〝自分探し〟をしているとみていいだろう。
代助は〝金持ちのわがままな坊ちゃん〟とも言えるが、彼の怠惰な生活の奥底には、知的な苦悩が横たわっている。近年のFIREブームからもわかる通り、現代でも働かなくていいなら働かないというのが多数派である。高等遊民は憧れの存在とも言えるだろう。
その一方で、企業ではパーパスやミッション経営などで、崇高な目的のための仕事という定義なども進んできた。「金じゃないんだ」という形を取らざるを得なくなってきたとも言えるし、大事なことに目を向ける余裕が出てきたと言えるのかもしれない。
しかし、〝わがまま〟に自分の思う通り、なんでも追求できる代助が、まだ何もしていないのは、その我(自己)が定まっていないからだ。そしてその結果、自分が好きだった三千代を友人に譲ってしまう。義侠心などと言っているが、浅はかである。三千代の、そして自分自身の気持ちなどをしっかり考えることもなく、強引に動く友人に引っ張り込まれたに過ぎないと思う。義侠心は後付けの理屈だ。
つまり、時代は近代化が行われたにも関わらず、近代的個人という自我は確立されておらず、これが漱石の苦悩でもあり、現代の僕らにも引き継がれているものだと思う。
そして、代助は、三千代が東京にやってきたことをきっかけに気持ちを再燃させ、さらに三千代を譲った親友の平岡(小林薫)が経済的にも困窮し、三千代に冷たく当たっていることを知るに連れて、自己本位に目覚めるのである。
「愛のためなら全てを捨てる」という近代的ロマンチックラブの精神に目覚めた代助は、それを実行に移す。しかし、その自己本位を実行するには代助はあまりに未熟で戦略性がない。坊ちゃんのように無鉄砲に突き進むだけである。
そして、三千代を死の危険に晒し、自分は家族から絶縁され、そしてその家族も新聞記者・平岡の筆により、刑事告発されるかもしれない。自己本位で生きる困難が一気に立ち上がってきて、物語は終わる。
「え、それで結局どうなっちゃうの?」というハラハラを残したまま観客を宙吊りにして映画は終わる。タイトル通り「それから」こそが大問題なのに、それは描かれない。それが、消化不良感ではなく、大きな余韻となるのは、代助は未熟な自己本位により、全てを失うということがしっかり描かれているからだと思う。
ここが辛いところだ。
漱石は、イギリス留学で自分が寄って立つ思想がない、空っぽな人間である現実を突きつけられ、そして自己本位という思想を確立した。しかし、それなのに作品世界では、その自己本位がもたらす破滅や苦悩ばかりで、自己本位な生き方の方法を示すこともないし、その生き方の爽やかさも示さない。
「自己本位という言葉を手にして私は大変強くなりました」という言葉を漱石は残しているが、その強さは、決して楽観的なものではなく、現実の厳しさと対峙し続ける、孤独な倫理であることも本作は見事に描き出しているように感じた。
森田芳光監督は、漱石の原作を、さらにセリフを削り取り、心情を象徴的にイメージとして見せることで、忠実な映像化に成功した。現在でも人気の国民作家・夏目漱石の主要作品の映像化は相当困難だ。なにしろ内面の葛藤や思索が多く、代助もそうだけれど、映画に必要な行動(アクション)をなかなか起こさない。それに、やはり時代背景が見えてこないとなかなか本当のところがわかりきらない。文章の美しさも映像では再現困難だ。本作は、ある意味恋愛映画に振り切ることで成功したとも言えるかもしれない。
夏目漱石作品に挑戦する監督が出てきてほしいと思う。
明治時代の話し言葉をリアルに聴かせるという目論見は…
久しぶりに再鑑賞。ううむ、もう少し面白かったように記憶していたのだが…。今回とくに強く感じたのは、演技レベルがてんでばらばらな出演者がごった煮のように放り込まれている、ということだ。主役の松田優作は終始抑えた演技に徹しているが、ここで新境地を拓いたというほどでもない。それより気になったのは共演者の面々だ。
まず、羽賀健二は映画冒頭の第一声からして違和感がハンパない。明治特有の言い回しについていけず、台詞との折り合いの悪さを露呈する。同じことは森尾由美と藤谷美和子の二人にもいえる。森尾のアイドル全開のしゃべりも酷いが、藤谷の幼児みたいな声質も気になって仕方ない。とくに後者はヒロインとして台詞が多いだけに困ったものだ。
終始ハラハラさせられるこの三人に対し、舞台役者のような口跡で異彩を放つ一群が、小林薫とイッセー尾形だ。二人の出自はともに舞台。唐十郎率いる「状況劇場」出身の前者は、芝居がかったセリフ回しで観客の耳目を惹く。かたや、当時まだ渋谷ジァン・ジァンの舞台に立っていた後者は、松田優作と相対してなお、自らの一人芝居のスタイルを崩さない(その是非はあろうが)。
もうひとつの一群は、笠智衆、草笛光子、中村嘉葎雄といった日本映画界の重鎮たちだ。さすがにこの三者は各人の存在感そのままに日常的な所作をリアルに再現してみせる。台詞も変化する表情に寄り添うように発せられ、齟齬がない。
その中で、笠智衆だけをカメラはやたらとローアングルで捉える。それでも醸し出されるイメージは「世界のOZU」というより「寅さんシリーズの御前様」に近いのはご愛嬌か(笑)。
そんなわけで個々人の演技にかなり温度差があるため、今日び絶対に耳にすることのない時代がかった「話し言葉」を、説得力あるリアリティをもって聴かせるという目論見はもろくも崩れ去っている。
では、ほかに見どころがないかといえば、そんなことはない。たとえば豊田四郎監督の文芸作品のような日本家屋のセットなど、実に見事なものだ。手がけた日活の美術部門は大健闘である(宿屋のセットなど一部は東宝がやったようだが)。
また映像表現に目をやると、静止画ふうの雨中のショットや陽炎のように揺らめく映像は、どこか鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』(1980)や『陽炎座』(1981)を想起させるし、くりかえし挿入される路面電車内の幻想的な光景は、70年代後半以降のフェリーニ作品に見られるような作りもの性が充満していて面白かった。
なお、この市電のショットに流れる「空気感」は、本作と同じ1985年に公開された杉井ギサブロー監督作品『銀河鉄道の夜』のムードにも一脈通じるように感じられた。こういうのを「時代の気分」と呼んでもいいのかもしれない。
以上、国立映画アーカイブの特集上映「映画監督 森田芳光」にて。
白百合の香り‼️
今作は傑作「家族ゲーム」と対をなす森田芳光監督の文芸ドラマの名作ですね‼️親のすねかじりの高等遊民の生活を送っている主人公・与助の前に、かつて友人に譲った最愛の女性・三千代が現れたことから、彼の心に変化が生じる・・・‼️舞台となる明治という時代のポスト・モダン的な再現や、主役を演じる松田優作さんと藤谷美和子さんによる "秘めた愛" もムードたっぷりですね‼️特に与助が三千代に愛の告白をするシーンは、9分間に及ぶ長回しと、松田優作さんの優れた演技で印象深いシーンです‼️
やっぱり松田優作が大人しくしてるの違和感。いつ狂い出すんだろうとド...
藤谷美和子さんはこんなに綺麗な女優だった
頭が良すぎる人にしか分からないと思います
優作さんの代表作ではないでしょうか
誠
映像、音楽、俳優は見事だが家制度からの圧迫の描写が弱く恋愛のリアリティが希薄
1 夏目漱石の原作の内容
江藤淳によれば、『それから』は自分の足元だって危ないくせに社会を高みから眺めるインテリの転落を通じて、日本の近代化を批判した小説だという。
主人公代助の性格には「一方に於て社会的類型であり、他方において『我執』に取り憑かれた個人」という二面性があり、文明批評的性格が表に出ているため、三千代との恋愛は明瞭ではない。
二面性のうち社会的類型の面では、代助は家制度下における長井家の次男坊として、家長の扶養に甘んじる経済的基盤の薄弱な人物だが、そこから脱け出そうともせず、「こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事はできない。道徳の敗退もいっしょに来ている。僕一人が、何といったって、何をしたって、しようがないさ」と、文明批判を口実に仕事にさえ就かない。
これに対して漱石は、三千代に「私よく分からないわ。けれども、少し胡麻化していらっしゃるようよ」と批判させている。「高等遊民」なるものは所詮浅薄なものだという、インテリの戯画化である。
我執の面でも、好きな女三千代と友人の結婚を周旋して自己犠牲を見せながら、最後は徹底できずに彼女に引き寄せられていき、自分の言葉を裏切り、友人を裏切ってしまう。
その結果、あっけなく経済基盤を失った代助は電車に揺られながら、「日本の風土と近代化との間に生じる不協和音、炎症という現実」(江藤)そのもののようなジリジリ焦げ付く世の中の動きを初めて実感し、「自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってゆこうと決心」するのである。
2 家制度の影響
集英社文庫版の石原千秋の解説には、作品の背景である家制度が詳しく書かれている。
当時の家制度は明治以前の公家、武家の慣習を法制化したもので、家長は財産管理、家族の居所指定、婚姻同意の権限を持つ反面、家族の扶養義務を負う。
男性血族の継承が重視され、家督は長男の単独相続。亡くなったら次男が引き継ぐ。三男以下は無用の存在だから分家していく。
次男は長男に事があった場合の予備、代役だから、長男の承継者の目途が立つまで家族の中で扶養され続ける。まさに代助は代役で、扶養されるがまま好き勝手にしているが、長男の息子が大きくなってきたこともあり、お役御免の時期が近付いている。
代助の結婚話が急に進むのは、①分家させて今後の扶養義務を免れること、②贈収賄事件の余波で一家の事業が危うくなる中、地主階級を一族に取り込むこと――という実家の2つの意図によるものだという。
また、当時の刑法には姦通罪があり、「有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ處ス其相姦シタル者亦同シ」とされていた。民法にも、姦通によって離婚または刑の宣告を受けた者は、相姦者と婚姻することはできないとの規定があった。
仮に代助と三千代が肉体関係を結んでいたとすれば、平岡の告訴次第で2人は刑事罰を受けるばかりか、刑を終えた後も結婚できなかったはずだが、小説ではその一歩手前で踏みとどまった形になっている。
3 映画との差異
原作はインテリの転落物語だが、森田監督はそうした社会的側面ではなく、恋愛に焦点を当てており、その理由を次のように語っている。
「愛に飢えた男女が言葉遊びをやっていると考えれば、こんな現代風な恋愛ゲームはないんじゃないかと思えてくる。そこまで漱石が描こうとしてたかどうかは分かりませんが。僕は、この漱石ロマンの根底にある"純愛"も今だからこそ新しい愛の形だと思うんです」
そのためかもしれないが、原作の文明批評的な要素がかなり削られており、高等遊民の脆弱な立場や、代助の虫の良すぎる言い分がよくわからない。
また、原作では代助が実家から結婚にじりじり追い詰められていくさまがしつこく描かれているのに、映画ではあまり緊迫感が感じられない。だから実家からの追及が激しくなればなるほど、代助が八千代に引き寄せられていく流れが伝わってこない。
4 映像について
1)映像美への拘り
冒頭に近く印象的なのは、代助と平岡が再会を祝して飲むビールのグラスに夕陽が差し込み、キラキラ黄金色に輝くところだろう。さらに古い街灯の柔らかな光に照らされた石畳の道、路面電車、逆光に輝く屋台店…等々。
これらはやがてセットの書割的安っぽさが鼻についてくるのだが、全体的に華やかながら落ち着いた色調の画面、女性たちの和服姿、洋館の佇まい等、レトロで美しい画面作りは秀逸である。
2)イメージカットの意味
①百合の象徴するもの
百合はさまざまな象徴に利用されるが、ここでは清楚と男根を意味する。
結婚前の三千代と代助が百合を囲んで向き合うとき、百合は清楚の象徴だ。
次に、再会したとき三千代が買い求めてきた百合は、もはや清楚ではなく、夫に邪険にされ寂しい人妻の性的ニュアンスを漂わせている。
最後に代助が三千代に告白する時は、2人の背後に大きな百合の生花が置かれている。これは2人の関係がプラトニックから、肉体的な性愛に移行することを暗示しているのである。
②電車内のシーン
シーンⅰ)夕日の射す電車内に代助1人が乗っており、そのまま夕焼けに向かい走っていく。
これは代助の経済的基盤の脆弱さを比喩的に描写した、原作の次の箇所を少々変更したものだろう。
「乗り込んでみると、誰もいなかった。黒い着物を着た車掌の運転手の間に挟まれて、一種の音に埋まって動いて行くと、どこまでも電車に乗って、ついに下りる機会が来ないまで引っ張りまわされるような気がした」
シーンⅱ)夜間、暗い車内で左右の座席に10名ほどの乗客がいるが、彼らはそれぞれ花火を手にしており、それが順々にスパークを散らし始める。しかし、代助だけは花火を持っていない。
このシーンは、漱石『草枕』にある次のような汽車に関する記述を引用して、文明批判を暗示していると思われる。
「何百という人間を同じ箱へつめてごうと通る。情け容赦はない。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆるかぎりの方法によってこの個性を踏みつけようとする」
近代化という名の電車に否応もなく詰め込まれた国民が、西洋の真似をしてエゴを発達させ、自分勝手に振る舞い始めたのに、代助はそれになじめないという意味だろう。
シーンⅲ)夜、電車の天蓋がないため夜空の満月が見え、何人もの背中を向けた同じ服装の人物がその月に向かって進もうとしているのに、代助は1人見向きもしない。
これも前述『草枕』の引用で、こちらは文明の電車が個性を無視して、西洋文明に向かって発展していこうとするさまを描いている。
③芸者遊び、桜の花びらに包まれる代助
肉体的な享楽に耽っても、代助がどうしようもなく孤独であることを表している。何故なら彼は愛情を求めているからで、だから「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ」という告白につながっていく。他方、三千代に対する愛のない平岡は、芸者遊びを楽しんでいるかのようだ。
5 俳優、音楽について
俳優陣は芸達者揃いだが、とくに目立つのは兄夫婦。
機転が利いて代助思いの兄嫁を演じる草笛光子、豪放磊落で代助の屈折した心中など理解出来そうもない兄・中村嘉葎雄が素晴らしい。
三千代役の藤谷美和子は、タイトルシーンに浮かび上がるくすんだセピア色の写真が何とも魅力的で、心を鷲掴みにされる。儚げだが実は重い恋愛を受け止める強さのある女性が十分伝わってくる。
代助の松田優作は達者に軽やかな高等遊民と、恋愛に真摯な若者役を演じわけている。
本作で唯一日本アカデミー賞(助演男優賞)を獲ったのが平岡役小林薫だが、受賞にはやや疑問がある。作り物めいた大仰なコトバ遣いは原作通りだからやむを得ないにしても、口調が一本調子だし、友人と再会した嬉しさや、親しさが感じられない。
特筆すべきは、破天荒な食い詰めインテリを自在に演じ切ったイッセー尾形。蕎麦屋で自分を真似る噺家を揶揄って、突然ロシア語の演説をし始めるところなどは笑える。
最後に梅林茂。本作には全編を通して、1つのメインテーマとそのいくつかの変奏曲が流れているが、その上品でさり気ない哀感が、映画に調和し引き立てている。見事な楽曲だ。
6 評価
映画は原作通りである必要はなく、代助と三千代の恋愛パートだけを抜き出してきても問題ない。
ただ、原作では再会後の代助、三千代の行動には派手な部分がなく、彼らの恋愛は明治期の家制度との関係でリアリティを付与されているのに、映画ではその家制度の部分の描写が希薄であり、かといって独自の内面描写を付加しているわけでもないから、あまり2人の心の起伏が伝わってこない。恋愛映画としては、いま一つ印象が弱い理由である。
最大の欠点は、ラストに近く代助と平岡が面談する際、代助が三千代と愛し合っていることを打ち明けるセリフがひと言もないままなことだろう。だから会話の流れがぶっつり切れたまま、3年前に結婚を仲立ちしたのがどうしたこうしたという変な話になっている。
それはさておき映像は秀逸だし、役者も芸達者揃い、音楽も見事で、傑作と呼ぶに吝かではない。
魅惑の一本。キャスティングのイベント性に未だ痺れる。
“覚悟を決めましょう”と言わせてみたかった想いがフツフツと…
想いを寄せつつも片想いで終わった相手を
思い出しながらの鑑賞となった。
この作品の二人は相愛ではあるが、
男の未練を残した想いには共感出来る。
私も若い頃は、寅さん風に言うと
「思い起こせば恥ずかしきことの数々」
といったレベルで、とても想いを寄せる人
への対応を優先する生き方は出来なかった。
代助は知識人ではあるものの、
食べるために仕事をするから上手くいかない
と豪語する位だから、勘当後は、
貧しい生活を営むしかないだろうし、
三千代との新たな関係でも
上手くいくことはないだろう。
原作でもラストシーンは
暗たんたる先行きを暗示するばかりだ。
しかしながら、
不幸に突き進む代助とは言え、
愛する女性と添い遂げようとの生き様には
羨望の念をいだかざるを得ないことも
なくはない。
原作に絡む話だけになってしまいましたが、
映画の方は、硬い語り口調に
明治と言う時代性を感じさせようとの
演出手腕を感じつつも、
雰囲気はピッタシながら
上手いとは言えない藤谷美和子の演技と、
画面の切り替えと繋ぎにおける
ぶつ切り的な編集処理には違和感を感じた。
予告編にはこうあります「新しい日本映画の開花」と つまり日本映画の革新です
前半は起伏が少なく、松田優作始め登場人物全員が大変抑制された演技であるので、つまらない、退屈だと思われる向きもあるでしょう
しかし、そこにも本当に微かな起伏があり、それが伏線であったことに次第に気がついていくと思います
そうすると、それがだんだんと熱をもって圧力がたかまって出口を求めていることにも気づくはずです
その時あなたはもう本作の虜になっています
後半は身じろぎもせず、本作の劇中に没入していると思います
白い百合の花言葉は「純潔」
純愛と言い換えてよいと思います
愛の告白シーンから先はもう圧巻でした
森田芳光監督は、本作まで現代劇しか撮っていませんでした
本作で初めて過去の時代に題材を取ったのです
それも文豪夏目漱石の誰もが知る作品を取り上げたのです
森田監督は音楽で言えば、歌謡曲に対するニューミュージックの作り手のような存在であったと思います
娯楽作品というものは、大衆の欲するものですでから極めてドメスティックであるものです
それは映画でも歌謡曲でも変わりありません
しかしドメスティックな目線だけではやがてガラパゴス化して、世界的な潮流や現代性といったものから取り残されるのは自明のことです
森田監督は今までにない、新しい現代的な感覚をどの作品でも取り入れて来ました
その意味で本作は、60年代のヌーベルバーグに相当することを日本映画に於いて80年代にやろうとしたのだと思うのです
予告編にはこうあります「新しい日本映画の開花」と
つまり日本映画の革新です
それが監督が意図する本作の製作目的なのです
本作はその文脈の中で、自分の新しい感覚を現代劇ではなく、過去の時代を題材にしても通じるのか?自分の持ち味を持ち込んだ時どのような可能性が拓けるのか?それを確かめようとした野心作なのだと思います
森田監督の現代的な感覚の眼を通して、明治末期の世界のロマンを再現して見せたのです
その中で、松田優作は特に物凄い演技を見せています
秘められて水面下に様々にうごめく感情を、極めて抑制された演技、表情、話し方の中に巧みに表現しています
彼の短いキャリアの中でベストアクトであったのではないでしょうか
藤谷美和子の三千代は美しく、まるで明治大正期の美人画がそのまま実体化したかのようです
まるで鏑木清方や上村松園の美人画から抜けでてきた女性そのものです
そして着物は竹下夢二風の大正浪漫の色目と柄なのです
これだけでもううっとりとします
ただ台詞を話すと折角の幻想が崩れ去ってしまうのが残念でした
森尾由美もとてもキュートでした
着物やヘアアレンジも素敵です
セットもなかなかに凝っています
池に掛かる太鼓橋はモネの睡蓮の太鼓橋そのものです
しかし池には睡蓮の花はありません
そこは彼が理想を知り、そして諦める場所であるからです
ジヴェルニーのモネの庭の池ように理想の美をどこまでも追求する場所では無いからです
そして何よりも本作で忘れてはならないのは、夕焼けの中を走る小さな電車の車内のカットです!
三度登場します
エヴァンゲリオン、千と千尋の神隠しで、オマージュされたあのシーンです
主人公の心象風景を電車内の光景として映像としたのは本作が元ネタです
胸中のごとく揺れ動く電車、時に乗客から花火のように感情が吹き出ししたりしながら、押し黙って電車に揺られて、なすがままどこかに連れていかれていく自分・・・
夕闇にむかう運命という電車
原作のラストの電車のくだりをこのような形にアレンジした森田監督の発明なのです
音楽もまた、今までの日本映画のありきたりな劇伴からの脱却がはかられており、映像と渾然一体をなしていました
前半でつまらない退屈だと判断しないで、集中力を維持して後半まで我慢して観ていれば、必ず本作のすごさ、面白さを堪能できるはずです
大正浪漫は昨今一大ブームの鬼滅の刃の時代設定でもあります
松田優作ファンだけでなく、アニメファンにとっても、全ての映画ファンが観ていなければならない傑作、重要作品であると思います
夏目文学の整った造形美が見事な森田芳光の映画道
おもしろい。
【高等遊民と美しき人妻が全てを捨てて、愛に走る姿を静謐なトーンで描いた作品。藤谷美和子さんの尋常ならざる美しさと、故松田優作の抑制した演技に魅せられた作品でもある。】
原作は、文學好きならば誰でも一度は読んだ事があろう夏目漱石の名作。
が、今作は故森田芳光監督と、脚本を手掛けた筒井ともみさんが原作の粗筋はそのまままに独特な映像で、新たな解釈を仄かに含ませ描き出した作品である。
場面の折々で挟み込まれる幻想的なシーンの数々。(含む、長井代助(松田優作)の遊女宿での不思議な踊り・・。)
代助が、友人平岡常次郎(小林薫)の妻、三千代(藤谷美和子)に”匂うが如き白百合”を花瓶に誂え、二人の真ん中に据え、対峙して積年の想いを告白するシーン。
そして、震える声で応える三千代の台詞 ”仕様がない・・、覚悟を決めましょう・・”
- あまりの美しきシーンに劇場内、物音ひとつ起こらず・・。生唾を飲み込むことも躊躇った記憶がある。ー
梅林茂の寂寥感溢れる美しすぎる音楽がこの作品の高貴な雰囲気を醸し出しているのは間違いない。
(貧乏学生であったが、即、レンタルでサントラをダビングした。(今でも年に数度聴く。勿論DVDも購入し、2年に一度の頻度で鑑賞している。))
<故、森田芳光監督の隠れた傑作であると思う。>
<1995年 学友3人と映画館にて鑑賞。
藤谷美和子の余りの美しさ(素人っぽさも含めて)に呆けてしまい、そのまま喫茶店に直行したなあ。>
ー余計な事ー
リドリー・スコット監督が今作の松田優作を観て、「ブラック・レイン」の佐藤役に抜擢したのは有名な話だが、何故?と思った事は覚えている。
原作がそもそも...
ストーリーは小説をほぼほぼ忠実に辿っているので、合う合わないは小説のほうを良いと思えるかどうかで分かれるのではないか。
あえて高等遊民という生き方を選んで、しかも書生までやとってかなり優雅な生活を送っていたのに、いきなり仕事に就くのは無理だろうなあ...
三千代の着物のデザインがどれも素敵だった。
とてもつまらなかった
高校生の時に当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった森田監督が再び松田優作で撮るということで、勇んで見に行ったらさっぱり面白くなくて、それは自分の理解が足りないせいだと、原作小説まで読んだら、それも全然面白くなかった。こうして改めて見たら、まずストーリーが全然面白くないし、演出もかったるい。かったるくて見てられなかった。その上、当時コチコチの童貞だったため今以上につまらなかったはずだ。こんなもの作る方が悪い。当時もっと胸を張ってつまらなかったと主張すればよかったと今更後悔した。藤谷美和子は美しかったが出オチみたいな美女だった。
誠者天之道也 誠之者、人之道也
『2018年の森田芳光 〜森田芳光全作品上映&史上初!ライムスター宇多丸語り下ろし〜』での鑑賞
解説付でなければ、決して鑑賞する事はなかったであろう作品。丁度、ホン・サンス監督の同名作を鑑賞した後で、題材となった夏目漱石作品を読もうかどうか迷っていたので渡りに舟でもある。
ストーリーは、教科書にも載る程なのである程度は頭に残っている。金持ちの放蕩息子が前々から友人の奥さんに恋心を持っていて、いよいよその友人に奥さんを譲って欲しいと頼む。友人は承諾する代わりに事の顛末を息子の実家に告げ、勘当される。さぁ、『それから』どうする?というエンディングである。それぞれの立場が交差する中での心理描写が如実に表現される作品であり、森田監督と主演松田優作が選んだ恋愛物語である。
只でさえ、重苦しい雰囲気がスクリーンに投影されているが、所々ユーモア(手錠 西洋料理の味等々)も散りばめられており、尚且つ、明治時代を意識しない衣装の数々、特徴的な照明の当て方等、随所に監督のアイデアが盛られている。というのも解説を聴いての気づきなのだが、それでも、多分、今の邦画作品には無い、作家性の強い強烈なアタックが心に乗っかるインパクトは充分感じる。路面電車の心象シーン等も原作には無いが、主人公の現在心境をどうやって表現しようかと考え抜いたカットは、あの時代だからそれなりにお金も掛かっている贅沢な作りである。多分、同じようなシーンならば、それこそ“エヴァ”や“千と千尋”に差し込まれているようなシーンとしての表現方法をアニメーションに頼らざるを得ないのだが。
勿論、濡れ場は殆ど無いのだが、ラムネを舐めるシーン等、その辺りの意図されたシーンも丁寧に作り込まれている。
今の時代に今作品が作られていたならば、もっと評価は高いと思わせる程の考え尽くされた出来映えだと思う。出演者も一流ばかりだし、相当の制作費がないと決して出来ない内容だ。文学作品としてはレベルの高さを否応なしに認めざるを得ない内容である。
藤谷美和子お綺麗♪
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