それから(1985)のレビュー・感想・評価
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頭が良すぎる人にしか分からないと思います
まず小説を読んでわからないですから
それからだけではなく 三四郎 も それからも 門も全部分かりません
これがわかる人が わからない そしてこれを映画化しようとする人が全くわからないし 映画に踏み切っちゃう人も全くわからない
優作さんの代表作ではないでしょうか
それまでの遊戯シリーズの冷酷だけど仲間思いと言うキャラクターから人殺しの様なコミカルなキャラクターまでこなしている方ですが、今作品の寡黙でそれでいて思いをうちに秘めて日々過ごしているという主人公を見事に演じられている優作WORLDを表している作品だと感じました。
誠
和洋折衷の住宅、居間の縁側がサンルームのような書斎になっていて木部は淡い緑色でふちどられた明るい空間に同系の淡い色に身を包む松田優作。ソテツが植る中庭をぐるりと廊下が回り、居間の反対側に応接間が位置して、双方から見える。実に魅力的な住宅と衣装であるが、この映画全体で目が惹きつけられることも多い。藤谷美和子の愛らしさは重要な要素であるが、彼女の和装のいでたちがどハマりしていることも大きい。煌めく麦酒にラムネ。独自の時代表現であるが、洗練されていて収まりが良い。奇抜な演出は抑え気味で、お芝居を中心に据える。充実の俳優陣が漱石に挑む。
映像、音楽、俳優は見事だが家制度からの圧迫の描写が弱く恋愛のリアリティが希薄
1 夏目漱石の原作の内容
江藤淳によれば、『それから』は自分の足元だって危ないくせに社会を高みから眺めるインテリの転落を通じて、日本の近代化を批判した小説だという。
主人公代助の性格には「一方に於て社会的類型であり、他方において『我執』に取り憑かれた個人」という二面性があり、文明批評的性格が表に出ているため、三千代との恋愛は明瞭ではない。
二面性のうち社会的類型の面では、代助は家制度下における長井家の次男坊として、家長の扶養に甘んじる経済的基盤の薄弱な人物だが、そこから脱け出そうともせず、「こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事はできない。道徳の敗退もいっしょに来ている。僕一人が、何といったって、何をしたって、しようがないさ」と、文明批判を口実に仕事にさえ就かない。
これに対して漱石は、三千代に「私よく分からないわ。けれども、少し胡麻化していらっしゃるようよ」と批判させている。「高等遊民」なるものは所詮浅薄なものだという、インテリの戯画化である。
我執の面でも、好きな女三千代と友人の結婚を周旋して自己犠牲を見せながら、最後は徹底できずに彼女に引き寄せられていき、自分の言葉を裏切り、友人を裏切ってしまう。
その結果、あっけなく経済基盤を失った代助は電車に揺られながら、「日本の風土と近代化との間に生じる不協和音、炎症という現実」(江藤)そのもののようなジリジリ焦げ付く世の中の動きを初めて実感し、「自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってゆこうと決心」するのである。
2 家制度の影響
集英社文庫版の石原千秋の解説には、作品の背景である家制度が詳しく書かれている。
当時の家制度は明治以前の公家、武家の慣習を法制化したもので、家長は財産管理、家族の居所指定、婚姻同意の権限を持つ反面、家族の扶養義務を負う。
男性血族の継承が重視され、家督は長男の単独相続。亡くなったら次男が引き継ぐ。三男以下は無用の存在だから分家していく。
次男は長男に事があった場合の予備、代役だから、長男の承継者の目途が立つまで家族の中で扶養され続ける。まさに代助は代役で、扶養されるがまま好き勝手にしているが、長男の息子が大きくなってきたこともあり、お役御免の時期が近付いている。
代助の結婚話が急に進むのは、①分家させて今後の扶養義務を免れること、②贈収賄事件の余波で一家の事業が危うくなる中、地主階級を一族に取り込むこと――という実家の2つの意図によるものだという。
また、当時の刑法には姦通罪があり、「有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ處ス其相姦シタル者亦同シ」とされていた。民法にも、姦通によって離婚または刑の宣告を受けた者は、相姦者と婚姻することはできないとの規定があった。
仮に代助と三千代が肉体関係を結んでいたとすれば、平岡の告訴次第で2人は刑事罰を受けるばかりか、刑を終えた後も結婚できなかったはずだが、小説ではその一歩手前で踏みとどまった形になっている。
3 映画との差異
原作はインテリの転落物語だが、森田監督はそうした社会的側面ではなく、恋愛に焦点を当てており、その理由を次のように語っている。
「愛に飢えた男女が言葉遊びをやっていると考えれば、こんな現代風な恋愛ゲームはないんじゃないかと思えてくる。そこまで漱石が描こうとしてたかどうかは分かりませんが。僕は、この漱石ロマンの根底にある"純愛"も今だからこそ新しい愛の形だと思うんです」
そのためかもしれないが、原作の文明批評的な要素がかなり削られており、高等遊民の脆弱な立場や、代助の虫の良すぎる言い分がよくわからない。
また、原作では代助が実家から結婚にじりじり追い詰められていくさまがしつこく描かれているのに、映画ではあまり緊迫感が感じられない。だから実家からの追及が激しくなればなるほど、代助が八千代に引き寄せられていく流れが伝わってこない。
4 映像について
1)映像美への拘り
冒頭に近く印象的なのは、代助と平岡が再会を祝して飲むビールのグラスに夕陽が差し込み、キラキラ黄金色に輝くところだろう。さらに古い街灯の柔らかな光に照らされた石畳の道、路面電車、逆光に輝く屋台店…等々。
これらはやがてセットの書割的安っぽさが鼻についてくるのだが、全体的に華やかながら落ち着いた色調の画面、女性たちの和服姿、洋館の佇まい等、レトロで美しい画面作りは秀逸である。
2)イメージカットの意味
①百合の象徴するもの
百合はさまざまな象徴に利用されるが、ここでは清楚と男根を意味する。
結婚前の三千代と代助が百合を囲んで向き合うとき、百合は清楚の象徴だ。
次に、再会したとき三千代が買い求めてきた百合は、もはや清楚ではなく、夫に邪険にされ寂しい人妻の性的ニュアンスを漂わせている。
最後に代助が三千代に告白する時は、2人の背後に大きな百合の生花が置かれている。これは2人の関係がプラトニックから、肉体的な性愛に移行することを暗示しているのである。
②電車内のシーン
シーンⅰ)夕日の射す電車内に代助1人が乗っており、そのまま夕焼けに向かい走っていく。
これは代助の経済的基盤の脆弱さを比喩的に描写した、原作の次の箇所を少々変更したものだろう。
「乗り込んでみると、誰もいなかった。黒い着物を着た車掌の運転手の間に挟まれて、一種の音に埋まって動いて行くと、どこまでも電車に乗って、ついに下りる機会が来ないまで引っ張りまわされるような気がした」
シーンⅱ)夜間、暗い車内で左右の座席に10名ほどの乗客がいるが、彼らはそれぞれ花火を手にしており、それが順々にスパークを散らし始める。しかし、代助だけは花火を持っていない。
このシーンは、漱石『草枕』にある次のような汽車に関する記述を引用して、文明批判を暗示していると思われる。
「何百という人間を同じ箱へつめてごうと通る。情け容赦はない。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆるかぎりの方法によってこの個性を踏みつけようとする」
近代化という名の電車に否応もなく詰め込まれた国民が、西洋の真似をしてエゴを発達させ、自分勝手に振る舞い始めたのに、代助はそれになじめないという意味だろう。
シーンⅲ)夜、電車の天蓋がないため夜空の満月が見え、何人もの背中を向けた同じ服装の人物がその月に向かって進もうとしているのに、代助は1人見向きもしない。
これも前述『草枕』の引用で、こちらは文明の電車が個性を無視して、西洋文明に向かって発展していこうとするさまを描いている。
③芸者遊び、桜の花びらに包まれる代助
肉体的な享楽に耽っても、代助がどうしようもなく孤独であることを表している。何故なら彼は愛情を求めているからで、だから「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ」という告白につながっていく。他方、三千代に対する愛のない平岡は、芸者遊びを楽しんでいるかのようだ。
5 俳優、音楽について
俳優陣は芸達者揃いだが、とくに目立つのは兄夫婦。
機転が利いて代助思いの兄嫁を演じる草笛光子、豪放磊落で代助の屈折した心中など理解出来そうもない兄・中村嘉葎雄が素晴らしい。
三千代役の藤谷美和子は、タイトルシーンに浮かび上がるくすんだセピア色の写真が何とも魅力的で、心を鷲掴みにされる。儚げだが実は重い恋愛を受け止める強さのある女性が十分伝わってくる。
代助の松田優作は達者に軽やかな高等遊民と、恋愛に真摯な若者役を演じわけている。
本作で唯一日本アカデミー賞(助演男優賞)を獲ったのが平岡役小林薫だが、受賞にはやや疑問がある。作り物めいた大仰なコトバ遣いは原作通りだからやむを得ないにしても、口調が一本調子だし、友人と再会した嬉しさや、親しさが感じられない。
特筆すべきは、破天荒な食い詰めインテリを自在に演じ切ったイッセー尾形。蕎麦屋で自分を真似る噺家を揶揄って、突然ロシア語の演説をし始めるところなどは笑える。
最後に梅林茂。本作には全編を通して、1つのメインテーマとそのいくつかの変奏曲が流れているが、その上品でさり気ない哀感が、映画に調和し引き立てている。見事な楽曲だ。
6 評価
映画は原作通りである必要はなく、代助と三千代の恋愛パートだけを抜き出してきても問題ない。
ただ、原作では再会後の代助、三千代の行動には派手な部分がなく、彼らの恋愛は明治期の家制度との関係でリアリティを付与されているのに、映画ではその家制度の部分の描写が希薄であり、かといって独自の内面描写を付加しているわけでもないから、あまり2人の心の起伏が伝わってこない。恋愛映画としては、いま一つ印象が弱い理由である。
最大の欠点は、ラストに近く代助と平岡が面談する際、代助が三千代と愛し合っていることを打ち明けるセリフがひと言もないままなことだろう。だから会話の流れがぶっつり切れたまま、3年前に結婚を仲立ちしたのがどうしたこうしたという変な話になっている。
それはさておき映像は秀逸だし、役者も芸達者揃い、音楽も見事で、傑作と呼ぶに吝かではない。
魅惑の一本。キャスティングのイベント性に未だ痺れる。
再々…見。劇場初見。
鑑賞中は退屈したが、日が経つと再見したくなる魅惑の一本。
優作美和子の動から静への転身、旬の小林薫、時代の寵児森田芳光が漱石ロマンの原作に集うイベント性に未だ痺れる。
神保町シネマ、上映は感謝だが、あの重要な台詞も飛ぶフィルム劣化は残念。
“覚悟を決めましょう”と言わせてみたかった想いがフツフツと…
想いを寄せつつも片想いで終わった相手を
思い出しながらの鑑賞となった。
この作品の二人は相愛ではあるが、
男の未練を残した想いには共感出来る。
私も若い頃は、寅さん風に言うと
「思い起こせば恥ずかしきことの数々」
といったレベルで、とても想いを寄せる人
への対応を優先する生き方は出来なかった。
代助は知識人ではあるものの、
食べるために仕事をするから上手くいかない
と豪語する位だから、勘当後は、
貧しい生活を営むしかないだろうし、
三千代との新たな関係でも
上手くいくことはないだろう。
原作でもラストシーンは
暗たんたる先行きを暗示するばかりだ。
しかしながら、
不幸に突き進む代助とは言え、
愛する女性と添い遂げようとの生き様には
羨望の念をいだかざるを得ないことも
なくはない。
原作に絡む話だけになってしまいましたが、
映画の方は、硬い語り口調に
明治と言う時代性を感じさせようとの
演出手腕を感じつつも、
雰囲気はピッタシながら
上手いとは言えない藤谷美和子の演技と、
画面の切り替えと繋ぎにおける
ぶつ切り的な編集処理には違和感を感じた。
予告編にはこうあります「新しい日本映画の開花」と つまり日本映画の革新です
前半は起伏が少なく、松田優作始め登場人物全員が大変抑制された演技であるので、つまらない、退屈だと思われる向きもあるでしょう
しかし、そこにも本当に微かな起伏があり、それが伏線であったことに次第に気がついていくと思います
そうすると、それがだんだんと熱をもって圧力がたかまって出口を求めていることにも気づくはずです
その時あなたはもう本作の虜になっています
後半は身じろぎもせず、本作の劇中に没入していると思います
白い百合の花言葉は「純潔」
純愛と言い換えてよいと思います
愛の告白シーンから先はもう圧巻でした
森田芳光監督は、本作まで現代劇しか撮っていませんでした
本作で初めて過去の時代に題材を取ったのです
それも文豪夏目漱石の誰もが知る作品を取り上げたのです
森田監督は音楽で言えば、歌謡曲に対するニューミュージックの作り手のような存在であったと思います
娯楽作品というものは、大衆の欲するものですでから極めてドメスティックであるものです
それは映画でも歌謡曲でも変わりありません
しかしドメスティックな目線だけではやがてガラパゴス化して、世界的な潮流や現代性といったものから取り残されるのは自明のことです
森田監督は今までにない、新しい現代的な感覚をどの作品でも取り入れて来ました
その意味で本作は、60年代のヌーベルバーグに相当することを日本映画に於いて80年代にやろうとしたのだと思うのです
予告編にはこうあります「新しい日本映画の開花」と
つまり日本映画の革新です
それが監督が意図する本作の製作目的なのです
本作はその文脈の中で、自分の新しい感覚を現代劇ではなく、過去の時代を題材にしても通じるのか?自分の持ち味を持ち込んだ時どのような可能性が拓けるのか?それを確かめようとした野心作なのだと思います
森田監督の現代的な感覚の眼を通して、明治末期の世界のロマンを再現して見せたのです
その中で、松田優作は特に物凄い演技を見せています
秘められて水面下に様々にうごめく感情を、極めて抑制された演技、表情、話し方の中に巧みに表現しています
彼の短いキャリアの中でベストアクトであったのではないでしょうか
藤谷美和子の三千代は美しく、まるで明治大正期の美人画がそのまま実体化したかのようです
まるで鏑木清方や上村松園の美人画から抜けでてきた女性そのものです
そして着物は竹下夢二風の大正浪漫の色目と柄なのです
これだけでもううっとりとします
ただ台詞を話すと折角の幻想が崩れ去ってしまうのが残念でした
森尾由美もとてもキュートでした
着物やヘアアレンジも素敵です
セットもなかなかに凝っています
池に掛かる太鼓橋はモネの睡蓮の太鼓橋そのものです
しかし池には睡蓮の花はありません
そこは彼が理想を知り、そして諦める場所であるからです
ジヴェルニーのモネの庭の池ように理想の美をどこまでも追求する場所では無いからです
そして何よりも本作で忘れてはならないのは、夕焼けの中を走る小さな電車の車内のカットです!
三度登場します
エヴァンゲリオン、千と千尋の神隠しで、オマージュされたあのシーンです
主人公の心象風景を電車内の光景として映像としたのは本作が元ネタです
胸中のごとく揺れ動く電車、時に乗客から花火のように感情が吹き出ししたりしながら、押し黙って電車に揺られて、なすがままどこかに連れていかれていく自分・・・
夕闇にむかう運命という電車
原作のラストの電車のくだりをこのような形にアレンジした森田監督の発明なのです
音楽もまた、今までの日本映画のありきたりな劇伴からの脱却がはかられており、映像と渾然一体をなしていました
前半でつまらない退屈だと判断しないで、集中力を維持して後半まで我慢して観ていれば、必ず本作のすごさ、面白さを堪能できるはずです
大正浪漫は昨今一大ブームの鬼滅の刃の時代設定でもあります
松田優作ファンだけでなく、アニメファンにとっても、全ての映画ファンが観ていなければならない傑作、重要作品であると思います
夏目文学の整った造形美が見事な森田芳光の映画道
森田芳光監督の演出は、役者の間を置いた呟きと静かなパン撮影で明治の時代再現を試みる。その調和が整った造形美になっている。夏目文学の困難な映画化と思われるだけに、その挑戦は成功していると言っていい。セット、衣装、照明など拘った撮影が見事。ただ、私的には合わなかった。技巧の優れた映像美に対して、登場人物の本音の内面表現が希薄に感じてしまい物足りない。
1986年 1月17日 名画座ミラノ
おもしろい。
夏目漱石の世界観が出た作品。主人公の心情描写は独特。セリフとか原作そのまんまなんだろうなー。読めよ。って話だけど。てか当時の30って‥老けすぎてね??イッセー尾形くらいかな年相応に見えたの。羽賀健二か藤谷美和子とか懐かしかった。松田優作だからなんかかっこよく味方したくなる感じだけど、一番罪なのはこの主人公であり、平岡は何も悪く無い。てか結局どうやって食ってってる人なの??遊んで暮らして好きな女を持っていくって、そりゃ虫が良すぎるよ。ラストも至極納得。不甲斐ない男の話。
【高等遊民と美しき人妻が全てを捨てて、愛に走る姿を静謐なトーンで描いた作品。藤谷美和子さんの尋常ならざる美しさと、故松田優作の抑制した演技に魅せられた作品でもある。】
原作は、文學好きならば誰でも一度は読んだ事があろう夏目漱石の名作。
が、今作は故森田芳光監督と、脚本を手掛けた筒井ともみさんが原作の粗筋はそのまままに独特な映像で、新たな解釈を仄かに含ませ描き出した作品である。
場面の折々で挟み込まれる幻想的なシーンの数々。(含む、長井代助(松田優作)の遊女宿での不思議な踊り・・。)
代助が、友人平岡常次郎(小林薫)の妻、三千代(藤谷美和子)に”匂うが如き白百合”を花瓶に誂え、二人の真ん中に据え、対峙して積年の想いを告白するシーン。
そして、震える声で応える三千代の台詞 ”仕様がない・・、覚悟を決めましょう・・”
- あまりの美しきシーンに劇場内、物音ひとつ起こらず・・。生唾を飲み込むことも躊躇った記憶がある。ー
梅林茂の寂寥感溢れる美しすぎる音楽がこの作品の高貴な雰囲気を醸し出しているのは間違いない。
(貧乏学生であったが、即、レンタルでサントラをダビングした。(今でも年に数度聴く。勿論DVDも購入し、2年に一度の頻度で鑑賞している。))
<故、森田芳光監督の隠れた傑作であると思う。>
<1985年 学友3人と映画館にて鑑賞。
藤谷美和子の余りの美しさ(素人っぽさも含めて)に呆けてしまい、そのまま喫茶店に直行したなあ。>
ー余計な事ー
リドリー・スコット監督が今作の松田優作を観て、「ブラック・レイン」の佐藤役に抜擢したのは有名な話だが、何故?と思った事は覚えている。
原作がそもそも...
ストーリーは小説をほぼほぼ忠実に辿っているので、合う合わないは小説のほうを良いと思えるかどうかで分かれるのではないか。
あえて高等遊民という生き方を選んで、しかも書生までやとってかなり優雅な生活を送っていたのに、いきなり仕事に就くのは無理だろうなあ...
三千代の着物のデザインがどれも素敵だった。
とてもつまらなかった
高校生の時に当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった森田監督が再び松田優作で撮るということで、勇んで見に行ったらさっぱり面白くなくて、それは自分の理解が足りないせいだと、原作小説まで読んだら、それも全然面白くなかった。こうして改めて見たら、まずストーリーが全然面白くないし、演出もかったるい。かったるくて見てられなかった。その上、当時コチコチの童貞だったため今以上につまらなかったはずだ。こんなもの作る方が悪い。当時もっと胸を張ってつまらなかったと主張すればよかったと今更後悔した。藤谷美和子は美しかったが出オチみたいな美女だった。
誠者天之道也 誠之者、人之道也
『2018年の森田芳光 〜森田芳光全作品上映&史上初!ライムスター宇多丸語り下ろし〜』での鑑賞
解説付でなければ、決して鑑賞する事はなかったであろう作品。丁度、ホン・サンス監督の同名作を鑑賞した後で、題材となった夏目漱石作品を読もうかどうか迷っていたので渡りに舟でもある。
ストーリーは、教科書にも載る程なのである程度は頭に残っている。金持ちの放蕩息子が前々から友人の奥さんに恋心を持っていて、いよいよその友人に奥さんを譲って欲しいと頼む。友人は承諾する代わりに事の顛末を息子の実家に告げ、勘当される。さぁ、『それから』どうする?というエンディングである。それぞれの立場が交差する中での心理描写が如実に表現される作品であり、森田監督と主演松田優作が選んだ恋愛物語である。
只でさえ、重苦しい雰囲気がスクリーンに投影されているが、所々ユーモア(手錠 西洋料理の味等々)も散りばめられており、尚且つ、明治時代を意識しない衣装の数々、特徴的な照明の当て方等、随所に監督のアイデアが盛られている。というのも解説を聴いての気づきなのだが、それでも、多分、今の邦画作品には無い、作家性の強い強烈なアタックが心に乗っかるインパクトは充分感じる。路面電車の心象シーン等も原作には無いが、主人公の現在心境をどうやって表現しようかと考え抜いたカットは、あの時代だからそれなりにお金も掛かっている贅沢な作りである。多分、同じようなシーンならば、それこそ“エヴァ”や“千と千尋”に差し込まれているようなシーンとしての表現方法をアニメーションに頼らざるを得ないのだが。
勿論、濡れ場は殆ど無いのだが、ラムネを舐めるシーン等、その辺りの意図されたシーンも丁寧に作り込まれている。
今の時代に今作品が作られていたならば、もっと評価は高いと思わせる程の考え尽くされた出来映えだと思う。出演者も一流ばかりだし、相当の制作費がないと決して出来ない内容だ。文学作品としてはレベルの高さを否応なしに認めざるを得ない内容である。
藤谷美和子お綺麗♪
描写や音楽は素敵。優作さんもいい。
でも、漱石自体がわからないんですよ。
読んでも、今回鑑賞してみてもやっぱりダメでした。
でも私がダメなだけなので1度は観てみてほしい。
好き嫌いではなく、作品と向き合う姿勢を忘れずに私は観ました。
だけど漱石が文部省選定なのは、こころも同様ですが、ちと早いんでは?いつも謎です。
優作さんの代表作ではないでしょうか
それまでの遊戯シリーズの冷酷だけど仲間思いというキャラクターから人殺しの様なコミカルなキャラクターまでこなしている方ですが、今作品の寡黙でそれでいて思いをうちに秘めて日々過ごしているという主人公を見事に演じられている優作WORLDを表している作品だと感じました。
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