戦場のメリークリスマスのレビュー・感想・評価
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どこまでも混じり合わない「罪のありか」。
◯作品全体
戦争映画で描かれることの多い「敵国兵士との交流」。本作は俘虜収容所を舞台に、それを中心として描いていた。
印象的だったのは、度々言葉を交わしておきながらほとんど交わらない思想。それぞれの生い立ちや価値観が描かれ、素性を明かしつつも、それを価値観の異なる人物同士の「安易な交わり」にしていない。あたたかな人情ドラマにしても良いところを「あなたはあなたで、わたしはわたしだ」と主張するような、個の物語にしていると感じた。そして個の区切りには人種があり、育った環境があり、教育があり、それぞれの美学がある。同じ日本人であるヨノイ大尉とハラ軍曹ですら意見が食い違う場面が度々あるのがわかりやすいだろう。戦争という集団行動に潰されるはずの「個」の存在が、登場人物ごとの人種や価値観によって線引されている。俘虜収容所という舞台がその線引きをさらに印象的なものとしていた。
そしてその線引きに大きな影響を及ぼすのが「罪のありか」だろう。序盤で朝鮮出身の日本兵が自害へ追いやられるが、ハラは自らを汚すような行為をする人間にとって、それが当然の結果だと思っている。ハラにとって、罪のありかは兵士本人にあると信じているのだ。一方でヨノイは、その処刑を一度躊躇する。しかし俘虜長の態度を見て処刑を許可し、米兵たちにその場にいることを強要する。ヨノイからすれば罪のありかは日本兵でなく、俘虜長の日本人を下に見る態度なのかもしれない。
ローレンスにとって、ハラたちの横暴は個々の日本人の罪ではない、と(自らを納得させようとしているようにも感じるが、)理解しており、相手国同士の間にいるような、傍観者のような存在だった。セリアズからすればその場にある関係性ではなく、弟への自らの罪が第一にある。
すれ違う「罪のありか」が、会話を重ねども重なり合わない登場人物たちを克明に映す。
そのなかで、ラストに交わされるハラとローレンスのやりとりは、時間が経ち、立場が変わっても同じ時間を共有していたことをかすかに認識させる。その一瞬の交錯が刹那的で、切なく心に残った。
◯カメラワークとか
・境界線を作るようなカメラワークが印象的。傷病者が過ごす棟の仕切られた空間や葬儀を行っているときの畳を使ってローレンスとヨノイを対照的に映すカットとか。
・ラストカットのアップショットは本当にすごかった。戦後になって時間が空いたシーンだけど、あのアップショットによって一気に「あの時」へローレンスを引き寄せているような。北野武の素朴な笑みもいい味だしてる。
◯その他
・北野武の芝居が上手だったなあ。芝居慣れしていない感じが飾らない人物・ハラとマッチしてた。一方でヨノイの前だと単なる一軍曹になるところも良い。脱走したセリアズに重厚を向けて「殺します」って落ち着いた声で、無機質に伝えるハラの恐ろしさ。『その男、凶暴につき』の北野武みたいな狂気があった。
戦争状態とはどういうことか
大島渚監督作品。名作です。
戦闘が一切描かれない戦争映画。
ただ、「戦争状態とはどういうことか」を考える上では、
戦争の非戦闘時間を取り上げるほうが適切なのかもしれない。
確かに戦争の戦闘時間のほうが映画としては”見映え”がいいのかもしれない。だけど戦闘までの待機や輸送の時間のほうが長かっただろうし、日本軍の兵士の死因で最も多かったのは餓死である。だから非戦闘時間に何が起こっていたのか知ることこそ、「戦争状態」について考えることができるはずである。
では「戦争状態」とは何か。それは「論理の破壊」と「法の逸脱」が横行している状態と言えるのかもしれない。
私たちの社会は法治国家であり、論理的な法構造で制度設計されている。しかし戦争で剥きだしになる暴力や状態は、論理を破壊し、法が逸脱することを無条件に承認する。
それを表象しているのが例えば、①捕虜への体罰②日本軍の自決③ジャック・セリアズ少佐を裁く軍法会議④軍の司令⑤ハラ軍曹の恩赦である。
これらは論理を全く持ち合わせておらず、正しいから正しいというトートロジーによって担保されている。権力者の気分と暴力が絶対という不条理な状態。そんな状態は論理や法も捏造される。剥きだしの暴力。まさに「戦闘状態」なのである。
では、「戦争状態」に対抗するにはどうするべきか。実は、別様の「論理の破壊」と「法の逸脱」なのである。この別様の「論理の破壊」と「法の逸脱」を象徴しているのが、デヴィッド・ボウイ演じるジャック・セリアズ少佐なのである。セリアズは、捕虜であるにも関わらず日本軍や陸軍大尉のヨノイの命令に反抗する。それを端的に表しているのが、ヨノイが命じた飲み食いを禁ずる「行」の不履行、捕虜の死への哀悼、脱走である。
このような行為は、捕虜収容所で日本軍が論理や法を捏造し作り上げた「戦争状態」を徹底的に逸脱するのである。
だからこそヨノイはセリアズに惹かれてしまうのかもしれない。ヨノイは陸軍大尉として日本軍、権力がつくりだす「戦争状態」を実践する。しかしその「戦争状態」に抵抗するシリアズの「戦争状態」。美形もさることながら、この別様さに心惹かれてしまったのではないだろうか。
「恋愛」もまた論理や法では担保されない現象である。したがって、この作品にはヨノイがセリアズに惹かれることが描かれているのだろう。
このようにストーリーはかなり重層的で示唆的である。伝説の名作と言われる理由がよくわかる。
色褪せない楽曲
数十年ぶりの鑑賞で込み上げた思い
数十年ぶりの鑑賞ということもあり、以前とだいぶ印象が違って見えた。例えば、坂本龍一が法廷でボウイを見てビビッと感じる時の思い。かつての私は、それは同性愛的な何かだろうと解釈していたが、今見ると、そんな次元すらも遥かに凌ぐ、非常に複雑で混乱した啓示だったように思えた。対するボウイはかつて弟に下した仕打ちが十字架のようにのしかかっている。彼もまた償う場所を求めさまよう旅人。収容所という場所でこれらの異質な思いが大きく渦を巻き、さらに狂気と無邪気さを持つビートたけしの存在が絶妙にハマる。演技が本業でない彼らだからこそ、素の境地をこれほど直感的、肉感的に表現できたのだろう。ちなみにローレンス役のトム・コンティは「ダークナイト・ライジング」にも出演。「戦場の」がノーランのお気に入りであることを考えると、同じ”牢獄でカリスマ性を持つ主人公と語らう者”としての起用には何らかの意図があったのかもしれない。
組織重視か個人重視の文化の違いを超える物語
ジャワ島の日本軍が管理する捕虜収容所を舞台に、人間の尊厳や文化の違い、戦争の悲劇を描く映画。
捕虜の中には欧米の幹部もおり、日本兵と彼らの間に深い対立と共感が生まれる。
欧米文化では「個人の想い」が重視される一方、日本軍は「組織のために命を捧げる」価値観を持つ。
欧米兵捕虜にも日本兵にも幹部の中には人間性や深い信念を持つ人物がおり、その姿に感動させられる。
幹部の人間性は異文化を持つ捕虜たちにも理解され、尊敬される場面がある。
しかし、日本兵幹部は組織の意思に逆らえない現実が描かれ、戦争の矛盾が浮き彫りに。
日本兵が崇拝する「組織の神」が、捕虜たちには「悪魔」として映る対比が印象的。
戦況の変化によって捕虜と管理者の立場が逆転し、戦争の無情さが強調される。
過酷な捕虜生活や虐待の中にも、人間としての優しさや尊厳を感じさせる場面がある。
切腹シーンが多く、日本人独特の死生観が鮮明に描かれている。
外国人がこの映画を観ると、日本人に対する「腹切り文化」のイメージが強まると感じる。
戦争の悲惨さと文化の壁を描きながらも、人間の本質に迫る内容で感動を与える映画。
平和への祈りは世界に届くか…?
現在、これを書いている2024年11月の今、世界で2つの大きな戦争が起きている…
「第3次世界大戦」が、いよいよ現実味を帯びてきている…
世界戦争になれば、確実に「世界核戦争」になる…
「日本被団協」がノーベル平和賞を受賞したが、なぜか受けた日本国内で
「世界から核兵器を無くせ」という主だった動きは見られない。
実際に「第3次世界大戦」が起き「世界核戦争」と体験しないと、その恐怖や愚かさを
理解できない国民ならば、あまりに悲劇だ…
大島渚監督・音楽の坂本龍一など、既に鬼籍に入った人は、かなり多くいる。
今の報道番組で、左翼系のキャスターやコメンテーターの「世界平和」への
コメントを聞いても、今の若者世代には響こうとしない。
映画の主演に、ビートたけしがいる。 テレビの知識人の言葉は聞かなくても、
ビートたけしの言葉なら聞く若者は、まだ多くいる。
昭和のビック3と言われたた「タモリ」「明石家さんま」「ビートたけし」の中で
「平成」「令和」と時代を2つ越えても、ビートたけしだけは
まだ多くのレギュラー番組を抱えている。
何年かしたら、つまり今の小学生が中学に上がった時は、ビートたけしの
言葉すら聞かなくなるかもしれない… だからこそ、今のティーンエイジャー達に
この映画を贈りたい…
日本映画での戦争物と言えば、爆撃で人や家が焼かれたり、死体を山積み
されたりとの描写が多いが、この作品は日本軍が南の島で捕虜を大量に
施設へ監禁している物語。
タイトルに「戦場の…」とは付いていても、派手な銃撃戦などは無く、
静かに、そして残酷に人々の物語は描かれる…
大島渚監督が、この映画で起用した2人の天才が「世界の北野武」
「世界の坂本龍一・音楽」と、世界の映画界を変えて行った…
特に、坂本龍一が作曲した、この映画のメインテーマを聴いた事が無い人は、
絶対に一聴すべきである。
惚れちゃう
本業ではないからこそ。
八絋一宇、規律と温情のはざまを彷徨い名曲に酔いしれる。
映画館で観るのは初めて。その昔、テレビで観た時はまだ子供で今ほど深く感じることはできなかった。雰囲気の素晴らしさだけを感じていた。
大人になってスクリーンで観て、じーんと込み上げるものがあった。
八絋一宇の書が飾られている場所で裁きが行われる。
天下はひとつの家、そのための規律は守らねばならない。
がんじがらめだ。 今、宮藤官九郎がドラマ「不適切にもほどがある」で昭和50~60年くらいの時代の不適切さを描いているが、この映画の40年代は今の令和に観るとほんとにほんとに不適切にもほどがある×10レベルだ。
暴力に、公開処刑、行という名の48時間絶食、美徳であった切腹、生き埋めまで。
だが規律は守らねばならない心の攻防戦。デヴィッド・ボウイのセリアズにひと目で心を撃ち抜かれた坂本龍一のヨノイの心の葛藤が静かに静かに描かれていた。
軍人全てが心を押し殺し厳しい表情をしている中で、ビートたけしのハラの笑顔が際立っている。このコントラストが素晴らしい。
この映画の見せ場となるハラが酔ってメリークリスマスと言うシーンは最高だ。このヘラヘラした感じは喜劇人たけしにしか出せない味わい。
トム・コンティのローレンスの女とのひと時の回想、まるでタバコを買いに行ったのを待っていたかのようにその場にいたという語りは、女の姿は映像になっていないのに鮮明に目に浮かぶ。
その後のセリアズと弟の物語がまた美しい。ボーイソプラノが美しすぎる。
規律があるのは日本だけではない、男子校の代々の習わしもおぞましいくらいに不適切だ。だが当時は耐えねばならなかったのだ。耐えてこそ美徳だったのだから。
自分に気持ちがあるのわかっていて殺される上官をかばいに出ていきヨノイに2度キスをするセリアズ、カッコよすぎる!そりゃヨノイ、卒倒するわ!
そのあとの細かなシーンは描かれなかった。
ヨノイがかばっても、その後のセリアズが許されることはなかった。生き埋めはハラキリよりしんどいぞ。悲しい悲しい結末。
数年後のローレンスとハラの再会のシーンが泣けた。
間もなく死に向かうたけしの笑顔がすべての闇を救ってくれる。救い主だ。潤んだ瞳を見たら泣けてきた。
背後には美しい音色。こんな曲どうやって作ったんだろう。いつまでもいつまでも脳内ジュークボックスで無限リピートしながら帰路に着く。
大島渚の世界観、堪能いたしました!
彼我の立場を超えた関係性の美しさ
<映画のことば>
私の過去は、私のものだ。
兄も弟も多感な少年時代に、弟との関係性を上手く築けなかったことが、セリアズのその後を、ずっと規定して来たように、見受けられました。評論子には。
バタビアの軍事法廷でも、審判官の質問は当然に軍歴や軍人としての行動歴についてということだったのでしょうけれども、セリアズが頑なに自分の過去を伏せたのは、そのことがあってのことと思います。評論子は。
その法廷で、ヨノイが彼を特別の存在を感じたのも、おそらく…たぶん…飽くまでも評論子の憶測なのですけれども、ヨノイにも、同じように、何か過去に規定されて、それまで長じてきていたからではなかったから、ではないでしょうか。
そして、そのとき、セリアズもヨノイに同じような存在性を、実は(暗黙のうちに)感じ取っていた-。
そう考えると、後に、ヒックスリー俘虜長がヨノイの名簿提出の命令に、のらりくらりと従わなかったことの腹いせに、病人を含む捕虜の全員を炎天下に整列させるという無茶を彼が命じたときに、熱くなっている彼に静かにセリアズが歩み寄り、まるでだだっ子でもあやすかのように、静かにヨノイをハグして、彼の両頬にキスをした意味も、理解できるように思われます。評論子には。
(それは、もちろん、ホモセクシュアル的な意味ではなかったことは、明らかだと思います。)
お互いに異文化の中にあり、戦時と平時との違いがあり、また支配者と被支配者との違いがあったとしても、お互いの存在性を暗黙のうちに認め合う関係の美しさというものは、普遍的だったということでしょうか。
佳作であったと思います。
(追記1)
<映画のことば>
ヘンな顔だ。
だが、目は美しい。
概して彫りの深い顔が多い欧米人にしてみれば、日本人(東洋人)の平たい顔は、ヘンに見えるのかも知れないと思いました。
その背景には、夜な夜な道場で気合いを入れている掛け声が、収容されている捕虜たちの耳には、異様な叫び声として聞こえていたことも、背景としてはあったのかも知れません。
もともと、「生きて虜囚の辱(はすか)しめを受けず」と兵卒・下士官を教養してきた日本軍にしてみれば、捕虜を待遇よく扱うことは、建前として、できなかったのかも知れません。
英米兵の捕虜の目には、さぞかし「虐待」として映ったことでしょう。
日本とて、日清・日露の両戦役を戦い抜いており、その際は捕虜の取扱いが人道的だったとして、国際的には高い評価を受けていたとも聞き及びます。
ですから、決して「捕虜の扱い方」を知らないわけではありますまい。
しかし、いつから、そしてなぜ、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」と考えるようになり、当時の軍歌の歌詞のように「敵の屍(かばね)と共に寝て、泥水啜(すす)り、草を喰(は)み」などという、無茶な戦い方をするようになってしまったのでしょうか。
(追記2)
<映画のことば>
「あの若い東條は気づいていないよ。」
「彼らは馬鹿ではありません。戦局が不利なことは、奴らも知ってる。」
「2ヶ月で終戦だよ。」
日本にとっては、最初から無理して始めた戦争であることが、開戦間もないこの時期(1942年)から、もう既に、暗く重たい影を落としていたように思われます。評論子には。
当時の政府は「勝っていられても、せいぜい最初の半年くらい。その間に、なるべく有利な条件で講和をする」という戦線不拡大の方針をとっていたといいます。
しかし、この方針に反して、「八紘一宇」などと勝手な御託を並べ、いわゆる「五族協和」「大東亜共栄圏の建設」という熱に浮かされた軍部が、無理を承知で戦線を拡大したこと以外に、この戦争の敗因は求められないと、評論子は思います。
(当時の軍部は、政府とともに天皇の大権を輔弼(ほひつ=補佐)するということでは、政府と対等な立場であり、政府の方針に必ずしも従う必要はなかった。
(今の自衛隊が政府=内閣総理大臣の指揮下にあり、いわば「政府の軍隊」であるのとは、大きく違った。)
ある種の軍事クーデターであったとも、言えるかも知れません。
そのせいか、折に触れてヨノイの執務室に掲げられていた「八紘一宇」のお題目の額も、評論子には、目に付きました。
これは「天下を一つの家のようにすること」または「全世界を一つの家にすること」を意味する語句で、太平洋戦争中は、日本の東南アジア諸国への進出(侵略)を正当化するためのスローガンだったもの。
その理想の下では、一兵卒のとりまとめという立場上は「鬼軍曹」に徹しなければならなかったハラ軍曹の、戦後は仏門に入り、最後シーンの何とも晴れやかな、吹っ切れたような(酔っ払っていたクリスマスを除いては、それまでの作品中では見せたことのない)柔和な笑顔が、評論子の脳裏に焼きついて、消えません。
(追記3)
本作は、坂本龍一が音楽を担当していただけあって、ある種の哀調を感じさせる映画音楽の素晴らしさが思われました。
もちろん、いわゆる「戦争映画」なのですけれども、本作は。
決して「敵・味方の垣根を超えた男同士の友情」みたいな甘ったるいものがテーマではないと思われる本作において、どことなく哀調を帯びたというのか、妖艶で耽美的な風采すら感じられるのは、この楽曲あってこそのことでしょう。
その意味では「音楽が素晴しい映画」としての評でもら決して他作に劣らない一本であったと思います。
(追記4)
しかし、カッコいいですねぇ。
本作のデビッド・ボウイは。
そう思います。
同じ男性の評論子から見ても。
別に…評論子は、特別な姓的指向だと思う訳でもありませんけれども。
「男が惚れる男」って、こんな感じなのでしょう。
いわんや女性についてをや。
「好きだったけど嫌いになりました!!」
SNSで芸能人に向けてよく言われる言葉。実は最初から好きじゃない。
映画のレビューでも「思てたんと違う」はよく見る。
勝手に理想化し失望する。
ヨノイだけ強めのアイラインをひいてる。それが気になって仕方がない。BOØWYかよ。
みんなヨレヨレなのに一人だけパリッとして、袴みたいにズボン着こなす。
要は人間離れした感じをメイクと衣装で演出してる。
ジャックもなぜか美しいと評される。カッコいいけど美しいかな?
他の捕虜から讃美歌「主はわが牧主 我はヒツジ」を歌われてる。罪をかぶって死ぬ。
キリストかよ。
二人とも神っぽい。
この二人だけじゃなく、この映画には似たものが多く出てくる。
敗戦間近の日本軍といつ殺されるかわからない外国人捕虜。
中間管理職のハラとロレンス。
恥とか名誉って言葉がよく出てくる。
お互いそれは持ってるけど、相手のそれとは意味が違ってる。
ハラもロレンスに死んでほしいと思ってる。
「俺はお前が好きだ。死ねばもっと好きになる」と言う。これは嫌味じゃない。
続きはnoteで書いてます。無論無料。
「オッペンハイマー」にトムコンティがロレンスと似た立場で出演するらしい。
誰もが戦争の犠牲者だ。
ロレンスが戦犯による処刑を翌日に控えたハラ軍曹に言った「あなたは犠牲者なのだ。」とこのセリフがこの映画のすべてのように感じる。
そう敵も味方も関係ない、この映画に登場する誰もが戦争の犠牲者なのだ。
映画作品として個性的なキャスティングもとても成功していると思いますし、坂本龍一さんの音楽がなんとも心に響きます。
タケちゃん、バウ!
よう分からんけどなあ
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たけしが鬼軍曹で、捕虜で通訳のロレンスと親しくする。
とは言え、すぐ激高してシバいたりするけどね。
まあ戦争の時代なんてそんなもんなんやろな。
やがてロレンスらは他数名の捕虜と共に独房に入れられる。
ラジオだかを持ち込んだ罪だが、完全に濡れ衣だった。
濡れ衣でも、誰かに責任をとらせて処刑すると上官は言う。
でもクリスマスの夜、たけしは独断で彼らを釈放した。
酔って上機嫌だったためだが、多分ワザとだろう。
やがて戦争は終わり、たけしは戦犯として処刑される前日。
そんな時にロレンスが面会に来てくれて懐かしく交流。
ロレンスの去り際にまたたけしが上記解放時と同様の発言。
メリークリスマス、ミスターロレンス!
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結局何が言いたいかよく分からんかったけど、
戦争の中での敵味方の間での友情ってことなのかな。
たけしがロレンスらを解放して命を救ったのは、
ロレンスが好きで死なせたくなかったからだと思う。
で最後は立場が逆転して、また同じセリフを言う。
まあただそれだけのこと。でも色々感じることはあったな。
やっぱり戦場という過酷な環境は人はおかしくする。
たけしも狂気じみてたが優しさもあり、必ずしも悪人ではない。
ロレンスを殺そうとした上官だって決して悪人ではない。
むしろ両人とも、男気を持った人物だったと思う。
なのに戦争はそんなものも歪めてしまう、最大の悪。
避け続けていたけど…
色々考えさせられた作品
BSで録画視聴。
作品を観て、色々考えさせられた。
戦争のリアル、悲しさを体感できた。
今の戦争をテーマにした映画(特に邦画)は
内容が薄い印象。しかし、この作品に関してはリアルな現実が物凄く伝わった。
俳優坂本龍一は新鮮。
日本軍の愚行
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