ゆれるのレビュー・感想・評価
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西川監督作品、迫力に圧倒、脇役にも光る俳優陣
【”兄ちゃん、家に帰ろうよ・・” 西川美和監督のオリジナル脚本のレベルの高さ、映像カッティングの見事さに驚嘆した作品。】
■今更ながらであるが、下記、作品内容に触れています。
ー 恥ずかしながら、初見時の感想は”平和な日々に潜む狂気”であった。
だがその後、西川監督の諸作品を鑑賞するたびに、
”この稀有な才能を持った方は、人間の善性を信じ、映画を製作される方なのだ・・。”
という想いを持つに至った・・。ー
■感想
・序盤、且つて猛(オダギリジョー)と付き合っていた智恵子(真木よう子)が、久しぶりに二人の故郷の田舎町のガソリンスタンドで、出会うシーン。
猛の、智恵子に気付きながらも、気づかないふりをしてガソリンスタンドを後にする姿。
そのガソリンスタンドは、猛の父(伊武雅刀)が経営しており、35歳で独身の冴えない兄稔(香川照之)が働いていた・・。
- 初見時には、この時点で完全に西川監督の脚本にミスリードされていた・・。-
・そして、且つて猛や智恵子や稔たちが、父に連れられて、屡、行っていた峡谷の吊り橋のシーン。
- ここでも、西川監督は決定的なシーンを敢えて写さずに、観る側に判断を委ねる。私は、見事にミスリードされた・・。-
・稔は確かに、”鬱鬱とした感情”を抱えつつ、単調な日々を過ごしていたのだろう。且つては弟の恋人であった智恵子と共に・・。
そして、弟、猛は自分とは違い、都会で成功した写真家として、活躍していることも重々知りつつ・・。
それは、智恵子も同じであった・・。彼女の部屋に置かれた猛の写真集。
”何で、私は貴方と一緒に行かなかったのかな・・”というセリフ。
・そして、始まった稔の殺人容疑の裁判。稔に有利に進んでいた裁判であったが、猛の証言により・・、形勢は逆転する。稔の穏やかな微笑み。
<稔は、確かに智恵子に対し、吊り橋上では、”ある思い”がよぎったのであろう。だから、自ら罪を認めたのであろう・・。
だが、稔は幼き猛(稔の腕に残る傷)や、智恵子に対して、確かに、助けの手を差し伸べていたのだ・・。
今春も、この稀有な才能を有する監督の作品「すばらしき世界」が公開された。
人間性肯定の視点に立った素晴らしき映画であった。
寡作な監督ではあるが
ーそれは、非常にレベルの高い「オリジナル脚本」で勝負しているからである。ー
次作を待望している。
「分福」で、若き邦画監督の育成を是枝裕和監督と共に行う姿勢も含め、敬服している監督のお一人である。>
西川美和の代表作
すごい!兄弟の心理描写。タイトル「ゆれる」の通り、吊り橋も揺れたのかもしれないけど、オダギリジョーと香川照之のゆれる思いが見事。まるでスクリーンから客席の間の空気に心が浮かんでいるような雰囲気に包まれていました。だけど、深層心理というか彼らの真実がどこにあるのかと、掴もうとすると逃げていってしまうような・・・だけど、兄思い、弟思いという両者の熱きものが胸に突き刺さってくるような・・・絶望と希望も紙一重なんだと最後にはわかり、人を信ずることの大切さも改めて教えてくれました。
序盤から、何気ないショットだけど凝ったカメラアングルがポイントを押さえ、事件の中心となる吊り橋現場での葛藤、目撃、濁流と緊迫感を生み出す編集効果が目に焼きついてしまう。空白となった智恵子落下シーンは最後まで彼らの記憶に閉じ込めてしまうのです。「あの瞬間、実際には何が起こったんだ」と観客をストーリーにのめり込ませ、オダギリジョーと真木よう子の関係を香川照之がどう感じているのかと疑問を投げかけてくる。裁判が始まるまでの一連の流れにどっぷりとハマると、もう西川美和監督の術中に陥ってしまう仕組みとなっていました・・・
「吊り橋」と「ゆれる」という言葉が映画の中でも様々なことを象徴していましたが、あまりにも揺れすぎたため若干の謎も残してしまいます。問題となった現場は猛にはどんな風に写っていたのか・・・彼がカメラマンということもあって、見た目そのままと思われがちですが、現像し終わってからはその写真を見た印象が人によって違うもの。兄が真木よう子との関係を気づいていたと理解した瞬間から、弟のゆれていた記憶が「兄が突き落とした」と確証に至ったのではないでしょうか。
それにしても香川照之の演技は上手すぎる。弟への猜疑心を胸に秘めながら、殺人者としての今後のことを真剣に悩む。清廉潔白であることよりも罪滅ぼしのために投獄されることを望むといった自暴自棄の精神状態。面会中、弟を「人を信じない奴」と突き放す言葉だって、自ら弟とは絶縁状態にしてもいいと罪滅ぼしの一環だったのかもしれない。そして、法廷での弱々しい彼の演技はそうそう真似できるものではないのでしょうね。
形見分けとか遺産相続についてもサイドストーリーがあるような気がしてならないのですが、父・勇(伊武雅刀)と伯父(蟹江敬三)との会話で「兄さんだけいい思いをして・・・」という勇の言葉にあるように、大学は出してもらって弁護士となった兄とGSという稼業を継いだ弟がその息子たちに違った道を選ばせたという比較が面白そうです。ちなみに香川照之が東大出身ということも・・・
【2006年10月映画館にて】
撮る動機の強さ。
【心の奥底に潜むのもの】
今、この作品を見返してみても、ぼくの心の奥底に潜む闇のようなものや、弱さがつまみ出されるような感覚を覚える。
従順で真面目な稔。
自由な猛。
実は卑屈な稔。
兄の弱さを見透かす猛。
智恵子を想う稔。
智恵子を愛してもいないのにセックスする猛。
智恵子を追う稔。
智恵子を突き放す猛。
智恵子の転落死をきっかけに二人の向き合い方は変わったように思えたが、稔も猛も、事件どころか、率直にお互い向き合おうとしない。
どこか牽制しあって、間合いに踏み込めず、中途半端な状態が続くようだ。
最後、猛の証言がウソであったことが、フラッシュバックするように明らかになる。
なぜ…。
この疑問がずっと付き纏う。
この理由は、観る人、それぞれに、それぞれの過去や経験に、委ねられているのではないのか。
ずっと考える続けるように要求しているようだ。
稔はバスに乗ったのだろうか、それとも、止まっていたのだろうか。
これも、観る人、それぞれが違うシーンを思い浮かべているに違いない。
自分の心に向き合うことになる作品だ。
心情描写は秀逸
兄も弟も、どっちもイタいし、勘違いしちゃう幼馴染(女)もイタい。
いわゆる「優しい人」の兄が損をして、キリギリスみたいな弟が最後まで自分探し。
言っちゃえばけっこう不快な物語なんだけど、
最後まで引き込んで見させちゃうのは、心情描写と演出が効いているからだろうか。
特に香川照之とオダギリジョーの兄弟は本当に細やかな演技で、
キャラクターの心情を背景まで含めて表現していたように思う。
ラストシーンの兄の表情、あれは苦笑いと失笑のミックスだと思うな。
「あぁ、来たのか。でも今更かよ。」っていう。
逆に気になったのは真木よう子と蟹江敬三。
こっちはオーバーアクト気味でちょっと…。TVドラマみたいだった。
同監督の『永い言い訳」がすごく好きだったせいで、ハードルを高くしすぎたかもしれない。
香川照之の演技が好きすぎる。 こういう人、いそう。 想像ができる。...
この映画では常になにかが揺れてるらしい。ずっと、ん?突き落とした?...
自己中
揺れる橋を渡る あなた 私
心の奥の、ゆれ押し殺す、ゆれる思いが、たまると‥。
相手を思う優しさ、
嫉妬、
劣等感、
そんなもので、人間の心はいつもゆれている。古い橋を渡るときのようにゆらゆらと。
オダギリさんは二枚目弟でカッコよいが、兄の香川さんは、カッコよいとはかけ離れ、弟にコンプレックスを抱いている。溜め込んだものが爆発する、怖さ、臆病、優しさが入り混じった演技が上手い。ラスト出所した香川さんがオダギリジョーに、ニコッと笑いかけて後ろを振り返らずバスに乗って去る姿が、胸をえぐられるようになんとも言えない気持ちになった。
このとき兄弟ははじめてゆれを感じず、辛い決断を踏まえた人間に、一歩足を踏み入れたように感じた。
人間は壊れかけた橋を、揺れながらも、踏ん張りながらも、一歩一歩あるいているようなものだ。見終わったあと、なんかさびしい気持ちというか、そんな感じにおちいった
兄と弟の間にかかるつり橋
フィクションの多くは、キャラクターの台詞や言動によって、その人の心情や内面や過去を明快に表現することで、ラストへと導き、観客に問題が解決したという満足感を与える。だが、実際の生活において、必ずしも私達は自分の心情を赤裸々に吐露したり、思っている事をそのまま相手に伝えたりしないものだ。
人間の表層と深層心理には、断絶がある。そしてこの『ゆれる』という作品は、ある兄弟のそんな人間の心の断絶を、深く掘り下げた映画だった。
物語は、東京でカメラマンとして活躍する猛(オダギリジョー)が、母の一周忌の法事の為、地方の故郷へと帰ってくる所から始まる。実家では、兄の稔(香川照之)が家事と実家の稼業をこなしながら、父の勇と男二人で暮らしている。
悠々自適に都会で生活する猛とは違い、長男の稔は稼業を継ぎ、小さなガソリンスタンドで働いている。猛はそんな兄に、稼業から逃げたという負い目を感じていた。
猛は車でトンネルを通り、故郷へと向かう。それはまるで明るい都会から、どこか異界へと通じる道を進むかのよう。故郷のシーンは、主にローキーな照明で撮影され、全体的に暗い閉塞感を印象づける。これにより、故郷が猛にとって心安らぐ場所ではなく、陰鬱な所であることを、画面は示す。
稼業のガソリンスタンドには、猛の昔馴染みの女性・智恵子(真木よう子)も働いている。智恵子は最初、車のガラス越しに猛に気付くが、猛は智恵子に気付かないふりをする。二人の視線は直接交わらず、猛は車のミラーごしに智恵子を確認して去っていく。このシーンで、智恵子が一方的に猛に好意を抱いている事を、カメラは暗示する。
一周忌の後、働いている稔と智恵子の仲の良い様子を見て、猛は兄が智恵子に好意を抱いている事を見抜く。だが女たらしの猛は、智恵子を家に送る際、彼女を誘惑し、性的関係を持ってしまう。
その翌日、稔は猛と智恵子を誘い、風光明媚な渓谷へ出掛ける。暗いトンネルを抜け、渓谷という異界へ、3人の乗った車はたどり着く。
澄んだ川で子供のようにはしゃぐ稔とは対照的に、昨日の情事のせいでぎくしゃくする猛と智恵子。智恵子は故郷の生活に行き詰まりを感じており、猛を追って東京に出ていきたい気持ちを、案に漏らす。そんな深刻な雰囲気に気まずさを覚えた猛は、稔と智恵子を置いて、つり橋を渡り、一人で渓谷の奥へと写真を撮影しに行く。
すると智恵子は稔を置いて、猛を追い、つり橋を渡ろうとする。そんな智恵子を稔はつり橋の上で引き留めようと追ってくる。稔と智恵子の感情のぶつかりを、手持カメラは激しくぶれながら追う。
このシーンにおけるつり橋は、非常に暗示的な装置としての役割を果たしている。
智恵子にとって、つり橋のあちら側へ行くという行為は、猛という好きな人の元へ行くということのみならず、猛が住む東京へ出ていく決意を意味する。そしてそんな智恵子を追ってくる稔は、自由のない、故郷の行き詰まった生活の象徴そのものだ。
智恵子は稔と故郷の暗い日々から逃れようと、稔の腕を振りほどこうとする。そして一方で、智恵子のこの拒絶は、稔にとっては、稼業を継ぎ、地味に生活する自分の人生を否定されること、そのものであった。
つり橋の二人の様子を一瞥しながら、写真を撮る猛は、不穏なものを感じとるが、戻らない。だが気になり、もう一度つり橋を見る。するとつり橋には智恵子の姿は無く、橋の板の上で呆然としゃがみこむ稔の姿だけがあった。智恵子はつり橋から転落したのだと悟り、慌てて猛はつり橋へと戻る。
茫然自失の稔を見て、事件の予感を感じながらも、猛は智恵子が勝手につり橋から落ちたと思い込み、警察に連絡する。
警察から事情聴取を受け、事故扱いで処理されるようになり、猛は胸を撫で下ろす。しかし、罪悪感に堪えきれなくなったのか、稔は勝手に警察に自首をし、逮捕される。
そして、智恵子の殺人容疑をめぐり、稔は法廷で追及される。あの時、一体つり橋では何があったのか……法廷を通して、猛は自らも知らなかった兄の心の闇を覗くことになる。
物語の後半は、裁判のシーンを中心に描かれる。裁判の序盤は、被告人であるにも関わらず、カメラのピントは稔に合わずにぼやけ、背景の弁護士や検察官、傍聴席をはっきり映す。それにより、何を考えているのか分からない稔の心を、画面は暗示する。
しかし、裁判が進むにつれ、稔が猛に黙っていた事実が判明し、稔の心の歪みが明らかになっていくにつれ、カメラのピントははっきりと稔の表情を捉えだす。
都会に出た猛は、稼業を継ぎ、親の面倒を見、長男としての役割を果たしている兄の稔に、常に負い目を感じていた。稔の立場は、現代に残った家父長制の犠牲の典型のようにも見える。
しかし猛は同時に、自分は稔のようにならなくて済んだという事に、どこか安堵を覚えている。
裁判にかけられた兄を守ろうとして猛は奔走するが、ある時、そんな彼に稔は「俺を守るふりをして自分を守ってきただけだ」と、猛の欺瞞を暴く。
そして、兄弟の間に脆くも掛かっていたつり橋は落ち崩落し、決定的な断絶が、二人の間に生まれるのだ……。
物語の終盤、あることをきっかけに猛は子供時代の稔との記憶を甦らせる。
そして自分が、兄の言葉の通り、本当に兄を信じていなかったこと、なぜ兄を信じて別の可能性を考えられなかったのかと、激しい後悔を抱く。
弟と兄、二人の間に、再び橋は掛かるのだろうか……。ラストで、渡れない大きな断絶を挟んで、猛と稔は視線が合う。
そこに希望を見いだすか否かは、私たち観客に委ねられている。
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