善き人のためのソナタのレビュー・感想・評価
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国家保安局(シュタージ)が支配する1984年の東ベルリンを舞台に...
国家保安局(シュタージ)が支配する1984年の東ベルリンを舞台に、盗聴任務に従事する1人の局員の心の揺らぎを通して東ドイツの徹底された監視社会の実情と問題を静かに描いたヒューマン映画。
世間的には非常に評価が高い作品ではある。が、本当にヴィースラー大尉は『善き人』化したのだろうか?
大学の教壇に立ち学生に講義を行い、冷徹に学生の選別を行っているシーンがある。価値観が固定化しているであろう年齢の男性が、全てのキャリアを投げ捨ててまで短期間で善人化することが果たしてできるのだろうか。違和感を感じる。
大尉はもともと女優の熱烈なファンという描写もあるが、女優が盗聴対象となったので、女優の生活を守るためにシュタージの掟を破らざるを得ず、結果、女優の恋人であるドライマンを保護することになっただけ、という解釈も不可能ではない。
もともとヴィースラー大尉は『善き人』であり、その要素を隠しながら嫌々にシュタージの仕事をしているという描写があれば、解釈も変わるのだが・・・。
なお、国家保安局(通称:シュタージ)はドイツ語の Ministerium für Staatssicherheit の略称から由来している。ドイツ民主共和国(東ドイツ)の秘密警察・諜報機関を統括する省庁で1947年のK-5(秘密警察組織・第5委員部)を前身として始まり、1989年ベルリンの壁崩壊の1990年に解体されるまで続いた。ゲシュタポ(ナチス・ドイツ期の秘密警察部門:Geheime Staatspolizei)の手法を踏襲した徹底的な相互監視網を敷いて国民生活の抑圧を行った。組織解体時には9-10万人の正規職員を抱えていたとの記載がある。
対照的なふたり
信念を持って党員として任務を粛々ととこなすヴィースラーと人情味溢れる芸術家ドライマン。
利己的でお互い心を許せないシュタージの面々、一方芸術家としての矜恃に苦しみながらも結束するドライマンの友人達、権力者との密会を蹴ってドライマンの元に戻るクリスタと次の予約客の元へと足早く去る娼婦、2人の子供との接し方、部屋の内装…と対照的な描写が続く…こういう魅せ方大好き!
ヴィースラーがドライマンから産み出される愛と芸術によって、監視マシンから悪人になり切れない人間へと変化する様が静かに伝わってくる。
ラスト、誇らしげなヴィースラーの眼差しに胸が熱くなりました。
芸術に対するリスペクトに溢れた作品!
演技は目で
おさえた動き、セリフも少なく。
だのに画面からあふれ出てくるこの感情はなんなんだ。
まん丸の目が何よりも語っている。
ラストの誇らしげな眼!目です!
あの眼は一生忘れられないかもしれない。
公安の彼をかりたてたのが
たった一度だけ聴いた一曲というのも
あまりにも印象的だ。
芸術の持つ力ってそういう底知れないものがある。
この映画の二人の男のように、
直接話すことはなくても
語れるなにかがこの世界にはあるのだと
うれしく感じた。
しかし、公安の情報は本当に公表しているの?
身の安全は保障されているのだろうか…?
リアルタイムで東西ドイツの壁が壊れたニュースを見た。
その当時も衝撃だったが
この映画で登場した際には鳥肌がたった。
日本ではたしか平成元年、昭和天皇が亡くなった翌年のこと。
ヒトラーは『いまわの際』に曰わった『100年後に復活する』と。
先ずは、ベルリンが西ドイツにとっては飛び地と言う事。その点を理解すべきだ。
西ベルリンと東ベルリンと言うが、それは都市の事である。国家は東西ドイツである。多分、この主人公は、東ベルリンで生活をしている。西ベルリンと対峙しているが、しかし、東ベルリンは西ベルリンの様に壁で閉鎖されている訳では無い。東ベルリンから東ドイツの別の場所へは、国家の都合の範囲で自由に行けるはずだ。資本主義側の西ベルリンこそ、四方を壁で囲われた閉鎖社会なのである。つまり、西ベルリンはゲットー見たいな都市なのだ。その点を西側がプロパガンダしないのは何故か?それは兎も角『東西ドイツ♥』の国境は、『ベルリン』よりも遥かに西側に位置する。西ベルリンへの交通は『空路』しかない。『西ベルリンへの鉄道』は『全て閉鎖』されている。だから、人道的に許されない。また、私が想像するに、閉鎖された西ベルリン市民への監視もシュタージはやっている。東ベルリンから西ベルリンへの亡命が困難な理由もそこにある。この映画の変態爺の利己的色欲たけが巾を聞かせていた訳では無い。勿論、西ドイツ側も逆スパイの活動は行っていた。
それは兎も角、ナチスドイツが崩壊して、イデオロギー的に右側の人間は淘汰された。しかし、残った左側の人間がナチスドイツと同じ事をする。
つまり、右でも左でも東ドイツは同じ事をした訳である。しかし、同じ戦争に負けた日本はどうなったのか?左の人達が政権をにぎった気配が無い。つまり、日本は分断されなかったので、真ん中か右と言うことなのだろうか?
右も左もないとは思うが、日本人には言いたいね『人のふり見て、我がふりなおせ』って。ヒトラー見たいな人達が日本には残っているのかもしれない。
ドイツ統一がまだ40年と言うが、日本だって、まだ、75年。ヒトラーは『いまわの際』に曰わった『100年後に復活する』と。
芸術の力は絶大
ウルリッヒミューエ扮する国家保安省ヴィースラー大尉は、セバスチャンコッホ扮する劇作家ドライマンと、マルティナゲデック扮する舞台女優クリスタを監視するように命ぜられた。
壁が崩壊する前の東ドイツではやはり厳しい統制下において監視や盗聴などが当たり前に行われていたんだね。忠実に盗聴すればするほど情がうつると言うか、身が入りすぎる傾向にあるようだ。確か愛の不時着の北朝鮮でも盗聴相手に気持ちが揺らぐ場面があったよね。特にヴィースラーがファンだと言ったクリスタを目の前にして身を犠牲にしてでも何とか助けたくなる芸術の力は絶大だと言うことかな。
1回でチャラ?
無慈悲な秘密警察。
寝る時間も与えず、尋問いや、拷問。
学生に講義する時でさえ、反論すればばつ印。
常に人を疑い、信頼できるのは…?
そんな生活、さぞかし疲れるだろうなぁ、と。
最後は作家さん救ったが、それまでに捕まった人達のことを思うと、天邪鬼な自分は複雑な気持ち。
急に芸術に目覚めた?
彼女が美し過ぎたから?
1人の芸術家を救った陰で幾多の人達が消されたのかと。
悲しい歴史である。
見事なストーリー
名作
私はドイツ語は一切知らない
しかし、最後の台詞だけは聞き取ることができ、その台詞で泣いた
英語なのか、それともドイツ語でもほぼ英語と同じ発音なのかもわからない
いずれにしても本当に簡単な英語に聞こえ、素敵な台詞だった
屋根裏の常人
難しく陰湿な話かと思いきや、
秘密警察が反体制派を監視する中でだけ起こる物語
なので分かりやすく入りやすかった。
敵対する立場である秘密警察に身を置き、
随時反体制派の行動を報告しなけれざならない立場に
いながら、反体制派の身を陰ながら守ると言う設定が
まず面白かった。
ヒーローみたいに目立つ人でもなく、
影のヒーローでもない、
ただの普通の面白みのない人が主人公というのも
良かった。
反体制派の自由な思想、何にも縛られてない発想に
憧れを持ったのだと思う。
反体制派が憧れであり主人公はファンと言う立場
はまるで今で言う推し活の様。
壁が崩壊してからの物語の改修も派手にせず
だけど、綺麗にまとまっててとても気持ち良かったです。
ここでも、ファンと憧れの適切な距離感が出てて
そこも良かったなぁ。
心に残る映画のひとつ
東西に分かれていたドイツ。
監視と強制に怯える東の人々。
全体を通して散漫な印象も残るが
良くできた脚本に時間の長さを忘れる。
体制維持と保身、腐った高官へのひとことが良い。
本に印字された感謝の文字に胸が熱くなる。
心に残る映画のひとつには間違いない。
※
ジワジワ忍び寄る東ドイツの静かな恐怖
戦争やユダヤ人迫害の凄惨さと、東ドイツの抑制された静かな恐怖は別物だけど、1914年の第一次世界大戦開戦から辿るドイツの悲劇は、第二次大戦で終わらず、東ベルリンから89年の壁崩壊まで続いていたことに、あらためて気づかされた。
東ベルリンの質素で虚無な空気感と、ウルリッヒ・ミューエの気持ちが読めない表情が、その「静かな恐怖」を見事に表現しているように思う。
白と黒の間
冒頭で尋問の極意を講義しているヴィースラーが、学生から意見され、さりげなく卓上の学生名簿の名前にバツを付ける。この時のヴィースラーは、後に自分にバツが付くなど想像していない。彼は白か黒か、明確に分けられるし、その判断力に自信を持っている。まさか、白と黒の間に、たっぷりとたゆたうグレーがあるなんて!
東ドイツは社会主義だが、地位の高い人は民主主義だろうが、共産主義だろうが、関係なく利己主義である。利己党でも立ち上げればいいんじゃ? 勝ち気できれいな女が、この国のエラい自分になびかない。くそー、権力を使ってオレの言いなりにしてやる。こりゃ女、オレ様の力を思い知ったか~。いや、マジでゲスいな。
ドライマンは辛抱強い。現状、芸術表現に縛りがあると承知していても、西に逃亡しようとか、心を病むとかはない。あくまでも国のために作品を作り、発表する。穏健である。ドライマンがよく組んでいた舞台演出家のイェルスカは、仕事を干され(民間事業はないんでしょうね)、仲間内のパーティーに来ても、誰からも話しかけられずに一人読書をする。ドライマンはイェルスカを励ます。イェルスカはドライマンの友情は理解するが、すでに絶望している。そして、イェルスカはドライマンに「善き人のためのソナタ」の楽譜を贈る。
ドライマンの部屋を盗聴するヴィースラーは、最初は彼を黒だと決めてかかっていた。だけど、ピアノの音で、彼の感情は決壊し、灰色の海を泳ぎ始めた。そして、危険を承知でドライマンを守った。自分を犠牲にして。バツ印を付けられたヴィースラーは、以後、国家から見向きもされない。ラスト、自分への謝辞が印刷された本を、自分のために買う。その表情は変わらないが、心の中には美しい調べが満ち満ちているかもしれない。
監督は、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク。30歳前でこんな重厚な作品を撮れるなんて、人生5周めだろうか。すごいの一言。ちなみに身長2m。貴族の末裔。またまたすごい。
BS松竹東急の放送を鑑賞。
現代でもあるんだろうな
映画の素晴らしさが詰まった作品。東西冷戦時の東ドイツにて監視する者とされる者、そして関わる者の苦悩や葛藤を描いている。
エンディングは静かに、少し暖かく、心が震える結末となっている。
僅か40年前の東ドイツで
冷戦時代の東ドイツ、シュタージ( 国家保安省 )職員ヴィースラー大尉を演じたウルリッヒ・ミューエの抑えた演技に引き込まれた。
翻弄される女優クリスタ( マルティナ・ゲデック )に心を痛め、芸術家に対する思想統制に苦悩する劇作家ゲオルクをセバスチャン・コッホが好演。
ウルリッヒ・ミューエの憂を帯びた瞳…ラストシーンが沁みる。
ー感謝を込めて
HGW X X /7に捧げる
BS松竹東急を録画にて鑑賞 (吹替版)
権力を持つ人の欲望は醜い
監視社会での権力者・ミッションを与えられた人・一般人
何の罪もないのに、悪に加担させられるてしまう。
自殺者が多い理由。
正義を貫き通す自信が私にあるのか?
私は社会派なストーリーが好きみたいです。見応えあるある。
東ドイツの監視・密告社会を自己批判と救済の視点から総括
ドイツは第二次大戦中はユダヤ人ホロコーストを行い、戦後は東側で歴史上類を見ない徹底的な国民監視・密告社会を組織していた。ともに世界史に残るおぞましい事実である。
ホロコーストについては、世界各国で原因を分析し批判する映画がつくられてきたが、監視・密告社会についてはそのような総括モノがあるのかどうか、よくわからない。恐らくかなり少ないのではなかろうか。本作は、そうした監視・密告社会の総括、自己批判を企図した数少ない映画の一つだ。
映画は秘密警察(シュタージ)職員の監視担当者を主人公に、毎日規則正しく生真面目に、淡々と個人的感情も交えず作家とその恋人を盗聴し、監視し続ける日常を描く。周囲の住民からは嫌悪され、性欲は売春婦で処理する最低の生活を送りつつも、彼は党と国家のために自分の生活のほぼすべてを監視に捧げるのである。
監視の結果、体制批判の証拠などが分かると、例えば優秀な演出家でも仕事を剥奪された挙句、自殺に追い込まれる。自殺者が多いので、国はある年から自殺者の統計発表を停止してしまうほどだ。自殺しないまでも、秘密警察に睨まれたら反体制的な人物も震え上がる。
秘密警察の上司は、そのような人物は数か月、収容施設に閉じ込めれば、もう何も言わなくなると自信たっぷりである。
ところが主人公は、監視し続けた作家カップルに知らずに影響され、好意ばかりか憧れのようなものを感じ始める。ミイラ取りがミイラになってしまったわけだ。その結果、監視報告に虚偽を記載するようになり、作家が反体制グループと協力して西側に機密を暴露すると、それをむしろ隠蔽する努力を払う。
むろん機密が暴露されれば、当然、作家たちに嫌疑がかけられ、主人公にも疑いの目が向けられる。その中で作家の恋人は国家幹部に身体を委ねたうえ、最後には自分を守るため、作家が機密を暴露した証拠の隠し場所さえ明かしてしまう。作家を売る密告屋と化すのである。監視社会の怖さがひしひしと感じられるシーンだ。
ところが主人公はその証拠までも隠蔽してやり、その結果、作家は逮捕されない代わりに、自分が懲罰的な業務部門に追いやられてしまう。
ベルリンの壁が崩れたのはそれから4年半後だった。映画は主人公の内面など何一つ、説明しようとせず、統一ドイツでチラシ配りで細々と生計を営む主人公を映す。他方、作家は自分が逮捕されずに済んだ陰に主人公の計らいがあったことを知り、監視社会を告発する書籍の巻頭に彼への謝辞を捧げるのだった。
映画を通じて浮かび上がってくるのは、東ドイツの監視・密告社会を自己批判する視点と、自己を犠牲にして監視対象を守ろうとした人物を描くことにより救済を希求する視点である。
この社会に対する総括の視点として、それで十分か否かは議論の余地のあるところだろう。監視と密告社会は国民全員の相互不信を招いたであろうに、その割に安易に救済されてしまっていいのか、という気がしないでもない。
【”シュタージ盗聴者HGW XX7が盗聴メモに残さなかった事”1984年、東ドイツを舞台にした、恐ろしくも切なきヒューマンドラマ。言論、思想の自由の大切さを、今一度感じさせる作品である。】
■1984年、東西冷戦下の東ベルリン。国家保安局“シュタージ”の局員・ヴィースラー(ウルリッヒ・ミューエ)は、反体制の疑いのある劇作家・ドライマンの監視を命じられる。
国家に忠誠を誓ったはずのヴィースラーであったが、仕掛けた盗聴器から聞こえてくる彼らの自由に芸術、舞台に関し、会話する声に共鳴し…。
◆感想
・劇中でも描かれているが、1984年と言えばベルリンの壁崩壊の5年前である。そんな中、本作では旧東ドイツのシュタージによる諜報活動が描かれる。
ー 劇的でもなく、あくまでも淡々と・・。-
・ヴィースラーはドライマンの恋人で、女優のクリスタと彼とのSEXも無表情に聴いて、メモを残す。あくまで、機械的に。
ー だが、ヴィースラーは後にクリスタが薬物依存をシュタージに指摘され、ドライマンを裏切る行為をしたときに彼女に掛けた言葉”今の貴女は、本当の貴女ではない・・。”という言葉に彼に人間性の豊かさ、優しさを感じてしまう。-
・ヴィースラーはある日、ドライマンが尊敬する劇作家で、国家から活動を中止されていたイェルスカの自死を知る。彼は、ドライマンに”善きひとのためのソナタ”と、名付けられた楽譜を残していた。
ー その楽譜をドライマンはピアノで弾く。美しくも哀しい曲である。そして、ヴィースラーは日の当たらない監視室で、その曲を聞きながら、涙を流している。
この映画の名シーンの一つであろうし、彼が西側の文化、人の自由な生き方に感動したシーンであろう。-
<今作を観ると、共産思想に染まった真面目な人間が、西側の思想に傾倒する人たちの会話を盗聴する中で、音楽、文化を楽しむ人たちの”声”に感化されて行く姿が、淡々と描かれている。
ベルリンの壁崩壊後に、ドライマンが出版した”善き人のためのソナタ”を書店の店頭で見つけたヴィースラーが、その本を手に取り、裏表紙に書かれていた”HGW XX7に捧げる”という献辞を見るシーン。
彼は本を手に取りレジに向かい、店員に”これは私の本だから・・”と答えるシーンも沁みる作品である。
言論、思想の自由の大切さを今一度感じさせる作品である。>
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