「公園のベンチで「魔術」という本を読んでいる図書館書士のジュリー(ド...」セリーヌとジュリーは舟でゆく りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
公園のベンチで「魔術」という本を読んでいる図書館書士のジュリー(ド...
公園のベンチで「魔術」という本を読んでいる図書館書士のジュリー(ドミニク・ラブリエ)。
目の前を若い女性が駆け抜けていく。
彼女(ジュリエット・ベルト)はサングラスを落としていった。
追いかけれども追いつかない。
次に薄手のマフラーを落としていく。
やはり捕まらない。
遂に彼女は小さなホテルに駆け込んだ。
ふたりの出逢いは、これで終わりではなく、始まりだった。
彼女の名前はセリーヌ。
しけたマジックを披露する魔術師だった・・・
といったところからはじまる物語で、瑞々しいといえば誉め言葉で、なんだか素人じみた画と繋ぎではじまる。
ここまでほとんど台詞らしい台詞はなく、すぐに「しかし、翌日・・・」と字幕が出ることから、「ははん、こりゃサイレント映画のもじりだねぇ」と納得しました。
その後も、勤めに出たジュリーのもとへ、子どもの頃のボーイフレンドから電話がかかって来、十数年ぶりということでセリーヌがジュリーに「なりすまし」て出かけることに。
ここでもズンダラなお笑いが繰り広げられるのですが、この「なりすまし」は、その後、ジュリーもセリーヌになしすましてステージに上がったりして、この映画のテーマのひとつということが後々判明します。
で、なんやかんやで、セリーヌから告げられたお邸へ向かったジュリーはそこで不思議な体験をする。
が、そこでの出来事は、玄関の扉が閉じられた後は描かれず、ふたりの幻視という形で描かれていきます。
それも途切れ途切れで。
ここのところがわかりづらく、彼女たちふたりは何かを体験したのか、それとも単に観ただけなのか。
この「観る」という行為と「体験したかどうか不明」というのも、この映画のテーマのひとつで、これは映画の観客、演劇の観客のもじり。
幻視を観はじめたふたりのリアクションは、当初は「観客」とはかけ離れていて、それも途切れ途切れなので、観客のイメージから遠いのだけれど、幻視を観るためのモチーフが飴玉(ボンボンと言っているが、大阪弁のアメちゃんに近い)。
飴玉は、劇場へのチケット。
邸にはいったら、何が中で行われているのかは「外から」は見えない(これが、ふたりの実世界では邸の入り口だけしか描かれない理由ですね)。
最終的には、ふたり横並びで、スクリーンか舞台を観るような形で幻視を観ることになり、ふたりが正面を向いて観客と相対している構図となる。
そうすると、当初、ふたりが途切れ途切れに見る幻視は・・・「ほら、そこのあんた、ちょっと今、居眠りしたでしょ?」とでも言っているかのよう(実際、隣の観客は舟をこいでいた)。
最終的には、セリーヌとジュリーのふたりは幻視の世界に飛び込んで、少女を殺人事件から助け出すことになるのだけれど、そこでもひと捻り。
邸の中でのふたりの役割は看護婦。
ふたり以外は、これまで見てきた幻視の内容どおりに同じ動作を繰り返すが、ふたりは現実世界からやって来たので、まったく異なる動きをしても可。
その上、ひとりの看護婦の役柄をふたりで交互に演じている。
「なりすまし」は、取り換えが効くということでもあり、これは俳優と役柄の関係と同じ。
さらに、ふたりが飛び込んだ幻視邸内では、登場人物たちは「白塗り」をしており、動きがまるでゾンビのよう。
特に、児童遊戯「ワン・ドゥ・トロワ」(日本では「坊(ぼん)さんが屁をこいた」または「だるまさんがころんだ」と呼ばれる)のシーンは爆笑必至。
セリーヌとジュリーのふたりは少女を救け出し、舟で進んで、めでたしめでたし・・・
だが、邸世界のひとびとも白塗りのままも舟でやって来、さらにはこれまでの話が夢だったかも、と冒頭の追いかけっこが、今度はセリーヌがジュリーを追いかけていきます。
物語はエンドレス、現実世界と異世界は地続き、その入り口は劇場、たまには、舟を漕ぐのもOK。
そんな映画ですね。
にしても、3時間10分は長い!
そんな長いのに、エンドクレジットは超短い!