「キャッチ・ヒッチコック・イフ・ユー・キャン」セブン rokaさんの映画レビュー(感想・評価)
キャッチ・ヒッチコック・イフ・ユー・キャン
僕にとって、あらゆる意味において特別な映画。
中学三年のときに初めてまともに観たサスペンス映画が『セブン』でなかったら、マジな話、僕の人生はずいぶん違うものになっていたはずだ。
この映画は、僕が初めて本気で好きになった映画でもあった。思えば人生のその時点において、僕の映画への嗜好は基本的な方向性を決定づけられたのだろう。
僕にサスペンス映画の楽しさを教えてくれたのはデヴィッド・フィンチャーであり、その傾向を加速させたのがヒッチコックだった。
『セブン』のおかげで、僕は猟奇殺人を扱ったサイコ・サスペンス映画をレンタルビデオ店で見つけると反射的に借りる特異体質になってしまい、掃いて捨てるほどのクズ映画を観るはめにもなったのだが、その負を補って有り余るほど、この映画は素晴らしい。
何十回観たかわからないし、語りつくせない魅力を感じる。
まず、やけに暗い部屋、完璧なカットの切り返し(特にブラッド・ピットとモーガン・フリーマンが酒場で語るシーンの両者の切り返しは奇跡的に美しい)、ポイントで降らせる雨、湿った質感の闇の美しさと、図書館の緑のライトに象徴される逆説的な光の存在感、恐ろしいほど正確なカメラ・ワークという、この時点で既に完成と言って然るべきフィンチャー・アプローチ。
ベテランと若手、王道ながらも完璧な、ピットとフリーマンのキャスティングの楽しさ。過度に踏み込みすぎず、しかし的確に人間を映す、キャラクター描写の巧みさ。
描き方によってはいくらでも単調になり得たはずなのに、巧みに操作され、終始弛緩を許さない流麗なプロット。
七つの大罪、七日間の捜査、それが「怒り」の罪で完結する「セブン」の様式美。本作のラストは、とってつけたようないわゆる「ラストの衝撃」的なそれではなく、大胆な結末を見事に作品の様式美に回収した。その上で、誰しもが肯定せざるを得ないような激烈な感情に身を任せた殺人を是とするか否かという究極の問いを、さりげなく観客に突きつける、サスペンスとしての心地よい底意地の悪さ。
本来リアリティーもクソもないはずの犯人像を、力技で押し切ったケビン・スペイシー=ジョン・ドゥの圧倒的に完成された異常な説得力。
一方で、やけにリアルな登場人物たちの「日常」、極めて自然でありふれた「切実」を提示する、その神がかり的なバランス感覚。例えば、バーでフリーマンに語るピットの迷いと若い意志力。「あんたはそう(世の中が最低だと)思うから引退するんじゃない。引退するからそう思いたいんだ。けど、俺はそうは言わない。言えない」。あるいは、ピットに尋問を受けた風俗店経営者の、「こんな仕事で楽しいか?」という問いに対する答え。「いいや。楽しかねえ。それが人生だろ。違うか?」。そして、ピットの妻に妊娠を告げられたフリーマンの過去。「その日、生まれて初めて怖くなった。『こんな世界に子どもを生むのか』と。それで、彼女に『よそう』と……正直、今でも思うが、あの決断は間違っていなかった。ただ、もし違う決断をしていればと思わない日は、一日もない」。
そして何よりも、おそらくヒッチコックを神と崇めるであろうデヴィッド・フィンチャーという若き男が紡ぎ出した、精密で、破壊的で、暴力的で、魅惑的に美しいカットの力。
ヒッチコックの時代であれ、我々が突き抜けたSF技術を獲得した現代であれ、映画の根本にあるのはカットの力だ。
何もかもが、完璧だ。僕はサスペンス映画というものに、これ以上は何も望めない。
僕は二十歳のときに、こんなメモを残している。
「現代サスペンス映画は、『セブン』でヒッチコックに追いついたのだと思う」。
未熟なメモではあるが、その考えは、今でも変わっていない。