ウイークエンドのレビュー・感想・評価
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革命を企図したゲリラ戦
ジャン=リュック・ゴダール監督作品。
「俺は現代に文法の終わりを告げに来た
夜明けが来た
あらゆる分野 特に映画の分野に」
若い男女がブルジョワの資産強奪を企てる週末の物語であるはずで、それをドキュメンタリー的手法で描くのだが、随所に「おとぎ話」が挿入され、最終的にはゲリラ戦になる意味が分からない(好き)作品。
上述の言葉通り、映画の文法を終わらせようとしている。車が事故に遭い、転覆するように、映画を事故らせ、転覆させている。例えば劇伴について。序盤の女の性的な語りに劇伴が挿入される。しかしそれは過度とも言える挿入で、観客の感情を高ぶらせるといった効果を発揮しない。むしろ耳障りな雑音でしかない。
また本作は一貫して引きの画で長回しが多用されている。それは演出を施さないドキュメンタリーな様子であるが、車の渋滞シーンでは渋滞を待つ人々の多様な動きが観察されるし、渋滞の長さーその舞台装置の準備の凄さーに圧倒されてしまう。さらに「アクション・ミュージカル」の8分尺の長回しではカメラが縦横無尽に動き、それに合わせて役者が動き、ピアノが鳴るのだから凄い。スタジオ撮影の劇を放棄したかにみえて、むしろそれ以上に演出をし、劇を生みだしている。だからかつての文法に終わりを告げるとともに新しい文法をつくりだしている。
さらに終盤のゲリラシーンで突如として挿入されるクローズ・アップのショットは、撃たれ死にゆく女の顔を映すのだが、その顔は主人公の女ではない全くの別人である。この「編集のミス」は、映画はたかがイメージであることとそれでも私たちはイメージに感動してしまうことを暴くのである。
かつての映画を葬り、革命を企図したゲリラ戦。この戦いの勝敗は、ゴダールが後の映画に多大な影響を与えたのだから言うまでもない。
資本主義で明確になった階級。欲望を肥大させる上流階級の人々。性、高...
資本主義で明確になった階級。欲望を肥大させる上流階級の人々。性、高級車(ブランド志向)。
資本主義の成れの果てには、いつも苛立っていて、虚栄心にあふれた人間の姿があった。自分勝手で、効率がよいことばかりを考えている(それが逆に渋滞を引き起こしたり、ケンカが始まったりして全然効率的ではないのだけれど)。
そうすると、すこし立ち止まって考えることを拒むようになり、道中で出会ったアリスを焼き殺してしまう。物語の死。
物語が滅びた後に残ったのは不条理の世界だった(※1)。そのうちに、文明を失い、狩猟と弱肉強食の世界に回帰する。
最後のシーンは、夫の肉が入った料理を超然と食べる女の姿が描かれる。「あとでおかわりするわ」と超然と言い放つ。
人間は文明を失っても、たくましく生きていけるみたいだけれど、わたしは、物語のある世界がいい。「FIN」が表示された後、「物語の終わり」「映画の終わり」と表示された。つくづくこの「ウイークエンド」で描かれた世界がフィクションでよかった、と思うと同時に、世界の物語的なものすべてが、終焉を迎えるという意味じゃないといい、と思ったりもした。
※1 労働階級の人々の思想の独白が印象的。上流階級は物語を殺して、文明を失っていくけれど、労働階級には希望が残されている、ということなのかしら、
強烈なメタファー
他作品と比べなかなか鑑賞の機会がなく、有名な移動撮影を是非みてみたいと思っていましたが、今回漸く思いが叶いました。そして何故今まで出会う機会がなかったのかその理由もわかりました。
1967年8月に、ゴダールはアメリカ映画が世界を席巻し君臨することを強く批判し、自らの商業映画との決別宣言文を発表したわけですが(Wikiより)ゴダールはこの作品を1967年9月から10月にかけて、パリとその近郊で撮影しています(E/Mブックス「ジャン=リュック・ゴダール」)。なのでその作品のテイストは、必然的に、商業主義や資本主義に批判的である政治的な色彩を強くおびることになっているのも良く理解できました。
贅沢三昧・愛人との性的快楽だけを夢見ることだけで結ばれている仮面夫婦。そして有名な移動撮影で延々と映しとられていたのは、労働者たちが、週末にささやかな郊外での休息を求めてドライブに出かけながらも、交通事故や怒号や警笛で、騒然とした渋滞に巻き込まれてしまう、そんな地獄絵図でした。血の海の中多くの死体が横たわる間を抜けて、主人公夫婦はそんなことはお構いなく、とある計画を実行するため、車列を無視し追い越し運転してゆきます。そしてその先には・・・
つまり、当時のゴダールは、モータリゼーションも含めた過剰な消費システムを持つ資本主義社会において、実際に行われていることを、誇張し、悲劇的かつ喜劇的なメタファーとして描こうとしていたのだと思いました。1%の金持ちのために99%が犠牲になっている世界を。そして1%が望んでいるものが本質的にはどういうものなのかを。表現は過激の限りをつくしていて、一部正視に耐えないものもありましたが、それは当時のゴダールの問題意識や怒りが強烈故だったのだと思います。
私は必ずしも最近のSDGsの潮流の中で勢いを増している資本主義全面否定論者ではありませんし、渋滞は嫌ですけど休日のドライブは割と楽しみだったりします^_^。でも誇張されたそのメタファーには多分現代においても、いや現代においてなお一層一部真理が含まれているのだろうなと思います。
確か経済学者の宇沢氏だったでしょうか、クルマ社会はある意味環境資本の犠牲や交通事故犠牲者の上に、そして渋滞という不経済と不快の上に成り立っているので、トータルのコスパは宜しくないという、主張もあり、資本主義社会の象徴の様に言われる事もある様です。なのでメタファーが強烈であり鮮烈であるが故に、作品としての価値は高いのではないかと思いました。
それにしても、こんな映画を商業映画として撮ってしまうゴダール。やはりすごいです。
不条理な社会を告発したゴダールの不条理映画
新しい映画の旗手、ヌーベルバーグを追い続けるジャン=リュック・ゴダールの不条理映画の傑作。作家の夢想する断片の記憶を脈絡なくそのまま映画作品にしたような、自由で奔放な、大胆で独善的なストーリー。週末のレジャー現象に多発する交通事故の悲惨なシーンは、人間の死そのものがドラマチックではなく、燃え上がる車の炎だけが生命感を感じさせる。コリーヌとロランの放浪の旅は、奇妙な夢幻の世界に行き着き、政治批判と文明批評の論理的ユーモアの、完全にゴダールの占領地へ。最後は森林地帯に棲息するゲリラ集団の反倫理の結末。シュールもここまで徹底されると、ゴダールの精神世界の怪奇さは難解であるが、表現者として恵まれた地位にあることも事実。ゴダールにしか作れない、ゴダールだから許せる社会批評であり、孤高の作家の疎外感からの告白論と云えるか。
ジガ・ヴェルトフ集団結成前夜?
官能小説を読んで語っているような冒頭に滑稽な交通事故での争い。
旧車好きには堪らないヨーロッパの古い車が永遠に。
至る所で大破した車に死体がゴロゴロ。
中盤以降、やはり物語はあっても?なくても?
奇妙なロードムービーであり喜劇だ。
とにかく最低最悪な性格悪過ぎなカップルの珍道中でゴダールらしさはエグい位に健在。
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