劇場公開日 2003年1月11日

「運命じゃないぞ」運命の女 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5運命じゃないぞ

2021年11月25日
PCから投稿

ものごとには程度があって、たとえば不倫にしても、なんとなく許せるのと、えげつないやつ──があるが、こじんてきに不倫にたいして、世間様ほどには発憤しない。

ところで「ネットの声」は狭い見識ではなかろうか。いわゆる世間様と「ネットの声」はおなじものではない。と思う。

たとえば小室さんの件における「ネットの声」は一様に非難ごうごうで、擁護なんてひとりもいなかった。が、どうだろう──わたし/あなたの身の周りでふたりを誹ったり罵ったりしていたひとはいただろうか。ほとんどの一般庶民は、まったく関知しないか、または、連日マスコミに追いかけられて気の毒だねえ──と同情していたはずである。

ふたりの結婚劇に主体的ないきどおりを持ったり、まして血税とか言っちゃうひとなんて、ごく稀なひとだとみていい。

(ただし、人知れずあげる声が「ネットの声」ではある。
実生活の現場では、ぼくはなんにも知りませんよ──という態度や顔をしておきながら、がんがん言っちゃうのがインターネットです。
わたしも、映画なんか見ないしまして映画評なんか書くわけがないじゃないですか──みたいな態度や顔をしておきながら、人知れず、辛辣評を書き連ねている。(→さびしいやつです。))

同様に、不倫(たとえば)ベッキー東出昌大渡部健・・・に対して「ネットの声」はすごく怒り、かつ怒り続けているが、一般庶民は芸能人の不倫に「へえ」と思うのがふつうであろう。と思う。だいたいなんの関係もない。

とはいえ腹に据えかねる、のもある。
政治家もしくは元政治家で宮崎某と金子某という夫婦がいる。
記憶ベースだが宮崎さんが金子さんの妊娠中にうわきをして文春砲を浴びた。そこから宮崎さんはうわきをする専業主夫のブランディングをして、金子さんはうわきを許すキャリアのブランディングをして、バラエティで笑いをとっている。

冒頭に、ものごとには程度がある──と言ったが、わたしの主観では、宮崎某のうわきは東出昌大のうわきよりもずっと「えげつないやつ」だった。

(渡部健にしたってマスコミは多目的トイレを面白おかしく揶揄したが個人的には多目的トイレでやったのを世間様に釈明したことで渡部健の禊は済んだとみている。(もしわたし/あなたが秘匿したい情交の現場を世間様に晒さなきゃいけないとしたらどうするんだ──それを白状させるのは下世話すぎる、というよりゲスすぎる。(言うまでもないが)多目的トイレでQuick Fuckするよりもそれを取材することの方が何倍もゲスい、たんじゅんに放っといてやんなさいよ、という話。))

ところがそのあとのブランディングによって宮崎は「うわきをしてしまうダメな夫」というキャラクターを確保した──わけである。

いっぽう東出昌大(ベッキーも渡部健も)は叩かれ続けている。し、(寝ても覚めてもを見て)好ましさと希少性を感じた女優唐田えりかもレッテル貼られてしまった。

人様のことは知らないが、わたしは「うわきをしてしまうダメな夫」などというキャラクターは認容できない。

世の中には「おまえってやつはしょうのないやつだな」という一種の可愛げによって、違反や不法をまぬがれてしまうシチュエーションがある。
社会人になったばかりのころ、わたしはじぶんの失敗を「しょうのないやつ」に見せようとして怒られた。その怒りは消えないトラウマになっている。
言っていることがわかるだろうか。会社で何らかの失態をする。それを繰り返す。すると「また、あいつか」になって、ときとしてそれがキャラ化する。ことがある。あたかも学生時代のように。
しかし大人になってから、子供や学生のように、やらかしておいてテヘペロをすると、まっとうな人間社会では、信用されなくなる。それ以前に干される。
宮崎某は定期的にうわきをして、そのたびにテヘペロで公に出張るキャラクター。そんなのが許されていいの──という話。

てなわけで、ものごとには程度がある、が、芸能界には程度をしのぐ位相がある。泳ぎ方やポジションによって、叩かれたり、まぬがれたり、あるいはキャラ化したり、もある。

せんじつ、出家した女流作家が亡くなったとき、ネットは冥福を祈りつつも非難ごうごうだった。かくゆうわたしも好きではなかった。業に満ちた人生はともかく、いいかげんで内容のない発言しかしない人だった。若い人に「たくさん恋をしなさい」とか、スッカスカの愚にも付かないアドバイスをする人だった。

個人的な見解だがかのじょの出家はキャラ化だったと思う。やらかしたけれどテヘペロで生きるために頭を丸めた──わけである。安い禊ではなかろうか。人間はなんらかのキャラクターに回ってしまうことで贖罪できる──ことがある。とわたしは思う。それは良いか悪いかは置いても、卑怯には見える。

だが、前提として他人様の生き方はわたし/あなたには関係がない。まして不倫なんてなんの関係もない。だいいち提供された情報だけではものごとをはかり知ることはできない。他人様の不倫をあーだこーだ言ってはいけない理由は、関係ないから、てより、事情をわかっていないから──が大きい。

不倫は、やった側の後悔とやられた側の怒りで成り立っている。
一個の殺人と、「ひどいじゃないか」と「ごめんなさい」が映画の結論だった。それは過酷すぎる代償だった。
コニー(ダイアンレイン)がテヘペロをして、エドワード(リチャードギア)が「こいつめ、もううわきなんかするんじゃないぞ」とか言っちゃって、予定調和で不倫が終わる──わけじゃなかった。
エドワードは失望し赫怒から犯罪加害者となり、コニーは深く悔いる。ふたりは一生それを背負うのだ。

不倫をストレートに描いていた。(こんな言い方はおかしいが)とてもまっとうな不倫の様相が描かれていた。キャラもテヘペロもない。取り返しのつかない喪失で終わるのが不倫──なのだ。

気になるのはUnfaithfulの英題にたいする運命の女──である。運命とは、出会いからの情事を肯定もしくは不可抗力としてとらえる意味合いがある。ご覧になればわかるが映画は「運命の女」なんてことはひとことも言っていない。いつもながら寝ぼけた邦題だった。

──とは言うものの、あいてがダイアンレインなら、いけるならいくだろう。夫がいようと、溺れるとわかっていても、なにがなんでも挑むだろう。男にとってはいわゆるmilf。これとブラックサイト(2008)のかのじょがもっとも艶っぽいと思う。

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津次郎