トーク・トゥ・ハーのレビュー・感想・評価
全23件中、1~20件目を表示
アルモドバルの突き抜けた人間讃歌
主人公(なのかな?)ベニグノの行動に賛否あるようだ。まあそりゃそうだ。なんせ犯罪だからね。
しかし観ていて自分にはベニグノが行為に及んだとは思えなかった。つまり彼は犯人ではない。実際ベニグノは自分がやったとは言っていない。
愛する人のため介護士の資格を取り尽くす。この行為は、仮に元々恋人や伴侶であったならただの美談だ。
ここまで狂人的に尽くせる男であれば、彼女の妊娠がどこかの誰かのせいであるよりも、自分であると錯覚することのほうが受け入れられるのではないか。
ベニグノは、どこかの誰かに犯されてしまった事実と自分が投獄され彼女と会えなくなることを天秤にかけ、後者を選んだ。
普通に考えれば、ベニグノが罪を受け入れたとしても事実は変わらないわけで、何の意味もないように思えるけれど、ベニグノにとっては違ったように感じる。
ベニグノにとっての究極の選択ののち、彼はさらなる選択をする。彼女と共に生きるために自らも昏睡状態になろうとした。
その試みは残念ながら失敗に終わってしまうけれど、愛する彼女は目覚め、新しく幸せに生きられそうなエンディングは、ある意味でベニグノにとっても彼女にとってもハッピーな終わりなのかもしれない。
本作の監督ペドロ・アルモドバルの作風は基本的に人間讃歌である。
とはいっても普遍的な普通の人を物語の中心に置くことはない。どこか突き抜けた人や、特殊な状況に置かれた人などを描く。
多くの人がレビューなどで「共感」というフレーズをよく使う。共感したとか、共感出来ないとか。この「共感」がアルモドバル監督作の場合はそもそも起きにくい。普遍性が薄いから。
動物園の動物を見るように作品の中のキャラクターを見る。キャラクターに対して観る側の私たちが得られるものは「理解」だけである。
何が言いたいかというと、アルモドバル監督作品を観て私たちがすることは、共感出来ないキャラクターへの批判ではなくて、彼らが何を考え何を思ったか考察することだけなのだ。
そして、観る側が何を感じたかだけが重要なのである。
全編に渡って吐き気をこらえた。最後の最後まで楽にしてもらえなかった...
全編に渡って吐き気をこらえた。最後の最後まで楽にしてもらえなかった。救いようのない狂気とその容認。愛という言葉に置き換えられる行為はすべて美しく、かく生きるべしと肯定されているように見えたエンディングに絶望を覚えた。
自分本位のコミュニケーション不全の極限を見る思いだ。
100歩譲って、タブーに潜む愛なのだとしてみても、私には陵辱としか受け取れない。
昏睡状態の女子の患者を男子の看護師が犯し、その男子の看護師が刑務所...
昏睡状態の女子の患者を男子の看護師が犯し、その男子の看護師が刑務所に行き、その昏睡状態の女子の患者が昏睡状態から意識を回復し歩けるまでになるストーリーでしたが、その看護師の男子がその昏睡状態の女子に中出しし、その女子がお腹に子を宿したが、そのお腹の子が死産だったそうで
愛に定義はない
いい映画でした。
さまざまな表現で人生や愛を語る。容易く言い表せないような文学の世界に迷い込んでしまいそうでした。
冒頭はピナ・バウシュの「カフェ・ミュラー」の舞台背景。女性が踊り進む中、テーブルやら椅子を男性が、女性が渡っていきやすいように、移動させるシーン。
それを観て涙するマルコを隣に座るベニグノが微笑ましそうに見つめる。
映画を最後まで見ると冒頭のシーンは暗喩的でもあります。
物語は、女闘牛士リディアとマルコの出逢いとアリシアとベニグノの交流が並行して進みますが、リディアは雄牛に突撃され植物状態に。アリシアは4年前に交通事故で昏睡状態に。互いのパートナーを見守るベニグノとマルコの間に友情も芽生えます。
ラストはアイロニーに満ちて、哀しくもあるのですが、アリシアとマルコの出逢いのスタートも感じさせます。
サイレン映画の「縮みゆく男」も秀逸。女性のヴァギナに埋没した男はベニグノの象徴だったのかも。
リディアが闘牛の試合に出る前の、衣装の着用が印象的。身体にぴっちり纏う姿はいくさに出陣する戦国武将のようでした。
達成されることのない営み
それぞれ、こん睡状態に陥っている恋人(片方は?だけど)を持つ男性ふたりの物語。
エーリッヒ・フロムという思想家は「愛するということ」という著作の中で、
「愛」とは孤立の克服であり他者との合一を目的とする、と述べている。
そして、その営みは永遠に達成されることはないが、
だからと言って停止することもない、とも述べている。
本作では、この達成されることのない営みが、
孤独に悲嘆し畏怖する主人公と、倒錯的で偏狭的な看護人との対比で、
情感的に描かれている。
「オール・アバウト~」に続き、本作でも劇中劇が多用されているが、
特に印象的なのが、縮む男のサイレント映画。
本筋の孤立の克服をシニカルだが深刻に表現している。
ペドロ・アルモドバル監督作品はふたつめ。
なんというか、言語化できない、スレスレのところを突いてくる演出が真骨頂なのか、
観終った後の、良い意味での後味の悪さは独特。
本作のタイトルから、その辺への監督の拘りは伝わってくるし、
ラストシーン、バレー教師と主人公の会話なんかは、実に象徴的。
アルモドバルの感性が光る
とんでもないやばい作品でした
アルモドバル、恐ろしや…
ただ同時に、好きになりそうでもある
かなり一方的な映画ではあるのだが、
そこの気持ち悪さを見事に描きつつ、
微妙な機微も表現している。
もちろん、絶対に駄目なんだけど、
それを描くのが映画であり芸術であり。
それを分かりきった作家の渾身の一作って感じがしました。
これ、アルモドバル沼に落ちそうでやばい。
サイレント映画「縮みゆく女」
こちらのクオリティも半端じゃないです
こんなの挿入するとかありかよ。
アイノカタチ
はっきり言って、ベニグノは変態男だ。相手は承諾も拒否もできないのに、自分の気持ちだけで暴走する。ただ、彼の献身的な看護で、アリシアは目覚められたとも言える。彼女が自分の身に起こったことを、知っているのか、知ったとしてどう受け止めたのか、そこは描かれていないが、同性としては寒気がする。ベニグノくん、アリシアは人形ではありません。いくら愛してても、対等でなければダメなのですよ。
しかし、マルコがいることで、ベニグノの異常さが美化されているところがある。舞台を観て泣いてしまう、繊細な感性のマルコ。彼は決してベニグノを否定しない。それに、ベニグノが清潔で、ソフトで、知的に表現されていて、観ていて拒否反応が起こらない。一見普通の人だし、同僚からすれば、快く夜勤を代わってくれる、優しい人だっただろう。
闘牛士に女性がいるとは、初めて知った。リディアねえさん、めっちゃかっこいいやないかー。そして、闘牛場へ向かう前の支度がすごい。体にピッタリ合ってて、飾りがたくさん付いた、凝った衣装。死ぬかもしれない危険な仕事に臨む人を、華々しく包む。これはまさに死装束。とても美しかった。しかし、牛を殺す人が蛇を殺せないとは、解せませぬな。
ピナ・バウシュのダンスと、彼女と付き合ってたらしいブラジルのシンガー、カエターノ・ヴェローゾの歌が良かった。
歪んだ愛情でも、実らなくても、愛することは自分で止められない。愛にはいくつもの形がある、というメッセージだと思った。
BS松竹東急の放送を鑑賞。
人間の尊厳
ストーカーというと多少精神のイカれた気味の悪い変質者と思われて敬遠したくなるが、それも一つの愛の形で、愛の女神が持つ神聖さを備えていると、教えてくれるような映画である。
人間の尊厳を基調にした巧みな演出とストーリーの展開に鳥肌が立つような感激を味わった。
分からなかった…
ストーカー=献身的な愛?一目惚れしたバレエダンサーが事故により四年間植物状態となり、看護師として献身的に話し掛け、看病するが、行き過ぎ、妊娠させてしまう。。恐ろしい一方的な愛。事故まで仕組んでいたら、ありがちな単なるストーカー映画だが、この映画は違った。一つはマルコの存在。恋人が同様に植物状態になり、結局死んでしまい、孤独であったマルコと友情が芽生えるのは、何とも言えない余韻がある。妊娠したことにより、植物状態から目覚めるのは何とも皮肉だが、死ぬ前に彼女の無事、真実を知ってほしかった気もするし、彼を許せない気持ちもある。複雑な映画、結局分からない。
【”無償の献身が齎した奇跡と、悲劇” 数多く挿入されるサイレント映画を含めた劇中劇の効果的な使い方も印象的な作品。】
ー 序盤は、「The Smiths」の”Girlfriend In A Coma”が脳内で響いていた。
だが、ペドロ・アルモドバル監督の脚本は、モリッシーの詩の更に上を行くレベルであった。ー
◆感想<Caution 内容に触れています。>
・冒頭、未だ見知らぬ者同士のベニグノとマルコが抽象的な現代劇を隣同士で観ているシーン。マルコは涙を流している。
ー 印象的且つ、今作の行く末を暗示するような、イントロダクションである。ー
・その後、ベニグノが4年前に憧れの気持ちで、窓から観ていた美しきバレエダンサーで、事故に遭い昏睡状態になってしまったアリシアを健気に看護師として介護するする姿が描かれる。
彼は、彼女と出会った時に彼女から”サイレント映画が好き・・”と言われた事を、覚えており様々なサイレント映画を観て、彼女に粗筋を話しかけるのである。
ー ここでも、縮んでいく男が、愛する女性の性器に入って行くという不思議なサイレント映画が、象徴的に使われる。ー
・マルコも、闘牛士の女性リディアと恋に落ちる。だが、彼女もまた、大怪我をし、昏睡状態になってベニグノが勤める病院に収容される。
ー そして、ベニグノとマルコは運命的に、知り合いになり、似た境遇からか、親友になっていく。二人のシンクロニシティを感じる。ー
・マルコは旅に出、ベニグノは献身的にアリシアの介護を続ける。だが、リディアは亡くなり、ベニグノはある出来事から獄に繋がれてしまう。
マルコは、リディアの死を知り旅先から急遽戻り、ベニグノの状況を聞き、又、信じられない光景を目にする。
ー ベニグノの献身的な介護のお陰なのか、アリシアに意識が戻っている光景を目にしたときのマルコの驚きの表情。だが、精神的に問題があると判断されたベニグノには真実は伝えられていない。マルコもベニグノを思い、真実を伝えない。
そして、悲劇が起きてしまう。友を思うがゆえについた嘘が、友を死に誘導してしまったというマルコの後悔たるや・・。ー
<だが、ペドロ・アルモドバル監督の脚本は観る側に、ある希望的な想いを託す。
それまで、テロップで”ベニグノとアリシア””マルコとリディア”と流れて物語は進むが、ラスト、
”マルコとアリシア”
と言うテロップが流れ、二人が劇場で”列を前後にして”劇を見るシーンで、幕が閉じるのである。
見事な、作品構成であり、脚本であると思った作品である。>
歪んだ愛情表現
元々好きだった女性が事故で植物人間になり、
その介護をした男性がその子を献身に介護。
と思いきや、なんと意識がない彼女をごうかんして妊娠させてしまった。
驚きの結末に不思議な気持ち。
わかるような・・わからないような・・
気持ちはわかる気もしますが、犯罪といえば犯罪ですし・・気持ちが真剣でもしちゃいけないことはありますし・・難しい。 初めて観た時はレオノール・ワトリング目当てでしたから・・あ、今もそうかな(笑)
何という映画をペドロ・アルモドバルは撮るのだろう。映画が終わった瞬間、頭で考えるより先に心が震えた。正に映画の持つ力、そしてその力を持った映画。
①よくこんな脚本が書けるものだ。しかしあらすじを語ってもこの映画の力の10分の1も伝わらないだろう。映画とは脚本、役者、カメラ、音楽、美術、衣装、編集そして演出、これらが渾然一体となった総合芸術だ。そしてそれに対峙した人間の感性を揺さぶるものだ。この映画の場合、殆どは悲しみというものだけれど、それだけではない。②映画はmotion pictureだからあくまで目で見えるもの、耳で聞こえるもので成り立っている。でもそこから喚起されるものは目に見えない。言葉にするのはある意味心を檻に閉じ込めるみたいなものだろう。③この歳になっても一本の映画にこれだけ感動できることが嬉しいとともに、この感動は死ぬまで忘れないだろう。③アリシアのバレエ教師役で懐かしジェラルディン・チャッブリンが出てきたのが嬉しかった。あとこの映画で何故「Night of the Hunter」と、最後で愛する女性のヴァギナに入ってみてそれきり出てこなかった男を主人公にした創作の「縮み行く男」について語るのことも沢山あるはずだ。
なんとも言えないラスト
私は看護師は無罪だと思っている。堂々としていたし彼がそんな事をするわけがない。密告した別の男が怪しい。モト冬樹似の男が一生懸命、看護師の気持ちを理解して友情を持ってくれたことが救いだな。
愛と孤独
ペドロ・アルモドバル監督の作品はほぼ全て観ているが、この作品が一番泣けるし、好きな作品
出てくる役が全て孤独、孤独な人しか出てこない
でも、孤独じゃない人なんているんだろうか?
そう監督に問い掛けられている気がする
ストーカーの映画と、表面上だけ見ればそう見えるが、究極の愛はここにいきつく気がする
(周りにいたら変人間違い無しだけど)
4年間も目覚めない人を看護し続けるなんて、常人にはできないと思う
叔父が亡くなった瞬間に医師から言われたのが、人は心臓が止まっても聴覚はしばらく残っているから話しかけたらいいと
植物状態の人にも同じことが言えるのではないか?
ベニグノのした事は犯罪かもしれないけど、その一途な愛には感動した
その対比でマルコとリディアの物語も感慨深い
ベニグノとマルコの友情が芽生えた事が、この孤独な作品の救い
余談ですが、冒頭と終盤にピナ・バウシュが率いるヴッパタール舞踊団が出てくる
この作品で知り、2005年に新宿での公演を生で観劇した事は私の人生で素晴らしい出来事でした
よかった
ヒロインの女性器に小さくなった主人公が体ごと入り込む幻想的な面白い場面があって、あれが性交だったのかなと思ったが、時期が合わないような気がする。そう考えるともっとずっと前からやっていたのだろうか。複数回やっていたのかもしれない。
結局子どもがどうなったのか不明だった。健やかに成長していて欲しい。
深い眠りの底でも、女は女であり続ける
”深い眠りの底でも、女は女であり続ける”このラベルのセリフは、映画史上最高の言葉だと思います。
映画の中に出てくる、”縮みゆく恋人”も独創的で衝撃的。
ラストは、すごく悲しいです。
前衛的表現が美しい
2012.5.3
先日仕事帰りに劇場で見た映画がイマイチで帰ってから口直しに見た
劇場のチラシでピナ・バウシュ(バレエ振り付け師)の映画が公開されることを知って
買ったまま見てなかったDVD「トーク・トゥ・ハー」を思いだしたのだ
この映画の最初と最後のほうピナ・バウシュのダンスで飾られている
全23件中、1~20件目を表示