「良しも悪しきも2人の女。」スイミング・プール Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
良しも悪しきも2人の女。
この作品には相対する女が2人登場する。中年の女と若い女、イギリス人とフランス人、知性的な女と官能的な女、上品な女と下品な女、神経質な女と奔放な女、覗く女と見られる女・・・。この女たち、サラとジュリー。
サラを演じるシャーロット・ランプリングは、私の大好きな女優。若い頃の彼女は儚げで、哀しげな、“霧の精”のような女性だった。その瞳を見たとたん、彼女は私の女神<ミューズ>になった。後年、年を重ねた彼女は、その人間離れした雰囲気から、徐々に“生きた”大人の女性へと変貌していき、今まさに、ノリにノっている大女優となっている。前作『まぼろし』で、はじめてオゾン監督とタッグを組んだ彼女は、愛する人を突然失った女性の心理をエレガントに繊細に演じた。そして本作では、ハイミスのミステリ作家のイメージどおり、ギスギスしていて、不機嫌、ファッションセンスも皆無の“油っけのない女”。男からすると到底お付き合いはごめんこうむりたいと思わせる女。冒頭のサラは、口をヘの字に曲げたとってもイヤな奴。作品は売れているが、編集長(明確にはされていないが、2人は過去に愛人関係にあったと私は確信している)だっていいかげん彼女にはうんざりしている様子。彼は、ご機嫌をとるためと、厄介払いのために、自分の別荘(プール付き)に滞在することを彼女に勧める。
所は暗いロンドンから、光溢れる南仏のリゾート地へ!青い空、木々の緑、憧れの南フランス!彼女のバカンスは静けさの中に満ち足りて進み始めた。しかし彼女1人の世界を、邪魔する者が現れる。編集長の娘ジュリーである。ジュリー演じるリュディヴィーヌ・サニエもオゾン作品には欠かせない若手女優。前作『8人の女』では、まだ幼さの残る末っ子を演じていたが、本作の彼女の官能的な美しさはどうだろう!これぞとばかりに見せびらかせられる肉体。ひきしまった肢体、ツンとはった豊かな乳房、みずみずしい小麦色の肌・・・・。それは官能美を超えた、正に神が創りたもうた女性美そのもの。その若々しい肉体に対して、中年女の肉体は、節くれだち、シミが浮き、なまっちろいハリのない肌・・・。悲しいかな、やはり若さに勝てるものはないのか・・・。
私はさらに、この2人の指先に注目してみた。作家であるサラは、キーボードを打つ指先がよくクローズアップされる。ゴツゴツしていて、あまり手入れされていないまるで男の手のようだ。それからジュリーの指は、このテの女によくある、黒っぽいマニュキュアをしているが、そのマニュキュアがはげかけている。本当にオシャレに気を使う人は、指先まで美しいものだが、ジュリーのようなはすっぱな女には、指先まで神経がゆきどとかない。このあたりの役作り、さすがである。
この相反する2人、反発しあう仲から、徐々に変化を見せる。サラは作家としての本能からか、まるでストーカーのようにジュリーの行動を観察しはじめる。そしてジュリーも見られていることに気づきながら、サラに好意を持ち始める。このあたりから2人の間に母子のような絆が生まれ、その絆がやがて起きる殺人事件によって、共犯者のそれになる。見かけとは逆に、幼い頃亡くした母への愛に飢えているジュリーは、サラの中に母を求め、自分の殻に閉じこもっていたサラは、南仏の光の中で、次第に官能の扉を開きはじめる。クライマックスで、何と彼女は全裸で男を誘惑するのだ。さえなかった肉体は、このとき、本物の成熟した女性への肉体に変化する。表面からではなく内面から滲み出る官能。このときの彼女の神々しさ、美しさ!
そして迎えるラストシーンで、「売れる本」しか出版しない編集長と対峙する彼女は、艶然とした微笑を浮かべ、物腰も自信に溢れた優雅なものに。彼女は自分の作品に対しても、人生に対しても、成熟した本物の大人の女性への自信をとりもどしたのである。取り残された編集長は、きつねにつままれたようにキョトンとするばかり。しかし、ここでキョトンとするのは彼だけではなく、オゾン監督が最後の最後までとっておいたトリックのため、見ているわれわれもきつねにつままれた状態にさせられる。このラストシーンで我々は再び謎に満ちた南仏のプール・サイドに引き戻されてしまう。空の青さを写し取ってきらめく水面のごとく、現実と虚構が入り混じり、冷たい水に入った時の、冷たさと心地よさそのままにオゾン・マジックに浸り、心地よい謎を抱えて夢見心地で映画館を後にできるのである。夏の午後のスイミング・プールのような、この不思議な感覚にいつまでも浸っていたい―――。