「芸術を生むにはお金がかかる。」真珠の耳飾りの少女 Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
芸術を生むにはお金がかかる。
生来の“才能”を人生で活かせないというのは何とも悲しいことだ。本作のヒロイン、グリートの才能は芸術的審美眼。
画家とモデルを題材にした映画は多数作られている。そのほとんどが性的な関係を含んだ愛憎物語になることが多い。しかし本作のフェルメールとグリートの“愛”は男女の愛情よりも芸術家としての愛情が勝っている点が興味深い。もちろんその奥底には男女の秘められた愛情があったことは確かだが。
17世紀のオランダの画家フェルメールはその人気の割に現存する絵画が少ないため希少性が高く、日本での展覧会など毎回長蛇の列が続く。その中でも特に人気が高いのが本作のタイトルにもなっている『真珠の耳飾りの少女』だ。かねがねこの作品が他のフェルメール作品の中で異彩を放っているのを不思議に思っていたのだが、本作を観てその謎が解けた(もちろん本作はフィクションであるが・・・)。フェルメール作品は主に室内で起こっている情景を引きでとらえたものが多く、窓から入る光を有効に使い、人物とその周りの小道具や背景(壁)を微細に描いているのが特徴だ。しかし『真珠の耳飾りの少女』は、黒バックの中の少女のクローズアップという大胆さだ。何故フェルメールはこの作品を特別にこのような構図で描いたのか?本作を観れば彼がモデルに特別の想いを抱き、さらに本作が「未完」だったことが解る(それゆえの黒バックと解釈)。だが未完に終わったからこそ、世界中を魅了する作品になったことも確かだろう。
さて、映画は17世紀のデルフトを舞台にしているというよりも、フェルメールの絵画そのものが舞台と言って良い。フェルメールの特徴である淡い自然光によって生じる陰影をそのまま再現した映像と、計算しつくされた絵画の構図そのものの画面構成。ショットが切り替わるたびにフェルメール絵画そのままが目の前に広がり、思わず感嘆の声が漏れる。奥行きの豊かさ(小津作品に通じるものがある)、そこに配置されるのは17世紀の人物そのもの。本物のフェルメール絵画を観ているような映像が本当に素晴らしい。
その美しい映像をさらに美しくしているのは、グリートを演じるヨハンソンの清楚な美しさだ。知的で奥ゆかしく純真。画家なら彼女を描きたいと思うのも当然だろう。しかし彼女は美しいだけでなく、光や雲や空の「色」を感じとるセンスを持っている。色彩だけでなく画家が描こうと思う人物の内面までも見て取れる審美眼を持っているのだ。フェルメールが彼女に惹かれたのは、本物の芸術家同士にしか理解できない「魂の呼応」による。もしこれが現代ならば、グリートは女流画家として成功するか、あるいは本物の絵画の価値を見抜ける者として、才能ある画家のパトロンになれただろう。しかし、裕福な者でしか芸術に接することの出来ないこの時代、単なる下働きの女中では、スケベおやじに慰み者の対象として見られるか、画家の妻の嫉妬の標的にされるだけだ。この時代の絵の具は原料に宝石などの鉱物を使うため大変高価だったと美術番組で観たことがある。特に「フェルメール・ブルー」と呼ばれる彼が好んで使ったアクアマリンは純金と同程度の価値だったとか。だからこそフェルメールは裕福な妻や義母やパトロンの言いなりになるしかなかったのである。画家にとって作品は金には変えられない「命」であるはずが、金がなければその「命」を守れないというジレンマ。妻の嫉妬によって追い出されるグリートを黙って見送る彼の心中は察するに余りある。
できればグリートはその後、肉屋の息子と結婚して、裕福ではないが身分に見合った幸福な家庭を築ければ良いと思う。そしてたまには日々の雑用の合間に空を見上げて、刻々と変化する雲の「色」を楽しんでくれれば良いと思う。