「婚前交渉からの混乱」きみに読む物語 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
婚前交渉からの混乱
『君に読む物語』の途上というのは、最初に愛し合ったはずの二人が別れてしまったところから精神的な混乱が生じてしまう。夏に別荘に来た少女にひとめぼれしてしまった青年が強引にアプローチして恋には落ちた。しかし身分差から特に母親が壁になって、青年が365通も出した手紙を母親が隠してしまい、女は別の男と婚約する。悪くは思っていなかったが、忘れられなかった青年を新聞で目にしてしまう。そして女は青年に別れを告げつために新聞に載っていた場所に会いに行く。女のほうは別の男と婚約してしまうし、男のほうも戦争未亡人と愛人関係にある。こうして、誰かとの優劣関係が生じてしまう。ただ優劣関係が生じるうちはまだ悪の中にも善の意識は残っているのだが、それをさらに越すと「誰でも構わなく」なってしまう。誰もが同じになってしまうのだ。ここに、自由に性行為してしまう人達の逆転が生じてしまう。特別な愛は無くなってしまう。共産的な共有は誰でも同じなのである。しかし本当はそこに好意の優劣は生じて、差別が起きる。それを隠そうとする。大きな偽善への過程になるのである。なぜ一人だけを愛する事がないがしろにされて、誰とでも性行為に時間を替えたり、または同時にもしてしまえるようになるところの延長に、自由があるのだろうか。そこに特別性は無くなっている。区別が無いからみな同じとなるなら、どうして、近親〇〇や人間以外の生物との性行為との違いが区別されるのだろうか。区別はどこかにしてしまっているのだから、差別は起こっている。きっと、共産的な自由乱交にも好悪の区別は生じているはずである。無いなら、誰とでも近親〇〇でさえ同じと感じられるはずなのだ。共産的にならない段階の乱〇は、誰かを捨てる事によって誰かを傷つかせたままエゴイズムの勝利となる。その過程で加害者の癖に悲劇の当事者のように思考を反転させる事が出来てしまう。ここまでで映画の半分の所のようだが、この映画にはどんでん返しがあるようだが、脇役は傷ついていただろう。それは省略されるのかも知れない。キリストの教えは形骸化または絶滅していて、婚前交渉が複数の間でなされて行く。それを思えば、皮肉で言えば最初の恋愛の続きとして美しい作品なのかも知れない。現実はもっとひどいのだから。そういう面で最後まで一緒になれても、途上が美しくはないのである。ここに現代のフリーセックス賞賛の洗脳がある。洗脳だから誰も不思議に思わない。同じ人とでさえ「誰でも構わない」という戒律の喪失の結果なのである。よくぞここまで自由を洗脳する事が出来た。自由は人によっては簡単なのだ。女の母親は悪役のように出て来るが、それが成功して来たのだ。このように読み替えていた時代にもう反転しないといけない時代なのではないのか。もう無理か。戦争未亡人との別れのシーンが乱交のエゴイズムを途上に映している。