「ノーラン作品の原点...のちの作品の構成要素が凝縮」メメント f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
ノーラン作品の原点...のちの作品の構成要素が凝縮
自宅に忍び込んだ強盗によって妻をレイプされた男
殴られたことによって脳に障害を追い、「前向性健忘」を患ってしまう
これは「事故前の記憶はあるが、事故後の記憶は10分間すると忘れてしまう」というもの
何か新しいことを見聞きしても、10分間しか覚えていられないのだ
彼は妻をレイプした犯人を探し出し、復讐を遂げる
ところが障害によって、復讐を遂げたことすらも忘れてしまった主人公
妻を襲われた記憶と、復讐心だけが残り、「妻を殺した犯人を探し出しては殺害する」復讐鬼と化してしまう
実は妻はレイプされた後、命に別状はなかった
しかし記憶を保持できない主人公が、彼女の持病である糖尿病の症状を抑えるインスリン注射を何度もしたことによって妻は亡くなってしまう
主人公の記憶が保持できないことを信じられず、彼を試すために、彼の記憶を呼び覚すために、妻は何度も注射を頼んだのだ...
・主人公はすでに復讐を遂げており、記憶を保持できないために何度も殺人を犯す
・実はレイプ後に妻は生きており、彼女を殺したのは主人公自身
という二重のネタバレ。
妻を殺した罪悪感に苛まれてか、主人公は「サミー」という別人の話にすり替えて、記憶を失った男と、彼によって殺された妻の物語を何度もするようになる
※主人公は記憶を保持できないのに、無意識裡あるいは潜在意識・深層心理のどこかで妻を殺した罪悪感を抱えているということだろうか...?それとも設定上の粗か?
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妻を殺された主人公は、犯人探しのために警察の伝手を頼るのだが、記憶を保持できないが故にだんだんと利用されるようになる。
本物のレイプ犯を殺したあと、麻薬捜査官に騙されて売人を殺すのだが、その売人の彼女もまた主人公を利用し、麻薬捜査官を殺すように彼を仕向ける。
愛した女が実は自分を利用しており、胡散臭いがそれなりに無実な男を相手に罪を犯す。
ノワール調で開始する物語だけれども、「情報の錯綜」によってシェイクスピアばりの悲喜劇が繰り広げられていたことがわかる
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こういったネタバレは、物語の内容を整理したうえで執筆されたものであり、実際の映画は「時間を逆行させる」ことによって構成されている。
1本の映画を撮影したあとで、フィルムを分割し、順番を並び替えて未来から過去へと遡るように上映することを想像するといい。
より正確には、逆行から成るカラーパートと、順行によってなるモノクロパートの「2軸」によって映画は構成されている。
この「カラーパート」と「モノクロパート」は接続点を持っているので、映画全体はあたかも「U字構造」を持っており、『メメント』こそが『TENET/テネット』の原点となっていることがわかる。
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さて、「逆行」パート(カラーパート)においては、事件が発生した順序を入れ替えることによって因果関係が逆転する。つまり、物事の「結果」が先に提示されたあとで、「原因」が後から明かされるという構造をとるのだ。
このような細かいネタバレの連続は、『プレステージ』へと継承され、(時間の逆行は伴わないもののネタバレの連続という意味で)『ダークナイト』で結実する。
『ダークナイト』がハラハラする展開の連続となっているのは、『メメント』で養われた手法に基づいているのだとわかる。
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物語の冒頭、主人公が男を殺害したのは、彼を殺すように主人公自身が仕向けたものだと終盤で明かされる。
主人公は記憶をなくし、メモだけを事実・真実だと信じる。
けれども彼は、自分に都合のいいことだけを記録に残し、都合の悪い内容は破棄する。都合のいい書き方でメモを残すし、都合のいいようにメモを解釈もする。
主人公のこの間抜けさの理由には、もちろん物語の書き手の意思もあるのだけれども、女を信じて胡散臭い警官を信じない描写などには、人間の心理に関する洞察に基づいているし、観客の期待に沿いながら後々で裏切る=どんでん返しをするために利用していることでもある。
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このように、主人公が自分自身に対してついた嘘によって映画は始まり、嘘に嘘を重ねることによって物語は結末を迎える。
この物語は嘘をつくことによって始まったものであり、本来、嘘がなければ存在しなかったものであるとも言える。
そして主人公自身が物語を作り上げているとも言える。
その背景には、「映画自体が広義で『嘘』なのだ」というノーランの視点が反映されているように思う。
映画とは、現実ではない仮定を置くことによって始まるストーリーだ。
最初の仮定にどんどん新たな仮定を重ねていくことによって物語が展開していく。
「もしもXがAだったとしたら?」「YはBだろう」というように
仮定のはしごを空に掛けるようにして高みへ登っていくのが映画だ。
このように、映画を作る人物たちを投影するようにして、主人公は自らに嘘をつく、自分自身を騙すことによって物語を作っていく。
それは自分自身にとって都合がいいからで、のちのノーラン映画で「嘘が暴かれる」という要素が何度も登場するのも、『メメント』という原点があるからだとわかる。
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映画制作という行為は一般に作品の外部に置かれがちであるが、『メメント』では主人公自身が嘘によって物語を作るという形で、作品の内部に埋め込まれている。
例えば『インターステラー』では、主人公たちを宇宙へと誘うワームホールを設置したのが未来の人類であり、主人公がしばしば目にするいくつかの異常現象も、その正体が主人公自身であったと明かされる。
ここには「物語を発生させるのが自分自身だ」という映画の作り手自身の意識が反映されているように思える。
映画を作るためになくてはならない作為性。その作為性を発生させるのが映画の作り手自身であり、映画は作り手による自作自演なのだ...という意識の投影として。
『インセプション』のラスボスが主人公の心の中に潜んでいるのも、『TENET』の黒幕が主人公自身だと判明するのも、映画を駆動する「神」たる映画製作者の存在が、「物語を作る主人公」という形に投影されているのではないだろうか。