「刮目して大局を見よ」七人の侍 KIDOLOHKENさんの映画レビュー(感想・評価)
刮目して大局を見よ
「素晴らしき日曜日」から「七人の侍」までの映画は黒澤の
戦後年代記とも見ることが出来る。
戦争。それを体験してない人には、それを体験して人にとって何だっのかは全くと言ってよいほど分からない。分かってるつもりでも、何も分かってやしないのだ。
戦後。それもしかり。
・・・ただ、その時代の人が作った映画を見たときに、それが彼らにとって何だったのか?それとどのように向き合い、戦い、苦しんだのか・・少し・・ほんの0.何パーセントか・・伝わってくるだけある。
「素晴らしき日曜日」から「七人の侍」までのクロサワ映画がまさにその、伝わってくる映画だ。
以下、すべてネタバレ注意。
「素晴らしき日曜日」
背景に移っているのは、本当の焼野原となった東京である。そこでデートしている若い2人の、希望の見え無い未来が描かれている。センチメンタルストの黒澤明でさえ、この時代をハッピーエンドには書けなかったのだ。
「酔いどれ天使」
この映画に写っている池は。汚いものがたまり込んでいる。腐敗社会のシンボルみたいな池。街の秩序をつくっているのは警察ではなく、ヤクザ。この池は本当にB29の爆弾によってあいた穴に水が溜まった池だ。その池を撮影に使った。映画はこの池の周辺で、もがくように生きている人々を描いて描いている。それは・・戦後のすべての人々が、そうだったに違いない。
「野良犬」
この映画の主人公は警察だ。復興が進んで来て、警察が機能していることが描かれている。そして犯人と主人公の類似性。ちょっとした運の違いで同じような人間がこうなってしまうということが書かれていて、クライマックスの対決シーンがとても恐ろしいものに見える。
「羅生門」
この映画は本来、長編映画としては持たないぐらい短い脚本だった。そして、何がなんだか分からない、とても変な物語だ。なぜこのようなものを黒澤は作品化しようとしたのか?・・それは、あの戦争の真実性がわからない、その不気味さをこの作品に託して表現したかったからだ。
「生きる」
この映画は池をうめて公園を作るという話だ。ここに登場する池は「酔いどれ天使」に出てきたのと同じ池だ。埋める計画が立てられていたのだが、それを延期して映画を撮った。この池を埋めろと主婦たちが押しかけてくるところから物語は始まる。つまり、どんどん復興しているという時代の話なのだ。これからもっと世の中が良くなっていくことを夢見ながら、主人公は死んでゆく。
「七人の侍」
「また、負け戦だった。勝ったのはオレたちではない。この百姓たちだ」このセリフが表現しているのは結果から見る勝ち負けだ。戦争に負けたのは、軍人。政治家や資本家たちだ。一般庶民は戦争に負けたんじゃない。見ろ、この復興の力を!ということが、あの台詞には込められている。
ここまでの「素晴らしき日曜日」から、「七人の侍」に至る映画は個々が、それぞれ独立した物語であると同時に。この作品までが一連の復興オムニバス映画なのだ。だから全部見ていただきたい。我々はそこから追い詰められるとはどういうことなのか。追い詰められた人々がどんな力を発揮するのか?ということを学ぶことができる。
