「花柄ポット! パトリシア・ハイスミスの濃厚な影響を感じさせる「失踪ミステリ」の秀作。」ザ・バニシング 消失 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
花柄ポット! パトリシア・ハイスミスの濃厚な影響を感じさせる「失踪ミステリ」の秀作。
ナナフシで始まり、カマキリで終わる。
『ザ・バニシング』は「捕食者」に関して考察する映画だ。
面白くないわけではないし、評価されるべき映画だとも思うが、実像以上に「面白そう」に語り伝える宣伝回りのテクニックが実に巧みで、ちょっと嫉妬してしまうくらい(笑)。
いわく――、
●サイコ・サスペンス映画史上No.1の傑作、ついに解禁――。
●ラストへの戦慄が『サイコ』(60)、『羊たちの沈黙』(91)、『セブン』(95)、『ゴーン・ガール』(14)を超える!
●巨匠スタンリー・キューブリックが3回鑑賞し「これまで観たすべての映画の中で最も恐ろしい映画だ」と絶賛!
●ただじっとりと流れる暗黙の時間に身を委ね、無情にも訪れる史上最悪のクライマックスを待つしかない。
ここまで言われたら、観るしかないじゃないか(笑)。
あと、シネマート新宿限定で販売されたコラボドリンク「バニシングコーヒー」(花柄のポットから供される)は500杯の売上を記録、ってのもネタとしてふるってる。
(以下、はっきりネタバレはしていない気もしますが、展開自体を伏せておいたほうが初見者にはよさそうな映画なので、いちおうネタバレ設定としておきます。)
で、初めて観ての感想。
これって、……まんま、パトリシア・ハイスミスじゃないか!!
オランダ出身の頭のおかしな監督というと、まずはポール・バーホーベンとディック・マースと相場が決まっているが、本作のジョルジュ・シュルイツァーはフランス生まれ。原作のティム・クラッべのほうはオランダ人だ。
国境を接している以上、仏蘭両国には比較的ひんぱんに人的交流もあるのだろうし、本作でも「国境」「オランダ語とフランス語」「自転車と車」など、「気軽にフランスを訪れたオランダ人観光客の巻き込まれ型サスペンス」という設定をうまく使っている。
にしても、このパトリシア・ハイスミス・フォロワー感はただごとではない。
パトリシア・ハイスミスというのはアメリカの女流ミステリ作家で、1950年代に『見知らぬ乗客』(のちにヒッチコックが映画化)でデビューして、90年代まで活躍した大家である。代表作は『太陽がいっぱい』(のちにルネ・クレマンが映画化)あたりか。
ほかに『水の墓碑銘』『愛しすぎた男』『ふくろうの叫び』『ガラスの独房』『ヴェネチアで消えた男』あたりも面白い。
個人的には、現代の「サイコ・サスペンス」の土台を作った作家だと思っている。
別名義で『キャロル』というレズビアン小説の嚆矢となる作品を書いたことでも知られている。ついこのあいだ、『パトリシア・ハイスミスに恋して』というドキュメンタリーが日本でも公開されたので僕も観てきたが、その映画の主題は、彼女の同性愛者としての性指向についてだった。
60年代からはフランスで暮らし、ちょうどこの映画が撮られた80年代はスイスに移住していたはずだ。だから、どちらかというとアメリカ以上にヨーロッパでの人気が高く、リスペクトされていた作家である。
たぶん、TVでたまたまこの映画をやっていたとして、タイトルも履歴もわからない状態で観たとすれば、僕は十中八九「パトリシア・ハイスミスの未読作が原作」の映画だと判断したと思う。それくらい、テイストが「パトリシア・ハイスミス」してる。
ひとりの女をめぐっての、男ふたりの知的闘争。
やがていつのまにやら女そっちのけで、
男同士のねちっこい執着合戦がお互いを縛り合う。
このホモソーシャルな「相手への粘着、執着、執念、付きまとい」をとめられない感覚、むしろそれに「淫していく」感覚が、実にパトリシア・ハイスミスっぽい。
「悪」の側にいる人間に、通常の意味での道徳観や相手を慮る道義心がきれいさっぱり欠落しているのも、実にパトリシア・ハイスミスっぽい(本作の登場人物は、自らを「ソシオパス」だと自己紹介する)。
そこかしこに「くすり」と笑わせるようなコミカルな描写をはさみながら、それを鬼畜のような所業や悪夢のような結末と平然と並置する。
そのことで起こるケミカルな「違和」の反作用が、作品の魅力になっているところがまた、パトリシア・ハイスミスっぽい。
パトリシア・ハイスミスの特徴であるところの、
●犯罪者と被害者が特定のインティメットな関係(どこか同性愛的)に陥り、「狩るものと狩られるもののゲーム」にのめりこんでゆく。
●犯罪者側には罪悪感や道徳心が決定的に欠如していて、自分でもコントロールできないほどの執着と好奇心に食いつぶされている。
●被害者側にも何かしらの問題があって、似たような執着の傾向とマゾヒズム的性向を示して、結果的に犯人と「共依存」的な関係に陥る。
●これらの歪んだ関係性や狂った行動が、あまり説明もないまま淡々と描出されていくので、作品全体に異様な不条理感が漂う。
●その際、たくみな比喩と切れのいいレトリックを用いて、ある種の「笑い」の要素を挿入してくることも多く、逆に全体の不気味さを増幅させる。
といった要素が、『ザ・バニシング』にはすべて驚くほどの再現性で「踏襲」されているのだ。
犯人側は、ごく当たり前の幸せな日常生活を家族と送りながら、単純に「究極の悪を成す」という実験精神のために(要するに何かしらの利得を求めてではなく、悪であること自体を目的として)誘拐計画をねちねちと練り続けているのが、とにかく気持ち悪い。
それも、自分でクロロホルムの効き具合を試したり、いつ捕まってもおかしくないような危なっかしい「狩り」を続けたりと、綿密に計画している割には、やたら「わざわざリスクを背負った」犯罪計画にまい進している。
このあたり、まだ幼いころに「飛んでみなければわからない」とバルコニーから実際に飛び降りてみたり、パパになってから、水路で溺れる赤の他人の少女を助けるために一瞬の判断で飛び込んでみたりと、後先を考えない自暴自棄な「勇気」を発揮しているのと密接に連動している。
要するに、この男は生来的な「デスウィッシュ」であり、
そもそもが「自傷的」な人間なのだ。
何かしら、危険を前にしたら、それを実行せずにはいられない人間。
そのなかでこそ、生きている実感を得られる人間。
もとい、そのなかでしか、生きている実感を得られない人間。
そのせいで自らが破滅しようが、そんなことは二の次の人間。
いっぽうで、愛するフィアンセを「奪われた」側の男の行動も、たいがいに粘着質だ。
女性が失踪してから3年。
彼はまったく衰えない熱意と執着をもって、旅先の街で姿を消した女を探しつづける。
その異様なのめりこみようと、ぎらぎらとした飽くことなき追求精神は、やがて、もうひとりの飽くことなき「悪」の精神を引き寄せることになる。
この物語の「狩るもの」と「狩られるもの」は、同じコインの裏表のようなものだ。
同じ臭気を嗅ぎ取ったからこそ、誘拐犯は、もうひとりの男に異様な執着を示す。
「似たもの同士」だからこそ、ふたりは呼応し、引き合い、必然的に邂逅を果たす。
「似たもの同士」だからこそ、あの結末へと転がり込んでゆく。
考えてみればいい。
「ああしなければいけない理由」なんて、
じつは「なにもない」のだ。
本当は、いくらだってやりようがあったはずだ。
官憲を呼んだら終わりというのは、
犯人側の暗示による単なる「思い込み」にすぎないし、
むしろ捕らえて永遠に終わらない拷問にかけてもよかったし、
あれだけ「マヌケ」な犯罪者なんだから「飲んだふり」だってできただろう。
ふたりの思考回路が「似すぎている」から、被害者は暗示にはまってしまったわけで、結局のところ、この物語は「噛み合ってしまった」犯罪者と被害者の「猫と鼠のゲーム」なのだ。
で、こういうところが本当にパトリシア・ハイスミスっぽい、というわけだ。
ちなみにあの『セブン』を超えると宣伝されている「ラスト」なのだが、実は観ながら「こう終わる可能性」をちょっと考えていた。
というのも、この犯人のノリだとか話の組み立てとかが、パトリシア・ハイスミスっぽいのと同時に、どこか「エドガー・アラン・ポー」を思わせるところがあったからだ。
あと、そう昔ではないころにラーシュ・ケプレルの『砂男』という上下巻を読んでいて、あれには「似たような」犯罪を恒常的に繰り返しているサイコパス殺人鬼が登場する。
なので、なんとなく、こういうオチもあるかなあと思いながら観ていた感じだった。
なんにせよ、映画の出来自体はそこまで最高傑作だとも思わないのだが(とくに音楽が超絶ダサすぎる)、とにかく個人的にパトリシア・ハイスミスは大好きなので、その作風に影響を受けているとおぼしき本作もまた、拾いものというか、愛着のもてる作品だったという感じ。
あえてヒロインのその後を描かない手法とか、時系列のシャッフルをきかせたナラティヴとか、終盤に出てくるコーヒーポットの演出とかは、とてもいい感じだったかと。「二つの金の卵」の予知夢や「二枚の埋められたコイン」のメタファーが、そのままラストで並んで●●される「運命」を暗示(明示?)しているのも、実に気が利いている。
パンフで高橋諭治さんが、ヒロインがトンネルでパニックになるところや、犯人が「閉所恐怖症でシートベルトができない」というあたりと、ラストシーンの関連性について指摘してられて、なるほどなあ、と。
ただ、あんだけド田舎の駅前とかサーヴィスエリアで、見知らぬ女性に声をかけまくってて、挙句、知り合いにまで気づかずに声かけたりしてて、現実だったらこの犯人、絶対失踪事件の捜査過程で捕まってる(もしくは犯行以前に通報されてる)と思うけどね(笑)。
まあ、この犯罪計画の細かいようでいて抜けまくった「ずさんさ」や、男の醸し出すケント・デリカットのような「愛嬌」と、行う犯罪の残忍さ、非情、狂気の深さの「ギャップ」こそが本作の魅力の一端でもあるので、これはこれでよかったのかな?
なんにしても、こちらがチェックできていなかった秀作を、最終上映としてしっかりリマインドして流してくれた映画館と配給会社に感謝。