チョコレートのレビュー・感想・評価
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女性の鑑賞者の方々。この男を愛せますか?
この演出家はドイツ人の父親とスイス人の母親を持って、スイスで12歳まで育っている。つまり、アメリカ人ではない。映画の勉強と創作の為にアメリカにいるだけだ。従って、同じ白人であっても、南部のプロテスタントに根強く残る有色人種に対する差別や、北部のカトリック教徒の有色人種に対する差別については実感としてないはずだ。でも、差別を贖罪の如く反省している。それは何に対してだろうか。言うまでもなく、ナチス・ドイツのユダヤ人に対するホロコーストと受け止めざるをえない。そうでなければ、この主人公の心理描写は矛盾だらけになってしまう。今まで犯してきて挙句の果てに息子まで自分の手で殺めてしまう。その原因を作った有色人種と逢瀬なんか持てる訳が無い。つまり、この二人には時間経過がもう少し必要なのだ。それが、省略されていると言う事は、ナチス・ドイツが行ったホロコーストの直後であってはならないのだ。充分に反省する期間と教育が必要と言いたいのだと思う。
従って、邦題は間違いで、原題としての『怪物の玉』が正しい。つまり、ヒトラーと言う怪物が投げ挙げたボールを、如何に処理するかと言う事だ。
くしくも、この映画の完成間近にアングロ・サクソン系の白人を含むアメリカ人は、異教徒のアジア人から鉄槌を下される羽目になる。
この作品は『マンディンゴ』と同じ様にアングロ・サクソン系の白人の自虐的歴史史観として評価する。しかし、この演出家の父親は、左翼テロ組織のブラックリストに乗るような人物。ひょっとすると見立違いがあるかもしれない。
いい父親じゃなかった
どん底に落とされた彼女の心に共鳴し、やがて二人は深い男女の仲になっていく。
もちろんハンクがレティシアに惹かれたのは間違いないだろうが、これはソニーへの仕打ちの罪滅ぼしでもあるのだと思った。
ある日、レティシアはハンクへの贈り物を持って彼の留守中に自宅を訪ねる。
そこでバックと出くわし、耐え難い差別的な言葉をぶつけられる。
ハンクは弁明しようとしたが、レティシアは「あなたも同類なのね」とハンクを振り切って去っていく。
病気で死を間近にしても心を入れ換えることの出来ないバックを、ついにハンクは見捨てる決心をする。
彼に対して愛情はまったくないが、安らかな老後を送って欲しいと老人ホームに送り出すハンクの姿が印象的だった。
ガソリンスタンドを買い取ってレティシアの名前をつけたハンクは、住居を追い出されたレティシアに一緒に暮らさないかと持ちかける。
レティシアも彼の想いを受け取るが、ハンクは自分がローレンスの最期を看取った刑務所の看守であることを隠したままにしていた。
ラストシーンは色々と観る者の想像力に委ねられていると感じた。
レティシアはソニーの部屋でローレンスが描いたソニーとハンクの似顔絵を見て、初めてハンクの正体を知る。
ショックのあまりベッドに何度も拳を振り下ろすレティシア。
彼女はアイスクリームを買って戻ったハンクの姿を見て呆然とする。
しかしされるがままにスプーンを口に入れられた彼女はすべてを受け入れたようにも感じた。
「僕らはきっとうまくいくだろう」と幸せそうに口にしたハンクの言葉がとても意味深に聞こえた。
ちなみに邦題になっているチョコレートは、タイレルの好物でもあり、ハンクがカフェでいつも注文するチョコレートアイスクリームを表してもいる。
また年配の白人男性と付き合う若い黒人女性の隠語でもあるらしい。
【黒人蔑視の思想を持つ刑務所看守が、自身の愚かしき思想故に起きた哀しき出来事をきっかけに、思想が変わって行く様と、差別されていた側の女性との仄かなる想いを抑制したトーンで描いた逸品。】
ー 今作は、世間的にはハル・ベリーが有色人種の女優としてオスカーを獲得した作品として有名であるが、私は彼女の身体を張った演技と共に、黒人蔑視の思想を持つ刑務所看守ハンク・グロトウスキを演じたビリー・ボブ・ソーントンの演技を讃えたいと思った作品である。-
■ジョージア州の刑務所に勤めるハンク(ビリー・ボブ・ソーントン)と息子・ソニー(ヒース・レジャー:短い出演時間であるが、善性在る人間の生き様を強烈に演じている。)。
黒人差別意識の強いハンクに対し、心優しいソニーはレティシア・マスグローヴ(ハル・ベリー)の夫でもある黒人死刑囚・ローレンスの死刑執行中に嘔吐してしまう。
ハンクはそんな息子の態度を厳しく叱責するが、翌日ソニーはハンクの目の前で自ら拳銃で自らの胸を打ち抜き、命を絶つ。
一方、レティシアは現実に絶望し、息子で過食症で86キロにもなっている幼きタレイルに対し、自身の不満をぶつける。
だが、そのタイレルがある晩、交通事故に遭ってしまう。
◆感想
・世間的にはハル・ベリーの演技を見る作品なのだろうが、私は、黒人蔑視の思想を持つ刑務所看守ハンク・グロトウスキを演じたビリー・ボブ・ソーントンの演技に魅入られた作品である。
彼の黒人差別思想に反発する、息子ソニーがローレンスの死刑執行後に、父の前で自ら銃で胸を打ち抜き、自死するシーンから、ハンクは徐々に変わって行くのである。
ー ハンクが、ソニーが自身で撃った弾をソファーから取り出し、ガラス瓶に痛恨の表情で納めるシーン。-
・そして、ハンクは自ら刑務所看守を辞める。
その後、街の古ぼけたガソリンスタンドを購入する。
一方、遅刻が続き職を失ったレティシアは町のダイナーで働き始める。
仕事に慣れない彼女は客としてやってきたハンクの前で上手く珈琲を淹れられないが、ハンクは彼女を叱責せずに、チョコレート・アイスクリームを注文し、食べるのである。
ー レティシアの息子のタイレルも父が居ないせいか、過食症になってチョコレートを隠れて食べている事との連動性が見事である。哀しい時には、心を癒す、甘いモノが食べたくなる・・。-
・タイレルは、雨が激しく降る中、夜、レティシアと家に帰る途中、車に撥ねられる。
泣き叫ぶレティシアの横を車で通り過ぎたハンクは、それを見てわざわざ車をバックさせて二人を病院へ送る。だが、タイレルはそのまま亡くなる。
ー 且つてのハンクであれば見過ごす筈であるが、彼は血にまみれたタイレルを自らの車に乗せる。そして、車とレティシアのハンドバックについた、”忌み嫌っていた筈の黒人の血”を黙々と拭くのである。彼の黒人に対する偏見が薄らいでいる事が分かるシーンである。-
・その後も、ハンクは黒人蔑視の思想に反発し、自ら命を絶ったソニーのSUVをレティシアに”貰って欲しい”と言ってキーを渡すのである。
更に、且つて息子のソニーを慕っていた黒人の息子2人に優しき言葉を掛け、ソニーのSUVの修理を息子の父親に依頼するのである。
■ハンクの黒人蔑視の思想を形成した彼の父は、正に”プア・ホワイト”の象徴であろう。
だが、その父は家庭生活が出来なくなり、施設に収容されるのである。
ハンクは、一人になった家にレティシアを招き、愛を交わす。
そこには且つての黒人蔑視の思想を持つ姿は、微塵もないのである。
<今作は、人間の持つレイシズムの根本を描きつつも、その愚かしき思想の根拠の無さを喝破した作品であり、ヒューマニズムに溢れた社会派の作品の逸品なのである。>
人生を変えた一発の銃弾
総合:80点
ストーリー: 80
キャスト: 85
演出: 80
ビジュアル: 70
音楽: 65
伝統的に差別の強い保守的な地域において代々差別をしてきた家に生まれ、その場所で傲慢な態度のまま全てを自分の思うがままに動かしある程度の成功を収めてきたビリー・ボブ・ソーントン演じるハンク。刑務所の看守ともなれば囚人に対して強い姿勢と態度が求められることもあり、そもそも彼にはそんな自分に疑問を持ったことも持つ必要もなかった。自分は強くて正しくて、だから黒人や囚人を力でねじ伏せ見下すという価値観が生活の一部として普通に機能していた。
だがそのような傲慢な態度は周囲の人々にとっての不幸でもあった。だがその彼の行動が招いた一人息子の悲劇は同時に彼にとっての悲劇。その一発の銃弾は彼の今までの全てを否定し彼の人生を全て変えてしまうには充分すぎた。自分の息子が自分のせいで追い詰められ、自分への愛を最後に残して目の前で自決する。これほどの悲劇に直面してようやく彼は初めて自分の人生の間違いを悟る。初めて人の痛みを理解する。
彼の喪失感があまりに大きかったからこそ、その後の彼の大きく方向転換した人生が生きてくる。それは夫を失った直後に、貧困の中に唯一残された息子を失ったハル・ベリー演じるレティシアも同様。当初は同情や貧困からの救済というものだったかもしれないが、結局その大きな喪失感が二人を結びつけた。
お互いに傷と喪失感を抱えて、それを埋めあい慰めあい支えあえる存在。そこに至る過程の描写と孤独・喪失感の描写がよく出来ている作品だった。不幸の中にもほんの少しの癒しと希望が見えた。
「チョコレート」という邦題、なかなかよく考えたと思う。貧困でチョコすらまともに買えない家庭環境、それなのにチョコばかり食べて太っていく子供はどうにもうまくいかない人生を象徴しているし、そして差別を象徴する肌の色でもある。原題よりもいいくらいなのでは。
人生はビタースイートのチョコレートの味?チョコは味わう為にある。
昨年『Dr,パルナサスの鏡』を観て面白かったのと、『ブロークバック・マウンテン』が大ヒットして、こちらの映画も満員の渋谷の映画館で観て、凄く気に入っていたその、ヒース・レジャーが亡くなってからも、中々彼の初期の作品を観るチャンスが無かったのだが、ぶらりとレンタル屋へ行くと10年も前の作品であったがこの『チョコレート』を見つけ出し観てみると、題名やパッケージの写真からは程遠い、ビターなビターな涙の味のする映画だった。映画の舞台は、多分アメリカ南部に近い片田舎なのだろう。時代はこの作品が制作された2000年頃なのか定かではない。(もしも、何処かで時代を判別出来るシーンがあったらごめんなさい)
大半が多くの移民から始まった合衆国アメリカで、ごく最近までこの様な人種差別がまかり通っていたとするならば、これは、余りにも悲しい負の遺産である。『ミシシッピーバーニング』『フライドグリーントマト』は現代の話しでは無いし、確かに少し前の時代の事として、考えると気持ちが少しは救われる気がする。
しかし、この映画で描かれている様な、親子の葛藤や、3世代同居に絡むジェネレーションギャップは、今の私達の生活する日本の中にも歴然と存在し続けているし、自分の心の内を覗けば、全く誰に対しても、一切の差別的偏見など無いと、胸をきっぱりと張って神に否、仏であろうと誰にでも自分は一切の偏見を持っていないと言い切る事が出来ない自分の弱さを見せ付けられる作品だった。自分は老若男女に、他民族に、障害者に、セクシャルマイノリティーに、ホームレスに対して、同じ優しさで接する事をしているだろうか?
ある種の職業に就いている人に対して偏見や、差別意識を抱いていないのか?私をとても不安にさせ、尻込みをしたくなる迫力がこの作品の根底には静かに横たわる映画だ。
しかし、この映画は、愛する家族に、愛を真正面から、中々伝える事が出来ない事が起因する悲劇と、個人の力だけでは解決しきれない、差別社会のタブーも人は失敗と言う経験を踏む事で、新たに再生する事が出来、改善して行くその道が例え、困難であっても必ず同時に改善の方法は存在している事を指示してくれる、魂の再生の映画だ。
昔から「神様は乗り越えられない苦労を試される事は決して無い」と言う。本当に誰もが、そう信じて、あらゆる運命の困難な局面に対しても、常に前向きに、明るく偏見の無い、柔和な心で生きて行く事が出来たら素晴らしいと思う。人が人生を行くのは、ビターな事だが、ビターであれば在るほど、スイートを欲するものだ。
今のこの日本でも、学校で、会社で、社会でいじめが存在している。政治家も、互いにあげ足取りばかりしている。そして年間3万人以上の自殺者を10年以上も生んでいる社会が、他の国で有るだろうか?これは、政治家だけの解決出来る問題では決して無い。
一人一人の心の中に、チョコレートアイスの様な甘い香りを持てたなら、思いやりの気持ちを育てる事が出来るなら、優しく生きる事は、強くなければ出来ない。
優しさは、弱い事では決して無い、最も柔軟な心の弾力が必要で忍耐を要する物かも知れないが、その心を沁み込ませねば決して甘い人生を楽しむ事は出来ないと思う。
是非、貴方の人生も、とろける様な甘い香りの素敵な人生になる事をこの映画を観ながら
願うばかりだ!!
心を癒す手段、それが「チョコレート」
映画「チョコレート」(マーク・フォスター監督)から。
原題「モンスターボール」(処刑前夜のパーティのこと)が
どうして、このタイトルに変わったのか・・
私の興味は、そこにあった。
話題になった人種差別や、セックスシーンは、
あまり私のアンテナには引っ掛からなかった。
映画の中では、チョコレートが出てくるシーンが二つ。
ひとつは主人公の二人が
「チョコレート・アイスクリーム」を注文し、
「プラスチックのスプーンでね」と会話をするシーン。
そしてもうひとつは、黒人の子どもが
肥満になることも気にせず「チョコレート」を食べ続けるシーン。
和訳を考えた人が、タイトルを変えて私たちに伝えたかったこと。
それは、後者ではなかったのかと思う。
死刑になるほどの事件を起こした父親を持った、彼のストレスは、
私には想像が出来ないくらい大きなものだろう。
そんな彼のストレス解消法が「チョコレート」などの甘いものを
食べることだったのかもしれない。
そして彼は、食べることにより、心を癒していたのだろう。
誰でも抱えている、ストレスとの付き合い方と解消法。
それは、食べることであったり、セックスすることであったり、
人によって違う。
私たちは他人の奇怪な行為に対して
「どうしてやめられないの?」と責めてしまいがちだが、
「もしかしたら、この人なりのストレス解消法かもしれない」と
考える余裕を持って接してみたい。
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