「惜しむらくは」さらば、わが愛 覇王別姫 ターコイズさんの映画レビュー(感想・評価)
惜しむらくは
母に捨てられ京劇の養成所で育った小豆子。彼が生き抜けたのは石頭がいたからなのだ。時には庇い時には泣きながら叱咤してくれた彼なくしては、そして京劇なくして小豆子には生きる意味がない。
この覇王別姫を貫いたのは、一振りの剣でこれさえあれば虞美人は自刃せずに済んだかもしれないといういわくのあるもの。この剣が、石頭を想う小豆子の運命を翻弄する。小豆子は女形として心も女にならなければならない。そうして成長した蝶衣は小樓(石頭)を愛しているしかけがえのない存在としてみている。しかし情愛の関係が成立するのは舞台でだけなのだ。蝶衣は自分の恋情を隠しただ指をくわえ見続けることしかできない。なまじ親しい近い存在なだけのほとんど罰を与えられているかのよう。
蝶衣の叶わぬ恋情の50年ではすまないのがこの作品の深さだと思う。世が世なら切ない恋の物語で済んだかもしれないが、時代が彼らにそれを許さない。日中戦争、国共内戦、共産政権樹立、文化大革命と時代と権力に翻弄され、裏切り、憎しみ、怒りを抱きあい、そして京劇すら奪われていくことになる。
この映画は、覇王別姫という王と愛妃の悲恋という劇を演じる蝶衣と小樓が描かれるが、それを演じるのはレスリー・チャンとチャン・フォンイーという俳優なわけで、ここがちょっと個人的には思うところがあって。レスリー・チャンのチャン・フォンイーについての発言を聞くと、香港と中国の俳優という価値観や演技スタイルの差もあったのかもしれないが、レスリー・チャンにとって小樓を愛する演技に微塵の影響もなかったのだろうかと。レスリー・チャンが雑念なく蝶衣になれるキャスティングで観たかった気がしてしまう。濃密な原作を踏まえた素晴らしい映画なことは言うまでもないので、そうであればもっとすごいものになったかもしれないなと。
二人の年月を大雑把に語る小樓と訂正する蝶衣が切なかった。最後の舞台のために、蝶衣は十分生きたとも言えるのかもしれない。