「アン・リー姐さん大いに叫ぶ」ブロークバック・マウンテン 瑠璃子さんの映画レビュー(感想・評価)
アン・リー姐さん大いに叫ぶ
アカデミー作品賞を「クラッシュ」と争って敗れた「ブロークバック・マウンテン」。個人的に「クラッシュ」を非常に面白く感じていたので妥当なんじゃ?と思っていたが、「ゲイ映画だから差別したんだ」との声があちこちのブログやらで見受けられた。それほど素晴らしい作品だったのかと期待してみたが、これがあんまりだったというわけ。
確かに映像はきれいだ。だがその映像には何の意図が込められていたのだろうか。明度と彩度をすみずみまで行き渡らせた結果、綺麗ではあるが画一的な映像になっていたと思うし、風景は風景としてただそこにあるだけで、その中になにか心象風景が組み込まれていたようには、私には見えなかった。「獅子座」のように別に美しくもなんともない汚い川の風景にもかかわらず、水面の煌きが人生の儚さと美しさを圧倒的なまでに表現したことに比べ、この「ハリウッド」映画の「映像美」がいかに作り物めいていることか。「バッドランズ」(邦題「地獄の逃避行」)における、木々の一葉一葉にまで丁寧に気を配られた映像美を思い出せば、ただただCGで洗いをかけたような「人工的な自然美」には食傷気味になるだけだ。
映像に関してはこれぐらいにして、では物語はどうか?
この映画に関するレビューを読んでいると結構無邪気に「男同士の愛だから純愛だ」と断定してしまっている人(高確率で女性)もいて、私としては考えなしにそういいきってしまうのは、それこそ差別なんじゃねーの?と思ってしまう。そんな神聖視するものなのだろうか。
少数派をゲイ、多数派をヘテロという単純な区切りで考えるのならば、男女というのはある意味「両者の合意があるのならばくっついて当たり前」であるのであって、そこに“両者が合意しているにもかかわらずくっつけないのは何故か?”という理由が物語を成立させる--どっちかが既婚者である、身分が違う、本人のメンタル的なところに問題がある等々--とするならば、同性愛というのはまだまだ“くっついている”のが不自然であるという部分は否めない。ゆえに「なぜ恋愛が成立しているのか」という部分を丁寧に書き込まないと、(ヘテロに属する)観客は感情移入しづらかったりする。普遍性を見出せないと共有できない。
そういう意味でいえば主人公二人の馴れ初めが、恋には理由はいらないよとはいえ、アン・リーの一人合点という感がする。「いいのよ!アタシがこれでいいって思ってんだから!もうこれよこれ!サイッコー」というアン・リー姐さんのお言葉を受信シマシタ(嘘。テキトウ)。そんなことはどうでもいいんですが、どうして二人が恋に落ちたのかというキモがあまりにも説明不足ではあると私は思う。そしてそのあたりを風景や情景で心象風景を代弁させているわけでもないので、なんだか成り行きと成立具合に唐突な感を覚えてしまう。(性欲から始まった恋愛が普遍的な恋情へ昇華されるのかっていうことをテーマにしたわけでもなさそうだし)そして男二人が無邪気に楽しむ姿を見ているうちに、ブロークバック・マウンテンから追い出され生活の只中に晒される場面へあっという間にうつってしまい、以後はその「永遠の夏」に縛られ、再現しようとして挫折していく男たちの姿を見続けることとなる。観客が二人の「愛」に納得し共感していることを前提に話が進みすぎではないか。
大事なところを置き去りにしてしまったがゆえ、ゲイであるとかないとかいう以前に物語としてフツーに面白くないのだ。最後さすがに泣かせるシーンがでてくるが、それは愛という不確かなものを心のよりどころにしてしまった結果縛られ殉じることとなった人間の悲しみ、最も偏見を抱いてのは誰かということに気づいたが既に遅すぎたことを熟知した男の背中にグッとくるのであって、ここにいたって初めて物語は普遍性を獲得したといえる。どちらにしろ「遅すぎた」と思えますが。そういうわけでこの物語を男女間に置き換えたら(不成立条件にどのような理由をつけたとしても)陳腐で退屈な作品に仕上がってしまうのではないだろうか。であるからこそ、普遍性を獲得していないと私は思う。
以上、私としては「アカデミー監督賞」というのは非常に妥当な線だと思えました。わかったわかったアン・リー、みたいなところですかね。悪い作品ではないけれども、傑作とは言いがたい。そういう作品でした。(しかし「クラッシュ」が作品賞で「マグノリア」が無冠っていうのがどうにも納得できないなアカデミー賞ってやつは)