めぐりあう時間たちのレビュー・感想・評価
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劇場で観て以来15年ぶり?2度目。 一度目はどっぷり感情に浸ってし...
劇場で観て以来15年ぶり?2度目。
一度目はどっぷり感情に浸ってしまってわからなかったところが2度目だといろいろ見えた気がする。
と言うか勝手に解釈した。
ローラ・ブラウンとクラリッサ・ヴォーンの一日はヴァージニア・ウルフの小説なのではないか。
実際ヴァージニア・ウルフの小説にそんな内容のものはないのだけれど、初めて観た時ヴァージニア・ウルフだけ時間軸が絡まないことが妙に気になっていた。
そう考えると私の中ですっきり通る。
そんな解釈をしているレビューは見たことがないのだけれど。
また観てみよう。
新たな発見があるかもしれない。
ダロウェイ夫人とは?
文学的なかほりがする。「オーランドー」だけは読んだことがあるのだが、ヴァージニア・ウルフのことは、あまり知らない。wikiってみたら、実際に入水自殺していたらしい。姉のヴァネッサとは仲が良かったようで、今作でも引用されている「ダロウェイ夫人」の次作「灯台へ」を出版する際は、姉が装幀を手掛けたそうだ。ちなみに、ヴァネッサの生き様もなかなか激しい。この映画では良妻賢母のような雰囲気だったが。
ヴァージニア・ウルフから、ローラ、クラリッサへ、時を越えて受け継がれる「ダロウェイ夫人」とは、どのような女なのだろう。すごく知りたくなってきた。どうも観念的で読みにくそうな気がするが、チャレンジしてみるかな。
オープニングでキャストの名前を見ていたはずなのに、ヴァージニア・ウルフがニコール・キッドマンだと、最後まで気づかなかった。ジュリアン・ムーアも老けメイクで、二人には女優魂を見た。
いくら心を病んでるとはいえ、長年親しくしていて、自分の面倒までみてくれている人の前で、飛び降り自殺するのはひどい。その人がどれだけ傷つくか、思いやれないものかな。そんなことを考えられないくらい、追い詰められていたのだろうか。負の遺産が続くようで、やり切れない気持ちになった。あと、真っ青なケーキは怖いわー。
BS松竹東急の放送を録画で鑑賞。
ヴァージニア・ウルフや原作へのリスペクトに溢れる死と生を対置したドラマ
1 ヴァージニア・ウルフとは何者か
1882年生まれ1941年没の英国の女性文学者。ジェイムズ・ジョイスらとともに、「意識の流れ」のモダニズム手法により小説の在り方に変革をもたらした。
ロンドン・ブルームズベリーの自宅に、姉や兄とともに文化人社交サークル、ブルームズベリー・グループを形成し、新しい文化・思想の発信地の役割を担う。
グループの中心は兄であるケンブリッジ学生トービーや、画家の姉ヴァネッサとヴァージニアで、メンバーには「4月は最も残酷な月」で知られる詩人T.S.エリオットや、有効需要の原理で経済学に革命を起こしたジョン・メイナード・ケインズがいた。
私生活ではレナードと結婚したが、男性との性生活が営めず、ヴィタ・ウエストら複数の女性と恋愛関係を結び、晩年には「戦争は男性が引き起こすもので、女性が国家に影響力を持っていれば戦争はなくなる」というバカげた戦争論『3ギニー』を発表。
また、父母の死後、精神病に悩まされ、22歳、32歳の時に自殺未遂事件を起こし、最後には1941年に59歳で入水自殺する。
以上の履歴から彼女は今、「前衛芸術家、フェミニスト、レズビアン、リベラル知識人の文化的アイコン」となっている。
2 『ダロウェイ夫人』の内容
1925年に発表されたウルフの代表作である。ジョイス『ユリシーズ』と同じく、意識の流れを人間の現実と捉えて、英国上流階級の女性がパーティを開く一日の感覚、感情、記憶等を辿るとともに、これと第一次大戦で心に傷を負った男の狂気と死を対置させることにより、生への肯定的な志向と否定的志向という人間存在の振幅の大きさを描く。
当初、表題は「時間」と予定され、ウルフは「この本で私は生と死、正気と狂気を描きたい」と日記に記している。
狂気を代表するのは当初、ダロウェイ夫人本人と構想されていたが、やがて第一次大戦でシェルショック、今でいうPTSDにより精神を病んだセプティマス・ウォレン・スミスとされた。
セプティマスは「雀たちがギリシャ語でさえずっている」と妄想し、死に追い詰められていくのに対し、ダロウェイ夫人は俗物だが、「もう恐れるな、灼熱の太陽を、激しい冬の嵐を」と念じつつ、「パーティとは人生への捧げものだ」と人生を肯定する。
ウルフの狙いは両者を対置させて描くことであり、いずれかを勝たせいずれかを退けるものではなかった。
3 小説『めぐりあう時間たち』について
米国の作家マイケル・カニンガムが1998年に発表。原題が「時間」というのを見てもわかるが、『ダロウェイ夫人』の「本歌取り」的作品である。つまり、ウルフの小説を換骨奪胎して、類似の設定で類似のキャラクターを登場させ、別の内容を語ろうとしている。
本作の訳者高橋和久は「1980、1990年代の小説には、文学史上の『古典』に『寄生』し、その続編もしくは前史という体裁をとった作品がずいぶんと発表され、それがポストモダン小説のひとつの潮流となっていた」といい、本作もウルフの設定、人物ばかりでなく、文体まで模倣するなどしており、その一つであると指摘する。
確かに、ダロウェイ夫人がロンドンのバッキンガム宮殿周辺を歩き回れば、本作では「ダロウェイ夫人」というニックネームの女性がニューヨークの中心街ソーホーやグリニッチ・ヴィレッジを歩き、花を買い求めると、二人ともその途中でバカのような知人(ヒュー・ウィットブレッドとウォルター・ハーディ)に出会う。以後、ウルフ作品と類似の出来事が頻出するのである。
小説はこの「ミセス・ダロウェイ」のほか、「ミセス・ウルフ」「ミセス・ブラウン」を登場させる。
ミセス・ダロウェイはエイズと精神を病むかつての恋人、詩人リチャードの面倒をみるほか、何年も会っていなかった昔の友人ルイスに会う。彼らはウルフの小説のセプティマスとピーターに相当する。
ミセス・ウルフはヴァージニア・ウルフ本人で、狂気に陥るのを恐れるとともに、使用人に威圧されながら小説『ダロウェイ夫人』を執筆する。
ただ一人、1950年前後の米国の理想的家庭の主婦ミセス・ブラウンは、小説『ダロウェイ夫人』を読んでいる心を病んだ女性だが、彼女を登場させる必然性がよくわからない。子供リッチーの意味もまたしかり。
ところが詩人リチャードが自殺した後、本作はそのフルネームが「リチャード・ワージントン・ブラウン」であることをさりげなく示す。この瞬間に影の薄かったブラウン夫人とその子リッチーがいっきょに主役に浮上し、本作の独創性が際立ってくるのである。
「失われた母親であり、挫折した自殺願望者であり、一切を置き去りにして立ち去った女」ミセス・ブラウンの息子リッチー=リチャードは、心を病んだ挙句、ミセス・ダロウェイに向かって「でもやっぱり時間はやってくるだろう。一時間、また一時間と。それを何とかやり過ごす。するとなんてことだ、次の時間がやってくるじゃないか。吐き気がしそうだよ」と言い残して、ビルの5階から飛び降りていく。ああ、あの子が数十年後にこうなったのかと読者は驚愕し、沈黙せざるを得ないのである。
彼の通夜に訪れたミセス・ブラウンを迎えたミセス・ダロウェイがどうしたか。
「怒りと悲しみに満ちた女性。悲哀に満ちた、目眩めく魅力に満ちた女性。死に恋した女性」を前に、彼女は夜食を用意して、「こちらへどうぞ。準備万端整いました」ともてなし、小説は終わる。ウルフ作品とは異なる「パーティ」の主催者として、人生への捧げものを提供するのだ。見事だと思う。
4 映画作品について
ヴァージニア・ウルフという作家とその代表作の本歌取りをして、素晴らしいドラマを構築した原作は、いかんせん複雑すぎる。ましてやその映画化である本作にいたっては、ヴァージニア・ウルフの伝記や『ダロウェイ夫人』、さらにカニンガムの原作を読んでいなければ、そのあらすじさえ理解できないに違いない。
映画を見ているだけでは理解できないのでは、作品として評価しようがない。普通ならそうだろう。
ただ、本作にはウルフやその作品に対するリスペクトがあり、死と生を対置したドラマがある。その志をよしとしたい。
難し過ぎ
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女性小説家がうつ病で病んで自殺未遂、夫と共に田舎へ。
そこで紆余曲折あって、結局自殺。
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心の世界、おれの割と好きなテーマなのに、難しくて分からんかった。
現実世界と、小説の中の世界(ニコール領域、メリル領域)が並行して進み、
どれが何で何がどれなんかさっぱり分からんかったわ。
その主な理由がオバちゃん達が多数出過ぎなこと。しかもみんなそっくり。
だから誰が誰なんかもよう分からんままについてけんくなった。
また見る機会があれば高得点つけれるかも知れんが、今は☆2つで。
今回は鑑賞しながら、レビュー書いたので、めちゃくちゃ。すみません。
2回見ているが、なんだか分からない。
2001年のカップルの関係とか、リチャードの事とかは分かるのだが、最初のカップルがヴァージニア・ウルフなのか?。
二回目終了まで1時間37分。さて。
内容は理解出来だ。しかし、所詮、躁鬱と言う病気を克復出来ないままの結末、故に納得できない。
原作者は、日本で言えば、太宰治見たいな作家なんだろうと思った。
文学的って言うだろうが、それならば、小説を読んだ方が良い。しかし、彼女の話は少し敷居が高い。分かりもしないのに分かった気になりたくない。しかし、仕事がら読まなければと、今は考えている。
二回目見終わったが、何だか分からない。スジは分かったが、何を言いたいのか分からない。少なくとも、ヴァージニア・ウルフの時代にLGBTの事やフェミニストの事なんか影も見せていない。彼女は鬱で亡くなったのだろうから。それを美化してはならない。
ニコール・キッドマンってどの役?僕はニコール・キッドマンを知らない。ヴァージニア・ウルフのお姉さんかなぁ?ヴァージニア・ウルフ本人なんだ。
『誰の為に生きるか?』がテーマなのか?
人類の為、社会の為、家族の為、そんな事決まっている。僕はフジコさんと一緒。だから、この映画肌に合わないのか?兎に角、たとえ、親や子供であっても、そっ先して自ら死を選ぶなんてしない。死んでしまったら、楽しい事ばかりになって、悲しむ事も出来ないんだから。フジコさんのドキュメンタリーと逆のイデオロギーかなぁ?
アンジェリカ?が最後までローラだと思っているが。
ローラの様だが、それが重大なテーマでは無いとオペラを見て分かった。
さて、明日はこのドラマがオペラでどう表現されるか?それが期待大だし不安。
オペラのテーマは『心のままに生きよう』だった。
作品の真価は原作にあるのだろうが、オペラのテーマは『生きる』だった。原作は?この映画のどこにオペラと同じテーマが隠されているのか?
オペラの演出家は原作と映画を参考にした旨の話をしていた。だから。
ダロウェイ夫人〜心の渇き
ニコール・キッドマン演じる女流作家ヴァージニア・ウルフの心が、不安定に揺れ苦悩し続ける姿から目が離せなかった。その美しい瞳とスレンダーな肢体のみニコール・キッドマンでした。
精神が不安定な母( ジュリアン・ムーア )の顔色ばかり伺う幼い少年リチャード( ジャック・ロヴェロ )。大好きな美しい母を見つめるその瞳が切ない。
ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ、エド・ハリスの競演の見応えある作品。
ー凍てつくような疎外感
ー後悔すら出来ないものよ…他に道がないと
ー選んだの…生きることを
BS松竹東急を録画にて鑑賞 (吹替版)
まだ観ていないと思って借りたら、実は観たことがあったというこの映...
まだ観ていないと思って借りたら、実は観たことがあったというこの映画でした。
「めぐりあう時間たち」とは、3つの時~作家ヴァージニア・ウルフ(by ニコール・キッドマン)と、大戦後のロスアンジェルスの主婦ローラ・ブラウン(by ジュリアン)と、そして現代のニューヨークの女クラリッサ ・ヴォーン(by メリル・ストリープ)。
そもそも3つの時が絡み合っているので、説明はなかなか難しいのですが、冒頭では特に切り貼り・コラージュのように3つの時の出来事やエレメントの「偶然」(シンクロニシティ的に捉えてもいいのでしょうか)が映像で語られます。
全編を通じて、花を買うこと・飾ること、本や書くこと、家や他人の世話をすること、パーティをやる、まどろみ・・・などに女性の人生や女性性(フェミニニティ)が象徴されているように思います。それらはすでに冒頭で暗示されています。
物語は絡み合い、特にそれぞれの女性の生き方の難しさ、苦悩のようなものが暗示されたり、語られたりします。ヴァージニア・ウルフは自殺を図り、ローラ・ブラウンも子どもを預けた上自殺を考えますが、思いとどまり、妊娠中だった子どもを産んだ直後に家族を捨てて家を出る決心をします。その代わりというか、数十年後のニューヨークで、彼女の上の子リチャード(リッチー)が、エイズに苦しんだ挙げ句手にした詩人の賞の祝賀パーティに出ることなく、自殺を遂げてしまいます。
3人目のクラリッサは、編集者として働きつつも、エイズで自暴自棄になった才能溢れるリチャードのアパートに通い、面倒を見つづけます。
3人の女性はそのリチャードの自殺後にクラリッサのアパートで「逢う」ことになります。クラリッサとローラと、ヴァージニア・ウルフは『ダロウェイ夫人』の本(の著者)として・・・
補足ですが、アメリカでもゲイ・カルチャーにオープンであったNYやサンフランシスコなど、都市部を中心にエイズは席巻したという感じでした。特に知識人や芸術家に多かったこともあり、そのコミュニティ内では多くの人が冒され、亡くなり大変な喪失を味わいました。その後、「治る」わけではないですが発症を食い止める特効薬は開発され、以前ほどには「怖い」ものではなくなったものの、ある種のコミュニティのある世代にとってはトラウマとなっていると思えます。(短い間ですがエイズ・HIV関連の仕事をしていたことがあります。)
実は、冒頭に書いた通り観たことがいいと思ったら観たことがあったのですが(家人には機内で観たんでは? と言われましたが、記憶のあいまいさから見てそれはあるかも)、あれ? と思ったのは子どもであるリッチーがママの知り合い?に預けられるとき、なにか子どもならではの嫌な予感がしたのか必死に抵抗して、去りゆくママの背中に叫ぶシーン。この辺りで、あれ、既視感があるぞ・・・とやっと思い始めたのでした(笑)。
さらに個人的には、NYに長いこと住んでいたので、アパート内の様子にとても惹かれました。生活感とインテリアのスタイルを上手く組み合わせたような、映画の中のインテリアは、近年の映画では登場人物の生活状況や性格を表すものとして、またスタイルやファッション性でもとても興味を惹かれます。NYの生活空間が大好きなのですが、また訪れる云々は別として(現在コロナですが)、やはり自分の身の周りでできるインテリアの改善をしなければ、と思わされた映画でした(笑)。
ファッション面でも参考になることが多かったです。女性目線ですね。
3人の女優の共演(競演)というところも見所。豪華というほかありません。個人的には、ニコール・キッドマンとメリル・ストリープは以前から好きではありますが、なんとなく「人」が前面に出てしまっているように見えたメリル・ストリープ(現代の役だからでしょうか)よりは、見事「役」の中に沈潜したニコール・キッドマンにやはり軍配が上がるでしょうか。エキセントリックでメンタルを病んだ(と言われた)女性を見事に演じきっています(アカデミー賞取ったんですよね?)。
ジュリアン・ムーアについては申し訳ない、あまり知識がなく・・・が、惹かれました。というのも、彼女の苦悩はほとんど会話やセリフに表れていない形だったからです。表面上は幸せな女性を演じつつ、内面では追い詰められているという「二重の演技」だったかと思います。
惜しむらくはヴァージニア・ウルフのことをもうちょっと知っていれば、楽しめたのでしょう。『ダロウェイ夫人』、読みたくはなりましたが。英語圏ではヴァージニア・ウルフのことはよく知られているので、あちらでの方が評価は高かったのではないかと思います。
設定は面白いもののよく理解できず。
異なる時代の女性たちの1日を描く
全く関係ないように見えてヴァージニアウルフの小説によって時代を超えた影響のようなものがあり
面白い設定だったけれど
特にジュリアンムーア演じる女性の心は全く理解できず、、、
リッチーには怪物扱いされてたようですがその辺も伝わらない。
ヴァージニアは、入水シーンが二度出てくるので時間の流れがいまいちわからなくなるけどロンドンに行かず自殺したの??
タイトルなし
ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」がダロウェイ夫人の一日を描いていたと同じく、三人の女性のそれぞれの特別な一日を描く。ヴァージニア・ウルフその人が自らの命を絶つ一日、1950年代のアメリカの一主婦が家を(子供を)捨てる一日、レズビアンの女性がかっての夫であったゲイの男友達を失う一日。そして全編に漂う水のイメージ、レズビアンのモチーフだろうか。満足度はもう一つだが、三人の主演女優はみんな好演。でも、最もしどころのない(派手な見せ場のない)役である主婦役を説得力を持って演じ上げたたジュリアン・ムーアが一番か。
異性愛者にはわかりづらいはずなのに
3つの時代が交錯するわかりづらい映画で、監督がバイセクシャルで原作者が同性愛者(ゲイ)であるのが影響しているとしか思えないが、物語中にも同性愛者またはバイセクシャルが数人出ている。そこからしても私というフィルターをを通してからはこの映画は良くわからない映画として評価はできなくなる。善悪というよりわからないとするしかないだろう。複雑である。交錯しているうちに3つの時代が収斂していくが、同性愛やバイセクシャルの複雑さとともに、死の願望やノイローゼというような、不安定な心理が加味されて、同性愛者またはバイセクシャルが、悲劇を伴うところ、哀しみを抱いているところが、評価は私としては出来ないとしても、軽薄ではない。未亡人になった女は死んだ同性愛者の夫人であり、夫が死病の感染症になっても揺らがずに沿う。だがその夫人も同性愛者であったようだ。死後に訪ねてくるのは、同性愛を夫に隠してきた老婦人である。老婦人は同性愛の複雑さから自殺を企てるが生きる事を選ぶ。その子である男も同性愛になるが、それがもとなのかエイズが隠喩的に語られているのか、エイズで衰弱したことがもとで、投身自殺する。そして、その男を介して出会った二人の女が向かい合う。私にはこの映画がどうしてアカデミー賞などをいくつも受賞した作品になったのかはわからない。同性愛者やバイセクシャルにとっては、そうした人たちを美化するような意味合いを持つのだが、異性愛者が大勢なはずの社会の中でこの映画をどうしてトップに置いたのか。ヴァージニア・ウルフに至っては、普通に誠実で良い夫を持ちながら、入水自殺をしてしまうという精神不安定を抱えた人である。やはりどうしてこの映画が賞を数々受賞したのか、何を言いたかったかを、何事かを理屈づけて語ってはいたが、私には良くわからない。ただ、生き残る者もあれば、悲劇に終えるものもあるというのは、関係者たちは救われようとしているのだと感じさせる。ふざけて同性愛者やバイセクシャルをしているわけではないのか。だが私としては異性愛が人間の基本なのだと付け加えるしかない。単純に開き直りも通り越したような明るい映画にしていなかったところが気にかからせる。
「幸せ」は主観でしかわからない
3人の女性達、全員、客観的には幸せ。理解ある夫orパートナーがいて、子供がいたりもするし、生活苦でもない。3人は産まれた年代が違い、世間が保守的だった時代の2人は同性愛に気付いてもどうしようもなかったが、3人目はそれもオープンにパートナーを持つこともできていて、精子提供で子供まで持てている。それでも3人とも、気持ちの面で晴れない。
1人目は作家、ダロウェイ夫人を執筆中。支えてくれる夫もいるが精神的には不安定で、なんとなく子持ちの妹に恋愛感情がある。ダロウェイ夫人の展開をどうするか迷いながらも書き上げたものの入水自殺。
2人目は専業主婦、長男に続き長女を妊娠中。豊かに暮らせるだけでなく、優しい夫がいるが、生き生きした感情を持てない毎日。ある日近所の友達の婦人科系の病気を慰めようとして、ふと同性愛にも気付く。ダロウェイ夫人を読書中。結局その後、2人の子供を残して家出しカナダで職を得て1人で生活する。
3人目はオシャレな女性同性愛者でパートナーも娘もいる。今は毎日会う男友達だが、その男性と若い頃に付き合っていた時が幸せのピークだったと感じている。男友達もそう思っていて、精神的に不安定な生活の末、目の前で飛び降り自殺。彼は2人目の女性に捨てられた長男だった。
激動の3人の人生をシャッフルしながら観て、感じた事。客観的な幸せと、主観の幸せは違うということ。そして、家族や周りを幸せにする事が、必ずしも本人にとっては幸せとは限らず、周りを捨てて不幸にしてでも、本人が幸せになれる事もあるということ。周りには理解できない幸せもあるということ。
何より、周りがどれだけ理解しサポートしてくれていたとしても、恵まれていたとしても、かえって息苦しかったりして、イキイキした生命を生きる感情は自分自身にしか作り出せないということ。
イキイキ生きられていない場合、死ぬまでの時間を過ごしているに過ぎなくなってしまう。自分にとっての幸せな生き方はなんなのだろうと問いかけられた作品。
流れる時間と意識を断つ死
昔初めて観た時に感じた、何とも言えない息苦しさが鮮明な記憶として残っており、再鑑賞。ようやく言葉として表現できる気がします。
絶え間なく流れる時間を意識させつつ、自由と抑圧、叶わぬ愛、生と死を通して、"Mrs. Dalloway"という劇中にも登場する小説のように、各女性の人生とその結末を象徴する1日を切り取るような形で描いています。
1923年 Richmondで静養中の作家Virginiaは、"Mrs. Dalloway"を執筆中。
1941年 Sussexにて夫宛に遺書を残してVirginiaは川へ身を投じる。
1951年 LAで"Mrs. Dalloway"を愛読するLauraは二人目を妊娠中。
2001年 NYで元彼Richardに"Mrs. Dalloway"という愛称で呼ばれるClarissaは、Richardの受賞パーティ開催に奔走する。
ネタバレするとRichardはLauraの長男。
幸せの形は人それぞれですが、人によっては他人にその幸せの拠り所を求め、ひたすら「幸せの押し売り」をしてしまいます。例えば、Leonardは妻Virginiaの静養に「良かれと思って」LondonからRichmondへ引っ越し、Danは自分にとっての典型的なアメリカンドリーム、「幸せな家庭」を築き上げることで妻Lauraも幸せだと信じており、Clarissaは、過去最高に幸せな1日をくれた元彼Richardから長年離れられず、本人が望まないパーティを計画します。善意を押し付けられている側はどうかと言うと、田舎で暮らすぐらいなら死んだほうがマシ、都会のLondonに戻りたいと泣くVirginia、息子を捨て胎児と共に自殺を試みるLaura、Clarissaを満足させるためだけに生きているんだと、AIDSに苦しみ自殺するRichard。
押し付けている側が身勝手かというとそうでもなく、そこには彼らなりの確かな愛があります。その愛が全く伝わっていない訳ではなく、Virginiaは遺言で夫に感謝し、Lauraは自分の望む人生を選んだだけだ(少なくとも憎んでいる訳ではない)と言い、RichardはClarissaに愛を伝えてから飛び降ります。
これら3つの時代の鍵となる"Mrs. Dalloway"という主人公を創り上げる作家Virginia Woolfがどういう人物かというと、精神を病んで生と死に高い関心を抱いています。
"My life has been stolen from me. I'm living a life I have no wish to live."
そしてどんな人間も自身の人生の処方箋に意見できるはずだと主張します。
"The meanest patient, yes, even the very lowest is allowed some say in the matter of her own prescription. Thereby she defines her humanity."
実際の小説内の"Mrs. Clarissa Dalloway"は、伝統的な階級社会を重んじて下流階級を軽蔑しつつも、先進的な考え方の女性に惹かれるという、上流階級の英国女性です。NYのClarissa Vaughanと同じように、パーティの準備に追われながら、過去に想いを巡らせ、些細なことを気にする姿が書かれています。この映画の中では、社会的には成功し自信に溢れて見えるが実はそうではない、とLauraが述べています。NYのClarissaと同様に、傍目には何不自由なく、理想的な幸せ(仕事や地位、パートナー、娘)を手に入れているように見えても、「沈黙を隠すパーティ」のように、所詮うわべだけで、過去に囚われ中身のない「生」を生きている人なのです。
そしてClarissaだけでなく、主要登場人物は全員、渇望したものが手に入らずに苦しみます。都会の喧騒、子供、自由、家庭、母、最愛の人…。不妊で悩むKittyの言葉にそれが表れています。"All my life I could do anything except the one thing I wanted."
突然の訪問客、予定より大幅に早く到着する来客に象徴されるかのように、人生において全て計画通り、思い通りにいくことはないでしょう。では人生の「時間」を期待通りに過ごせない場合、彼らはどうするのか。Virginiaの言うように、各自が決断する権利を持つならば、彼らは人生とどう決着をつけるのか…。
Virginiaは夫との年月、夫の愛に感謝しつつ、生を捨てて死を選びます。RichardもVirginiaと同じ最期の言葉を残します。"I don't think two people could have been happier than we have been." 過去に幸せな時間は流れたものの、未来に幸せを期待できずに死を選ぶのです。
Lauraはおとなしく従順に見えますが、全く主婦業には向かない女性です。レシピを追っても失敗するケーキ作りやその毒々しい色合いにも表れています。一人静かに読書をしていたいタイプなのです。よって彼女は家庭を捨てて自由を得たことに後悔していません。彼女にとって結婚生活は死であり、家族と歩む「死」よりも自分一人の生を選択するのです。そんな彼女を最後に抱きしめるClarissaの娘Juliaの温もりに、愛とは本来心地良いものであることを感じ取ったでしょうか。
かつて幸せなひと時を共に過ごしたRichardと一緒でなければ生きている気がしないとまで言っていたClarissaは、長年連れ添ったパートナーSallyに今一度向き合い、未来に幸せを見出すため、真に生きることを決断したように見えました。
どよ〜んとした話で、表面的にはウツにしか見えない内容かも知れませんが、"Mrs. Dalloway"そのものだったClarissaが、自分の周りに存在していた「その他」の愛に感謝し、未来志向に転換するという、実は極めて前向きな結論のお話なのだと思います。
同性愛については、Mrs. DallowayやVirginia、Lauraの時代ではタブーとされているも、ClarissaやRichardの生きる現代では解放された価値観に進化したと言えます。
ひとつひとつの何気ない台詞、何気ない行動に、言わんとすることが凝縮されており、受け取る側でそれらを繋げていく必要があります。Virginia Woolfの原作、それを基に著作されたこの映画の原作の両方を理解していれば、すんなり入ってくる内容なのかも知れません。観客を試す作品であり、観る人を選びますが、3人のオスカー女優の演技は言うまでもなく素晴らしいです。今の自分にはこんな風にしか解釈できませんでしたが、違うライフステージで観れば、また異なる気付きを与えてもらえそうです。
Virginia:
"Someone has to die in order that the rest of us should value life more. It's contrast."
"You cannot find peace by avoiding life."
"To look life in the face, always, to look life in the face and to know it for what it is. At last to know it, to love it for what it is, and then, to put it away. Leonard, always the years between us, always the years. Always, the love. Always, the hours."
Dan:
"The thought of this life, that's what kept me going. I had an idea of our happiness."
Laura:
"There are times when you don't belong and you think you are gonna kill yourself."
"What does it mean to regret when you have no choice? ... It was death. I chose life."
Richard:
"We want everything, don't we?"
"I'm only staying alive to satisfy you."
Louis:
"The day I left him... I felt free for the first time in years."
Clarissa:
"There was such a sense of possibility… I remember thinking to myself; so this is the beginning of happiness, this is where it starts. And of course there will always be more… Never occurred to me it wasn't the beginning. It WAS happiness. It was the moment, right then."
私達ほど幸せな二人はいない
リチャードが窓から飛び降りる時に言ったセリフです。
ぎゅっと胸が締め付けられました。
苦しくて、苦しくて、苦しくて。
愛に生きた、愛に努力した、愛に挫折した、愛に救われた、三人の女のストーリー。
鬱
1920年代、1950年代、2000年代と時代を交差する作りで、3人の女性の人生を描いていく物語。イギリス映画らしいくすんだフィルムも鬱々とした内容にマッチしていました。
彼女達が持つ「憂鬱」は、どんなに幸せに「見えた」としても他者に分かるものではありません。そう家庭を持ち、子供を持ち、仕事を持ち、経済的に恵まれていたとしても。
子供を持ったことに対して「幸せな女性ね」と言われ、微妙な表情をするローラ。数十年後に同じセリフをクラリッサに向けていうローラだが、クラリッサもまた眉をひそめて怪訝な顔をする。
この様に生に対して前向きになれない感情が多く含まれているので、分かる人にしか分からない哲学性があります。前向きさは意味を成しません。
「すべてのことがくだらなく感じるの」
「この先もっと幸せが訪れると感じた瞬間こそが最も幸せ」
「人生を奪われたのよ」
「人生から逃げたまま平和は得られないわ」
鬱々とした中でも人生を諦めずに、自己を突き抜ける女性達に、なまじの前向きさよりも大きな何かを貰えた気がします。
それにしても、ニコール・キッドマンは誰だか分からないです。女優凄い!
悪くないが、何故苦悩するのかをもう少し描いてほしい
総合:70点
ストーリー: 65
キャスト: 85
演出: 65
ビジュアル: 70
音楽: 65
自分を見失って精神的な苦悩を持つ女たちやその周囲の人々を描く。
三つの物語はそれぞれに面白そうなのだが、分散してしまったがゆえに何故彼女たちがこれだけ苦悩するのかがわかりにくい。
例えば二番目のローラの場合、良い家庭に恵まれながら、何故彼女は幸せを感じることがなく違和感を覚えるのかというような描写がない。ローラが登場したときには、すでに彼女はもう自分を見失い自分の人生が何かとか幸せとは何なのかがわからなくなっている。そのためその後自殺を図ろうとするのは、前のヴァージニアの話と物語の整合性を合わせるためだけのように感じる。背景を良く説明しないままに結論だけを持ってこられたという感じが少しある。もうちょっとそのあたりを詳しく描いてほしかった。
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