めぐりあう時間たちのレビュー・感想・評価
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すっかり魅了されました 【バラの映画】
1923年、小説『ダロウェイ夫人』を書く女バージニア、1951年『ダロウェイ夫人』を読む女ローラ、2001年『ダロウェイ夫人』と呼ばれる女クラリッサ。
それぞれの場所でパーティーを開く女達の「その日」が、絡み合うように描かれます。
死の気配がまとわり付く女達の苛立ちや悲しみ、決断の行方を、大女優達のしっかりした演技で観せてくれました。
良い妻・母を演じ続けるローラが特に痛々しく、心に残りました。
それなりに歳を重ねた今、出会えたことを感謝したい作品です。
とっつき難そうで、長年ちょっと忘れた振りしてました。
そういう訳で、観終わってから激しくも美しいバージニア・ウルフを誰が演じているのか知って、もうね、ビックリ。
凄いものです。アカデミー賞でしたね、忘れすぎ、失礼しました。
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〜バラポイント(加筆)〜
死の気配の傍らには、これでもかとバラの花が。
香りにむせ返るようです。
【バラの映画】
2015年、広島県福山市の市政100年の際、映画館を中心に集まった有志で、市花に因み小冊子〚バラの映画100選〛を編みました。
皆でバラに注目して観まくり、探しました。楽しい時間でした。
若い方から「ゴジラ対ビオランテ」が紹介され大拍手!
2025年、世界バラ会議に因んで、私選のバラ映画10を紹介します(一部レビュー加筆)。
アフリカの女王/アンタッチャブル/エド・ウッド/ゴーン・ガール/素晴らしき哉、人生!/ダ・ヴィンチ・コード/Dolls/プリティ・ウーマン/めぐりあう時間たち/めまい
時間軸が何十年も前後する巧みな構成。交差しない一日。3人の女性の生きざま。
原題は、「THE HOUSRS 」
“複数の時間たち“か、めぐり会わない物語。
(邦題はなかなか考えた技アリの題名)
3人の女性たちは、繋がりはあるけれど、一度の会わない。
3人を繋ぐのが、ヴァージニア・ウルフ作の小説、
「ダロウェイ夫人」という手法です。
原作は、マイケル・カニンガムのピュリッツァー賞を受賞した
1999年に発表された同名小説で、カニンガム氏は、ゲイとの事です。
映画は、イギリスを代表する女性作家のヴァージニア・ウルフの
「ダロウェイ夫人」を中心に置き、ヴァージニア・ウルフの
実生活とともに描く・・・といったいった手の込んだ作品です。
(非常に知的でスリリング、ミステリー的です)
2001年のニューヨーク、
ダロウェイ夫人(クラリッサ)の、
メリル・ストリープのPart。
1951年のロサンゼルス。
詩人の母親であるローラ(ジュリアン・ムーア)のPart。
そして冒頭の、
1941年のイギリスのサセックス。
病気療養していたヴァージニア・ウルフは、
遂に59歳で、力尽きて入水自殺をします。
演技力に定評のある3女優の競演で見応えあるのですが、
クラリッサにダロウェイ夫人とあだ名を付けた、
エイズに侵された初恋の男性・リチャード(エド・ハリス)が、
栄えある文学賞の受賞をお祝いするクラリッサの目の前で、
窓枠から飛び降り自殺してしまうのです。
そしてその夜、お通夜のようなクラリッサの家を訪れたのは、
リチャードが「母親は自分が幼い日に自殺した・・・」
そう言っていた母親でした。
小説でも殺していた母親のローラが姿を現すのです。
彼女は幼いリチャードと、その妹を置き去りして出奔していたのです。
それで息子はその存在を抹殺してしまったのですが、
心の傷と欠落は、言いようもない寂しさだったのでしょう。
原作が素晴らしく、映画も多くの賞に輝いたのも頷ける
知的なアンサンブル映画の傑作でした。
ヴァージニア・ウルフを演じたニコール・キッドマンがつけ鼻を付けた
特殊メイクで終始しかめっ面。
本人の面影が全くなくて驚きでした。
良き母、良き妻では、女は幸せになれない、
そんなメッセージを感じましたが、
そこはちょっと疑問でした。
良いご主人でしたのにね。
ゲイやレズビアンといった価値観が色濃く滲んでいます。
【3人の世代を超えた『ダロウェイ婦人』の生と死の香り漂う一日を描いた作品。名匠スティーブン・ダルドリーによる見事な作品構成、且つ脚本が絶妙に上手い、格調高き哀しき作品でもある。】
ー ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ婦人』を書架の奥から引っ張り出して来て、色々と確認しながら、観賞。-
■1941年、英国サセックス。作家のヴァージニア・ウルフ(特殊メイクをしたニコール・キッドマン)は、夫に感謝の言葉を綴った遺書を残しポケットに石を入れ、川に入って行く。
■1923年、英国リッチモンド。ヴァージニア・ウルフは浮かない顔で、『ダロウェイ婦人』の粗筋を考えている。精神を且つて病んでいた彼女は、少しその症状が出つつあるのか、憂鬱そうな顔をしているが、姉のヴァネッサ・ベル(ミランダ・リチャードソン)には秘めたる想いを持っていて、彼女がロンドンへ帰る際にキスをする。
■1951年、米国ロサンゼルス。ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は、何処か満たされない思いを抱きながら、夫ダン・ブラウン(ジョン・C・ライリー)の誕生日ケーキを息子リチャードの手伝って貰いながら作るが、上手く行かずにそのケーキを捨ててしまう。
友人のキティ(トニ・コレット)が訪れるが、彼女は子宮筋腫である事を告げ、ローラは彼女に涙を流しながらキスをする。
そして、彼女はリチャードが”お母さん、行かないで‼”と叫ぶ中、車をあるホテルに向けて飛ばす。部屋に入ると彼女は愛読書『ダロウェイ婦人』をベッドの上に置き、更に数種類の薬の入った瓶を置き、横になるが水に呑み込まれる夢を見て我に返り、家に戻る。だが、この出来事はリチャードの心に傷を残してしまう。
■2001年、米国ニューヨーク。クラリッサ(メリル・ストリープ)は、HIVに犯された友人リチャード(エド・ハリス)の受賞パーティーの準備をしているが、リチャードは若き時にクラリッサと若き時に暮らした想い出に浸って、厭世観漂う表情をしている。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作は、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ婦人』の内容と、ヴァージニア・ウルフが終生苦しんだ精神病及びレズビアンの性癖を、1951年のローラ・ブラウン、2001年のクラリッサの一日と連関させて描いている。
・クラリッサと言う名は、『ダロウェイ婦人』の名前であり、ローラ・ブラウンの息子リチャードは2001年のクラリッサの若き時の恋人である。
又、リチャードと言う名は、ダロウェイ婦人の夫の名でもある。
そして、リチャードは母の行為から受けた心の傷などもあり、クラリッサに”感謝の言葉を述べて”窓から身を投げるのである。
そこに駆け付けた、老いたローラ・ブラウンは”誰も私を許さないでしょうが、私は死よりも生きる事を選んだの。”とクラリッサに告げるのである。
<今作は、3人の世代を超えたヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ婦人』の、生と死の香り漂う一日を描いた作品なのである。
名匠スティーブン・ダルドリーによる見事な作品構成、且つ脚本が絶妙に上手い、格調高き、哀しき作品でもある。>
タイトルなし(ネタバレ)
劇場で観て以来15年ぶり?2度目。
一度目はどっぷり感情に浸ってしまってわからなかったところが2度目だといろいろ見えた気がする。
と言うか勝手に解釈した。
ローラ・ブラウンとクラリッサ・ヴォーンの一日はヴァージニア・ウルフの小説なのではないか。
実際ヴァージニア・ウルフの小説にそんな内容のものはないのだけれど、初めて観た時ヴァージニア・ウルフだけ時間軸が絡まないことが妙に気になっていた。
そう考えると私の中ですっきり通る。
そんな解釈をしているレビューは見たことがないのだけれど。
また観てみよう。
新たな発見があるかもしれない。
ダロウェイ夫人とは?
文学的なかほりがする。「オーランドー」だけは読んだことがあるのだが、ヴァージニア・ウルフのことは、あまり知らない。wikiってみたら、実際に入水自殺していたらしい。姉のヴァネッサとは仲が良かったようで、今作でも引用されている「ダロウェイ夫人」の次作「灯台へ」を出版する際は、姉が装幀を手掛けたそうだ。ちなみに、ヴァネッサの生き様もなかなか激しい。この映画では良妻賢母のような雰囲気だったが。
ヴァージニア・ウルフから、ローラ、クラリッサへ、時を越えて受け継がれる「ダロウェイ夫人」とは、どのような女なのだろう。すごく知りたくなってきた。どうも観念的で読みにくそうな気がするが、チャレンジしてみるかな。
オープニングでキャストの名前を見ていたはずなのに、ヴァージニア・ウルフがニコール・キッドマンだと、最後まで気づかなかった。ジュリアン・ムーアも老けメイクで、二人には女優魂を見た。
いくら心を病んでるとはいえ、長年親しくしていて、自分の面倒までみてくれている人の前で、飛び降り自殺するのはひどい。その人がどれだけ傷つくか、思いやれないものかな。そんなことを考えられないくらい、追い詰められていたのだろうか。負の遺産が続くようで、やり切れない気持ちになった。あと、真っ青なケーキは怖いわー。
BS松竹東急の放送を録画で鑑賞。
ヴァージニア・ウルフや原作へのリスペクトに溢れる死と生を対置したドラマ
1 ヴァージニア・ウルフとは何者か
1882年生まれ1941年没の英国の女性文学者。ジェイムズ・ジョイスらとともに、「意識の流れ」のモダニズム手法により小説の在り方に変革をもたらした。
ロンドン・ブルームズベリーの自宅に、姉や兄とともに文化人社交サークル、ブルームズベリー・グループを形成し、新しい文化・思想の発信地の役割を担う。
グループの中心は兄であるケンブリッジ学生トービーや、画家の姉ヴァネッサとヴァージニアで、メンバーには「4月は最も残酷な月」で知られる詩人T.S.エリオットや、有効需要の原理で経済学に革命を起こしたジョン・メイナード・ケインズがいた。
私生活ではレナードと結婚したが、男性との性生活が営めず、ヴィタ・ウエストら複数の女性と恋愛関係を結び、晩年には「戦争は男性が引き起こすもので、女性が国家に影響力を持っていれば戦争はなくなる」というバカげた戦争論『3ギニー』を発表。
また、父母の死後、精神病に悩まされ、22歳、32歳の時に自殺未遂事件を起こし、最後には1941年に59歳で入水自殺する。
以上の履歴から彼女は今、「前衛芸術家、フェミニスト、レズビアン、リベラル知識人の文化的アイコン」となっている。
2 『ダロウェイ夫人』の内容
1925年に発表されたウルフの代表作である。ジョイス『ユリシーズ』と同じく、意識の流れを人間の現実と捉えて、英国上流階級の女性がパーティを開く一日の感覚、感情、記憶等を辿るとともに、これと第一次大戦で心に傷を負った男の狂気と死を対置させることにより、生への肯定的な志向と否定的志向という人間存在の振幅の大きさを描く。
当初、表題は「時間」と予定され、ウルフは「この本で私は生と死、正気と狂気を描きたい」と日記に記している。
狂気を代表するのは当初、ダロウェイ夫人本人と構想されていたが、やがて第一次大戦でシェルショック、今でいうPTSDにより精神を病んだセプティマス・ウォレン・スミスとされた。
セプティマスは「雀たちがギリシャ語でさえずっている」と妄想し、死に追い詰められていくのに対し、ダロウェイ夫人は俗物だが、「もう恐れるな、灼熱の太陽を、激しい冬の嵐を」と念じつつ、「パーティとは人生への捧げものだ」と人生を肯定する。
ウルフの狙いは両者を対置させて描くことであり、いずれかを勝たせいずれかを退けるものではなかった。
3 小説『めぐりあう時間たち』について
米国の作家マイケル・カニンガムが1998年に発表。原題が「時間」というのを見てもわかるが、『ダロウェイ夫人』の「本歌取り」的作品である。つまり、ウルフの小説を換骨奪胎して、類似の設定で類似のキャラクターを登場させ、別の内容を語ろうとしている。
本作の訳者高橋和久は「1980、1990年代の小説には、文学史上の『古典』に『寄生』し、その続編もしくは前史という体裁をとった作品がずいぶんと発表され、それがポストモダン小説のひとつの潮流となっていた」といい、本作もウルフの設定、人物ばかりでなく、文体まで模倣するなどしており、その一つであると指摘する。
確かに、ダロウェイ夫人がロンドンのバッキンガム宮殿周辺を歩き回れば、本作では「ダロウェイ夫人」というニックネームの女性がニューヨークの中心街ソーホーやグリニッチ・ヴィレッジを歩き、花を買い求めると、二人ともその途中でバカのような知人(ヒュー・ウィットブレッドとウォルター・ハーディ)に出会う。以後、ウルフ作品と類似の出来事が頻出するのである。
小説はこの「ミセス・ダロウェイ」のほか、「ミセス・ウルフ」「ミセス・ブラウン」を登場させる。
ミセス・ダロウェイはエイズと精神を病むかつての恋人、詩人リチャードの面倒をみるほか、何年も会っていなかった昔の友人ルイスに会う。彼らはウルフの小説のセプティマスとピーターに相当する。
ミセス・ウルフはヴァージニア・ウルフ本人で、狂気に陥るのを恐れるとともに、使用人に威圧されながら小説『ダロウェイ夫人』を執筆する。
ただ一人、1950年前後の米国の理想的家庭の主婦ミセス・ブラウンは、小説『ダロウェイ夫人』を読んでいる心を病んだ女性だが、彼女を登場させる必然性がよくわからない。子供リッチーの意味もまたしかり。
ところが詩人リチャードが自殺した後、本作はそのフルネームが「リチャード・ワージントン・ブラウン」であることをさりげなく示す。この瞬間に影の薄かったブラウン夫人とその子リッチーがいっきょに主役に浮上し、本作の独創性が際立ってくるのである。
「失われた母親であり、挫折した自殺願望者であり、一切を置き去りにして立ち去った女」ミセス・ブラウンの息子リッチー=リチャードは、心を病んだ挙句、ミセス・ダロウェイに向かって「でもやっぱり時間はやってくるだろう。一時間、また一時間と。それを何とかやり過ごす。するとなんてことだ、次の時間がやってくるじゃないか。吐き気がしそうだよ」と言い残して、ビルの5階から飛び降りていく。ああ、あの子が数十年後にこうなったのかと読者は驚愕し、沈黙せざるを得ないのである。
彼の通夜に訪れたミセス・ブラウンを迎えたミセス・ダロウェイがどうしたか。
「怒りと悲しみに満ちた女性。悲哀に満ちた、目眩めく魅力に満ちた女性。死に恋した女性」を前に、彼女は夜食を用意して、「こちらへどうぞ。準備万端整いました」ともてなし、小説は終わる。ウルフ作品とは異なる「パーティ」の主催者として、人生への捧げものを提供するのだ。見事だと思う。
4 映画作品について
ヴァージニア・ウルフという作家とその代表作の本歌取りをして、素晴らしいドラマを構築した原作は、いかんせん複雑すぎる。ましてやその映画化である本作にいたっては、ヴァージニア・ウルフの伝記や『ダロウェイ夫人』、さらにカニンガムの原作を読んでいなければ、そのあらすじさえ理解できないに違いない。
映画を見ているだけでは理解できないのでは、作品として評価しようがない。普通ならそうだろう。
ただ、本作にはウルフやその作品に対するリスペクトがあり、死と生を対置したドラマがある。その志をよしとしたい。
難し過ぎ
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女性小説家がうつ病で病んで自殺未遂、夫と共に田舎へ。
そこで紆余曲折あって、結局自殺。
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心の世界、おれの割と好きなテーマなのに、難しくて分からんかった。
現実世界と、小説の中の世界(ニコール領域、メリル領域)が並行して進み、
どれが何で何がどれなんかさっぱり分からんかったわ。
その主な理由がオバちゃん達が多数出過ぎなこと。しかもみんなそっくり。
だから誰が誰なんかもよう分からんままについてけんくなった。
また見る機会があれば高得点つけれるかも知れんが、今は☆2つで。
時間の不思議
「長い一日」ってあるものだ。何気なくすごした一日はあっさり過ぎてしまうんだけど、自分にとってとても意味のあった日、大事なことがあった日っていうのは、とても長かったって、感じる。
この映画の中にでてくる時間は、3人それぞれの「長い1日」だ。
「運命のいたずら」という言葉がある。この作品では、ウルフに「あの人を殺さなかったから代わりにあの人に死んでもらう」といわせていたが、何かがこうでなければ・・・という可能性はいくらでもある。誰かの気がちょっと変わっただけで、他の誰かの運命が大きく変わることもある。信じられない奇跡的な時のめぐりあいを経て、私たちは今自分の周りにいる人たちと一緒にいるといえるかも。
それにしても~今回は3人の女優、配置が絶妙!
ニコールは’20年代の英国、J・ムーア、フィフティーズのLA、そして現代のNYはやはりM・ストリープ。ぴったりでしたね~
時間と記憶を巡る複雑にして稀有な作品
とても複雑な構成。冒頭で描かれるのはダロウェイ夫人を書いた作家のヴァージニア・ウルフが死を選ぶシーン、そして彼女の遺書。そして詩人のリチャードが父母と過ごす場面、母のローラはダロウェイ夫人を読んでいる。そしてリチャードと以前つきあっていたクラリッサは、その名からダロウェイ夫人とからかわれ、彼女は編集者としてリチャードとつながりを持っている。リチャードは病み、希死念慮を抱きつつ生きている状態…。時間も場所もさまざまな彼らは、希死念慮という共通点をもつといってもいいだろう、クラリッサはそれを抱くリチャードと向き合いつつ、その状況にもう耐えられないと感じている。
ローラは、夫にこの暮らしが幸せの理想形だと強調されますます苦しみに囚われる。違う、これじゃないと感じつつそこに居続けるもどかしさ、自由がないと感じる息苦しさ、そして本当に欲しい愛はこれじゃないという疑念、そこから彼女が何を選択するか。詩人リチャードは母やクラリッサを自分の本にどう描いたか、また彼には何が見えていたのか、何が彼を苦しめ、そして支え、どの瞬間が彼にとっての最愛の貴重な時間だったのか。現代を生きるクラリッサにとっても同様に。時間と記憶を巡るストーリーはかなりぶっ刺さるので、思い入れが強くなる。
現代を生きるメリル・ストリープが演じるクラリッサの周囲の人物は、恋人のサリーに元恋人のリチャードと、ダロウェイ夫人をなぞらえているかのよう。でもリチャードというよりピーターでは?と思うので、あえてなのかな、なぞらえすぎないように。彼はピーターでもありセプティマスでもあるわけだし。
ヴァージニア・ウルフの遺書は世界一美しい遺書と言われているけど、彼女の遺書には愛の言葉はない。幸せだったことと優しさへの感謝とはあるけれど。クラリッサはサリーと暮らすがそこに愛はあるのだろうか、傷を舐め合い時間を共有しても、愛は過去にしかないのかもしれない。そこを突き詰めナーバスに捉えることには苦しみもあるけれど、鈍感が正しいとも思わない。
観客を選ぶ映画だ。好きな人にはたまらないだろう。
METで上演された同名オペラの口(目?)直しに、DVDを借りてきて鑑賞した。やはり、名作だ。
作家ヴァージニア・ウルフやその代表作「ダロウェイ夫人」が好きな方にとってはたまらない作品だろう。また、予備知識なしにこの映画を鑑賞しても何を言おうとしているか分からないと思う。私も元ネタの「ダロウェイ夫人」を読んでいるとき、よくわからなかった。人間の心の動き(メンタル疾患を含む)を味わう映画で、根底には死への誘惑と生の渇望がある。おまけにバイセクシュアルも絡んでくるからややこしい。改めてみて、挿入される音楽が素晴らしい。現代音楽作曲家のフィリップ・グラスが担当している。R・シュトラウス辞世の歌が使われ効果的だった。やはり、原作者の原作本「めぐり合う時間たち」を読んでみなければと感じた。
今回は鑑賞しながら、レビュー書いたので、めちゃくちゃ。すみません。
2回見ているが、なんだか分からない。
2001年のカップルの関係とか、リチャードの事とかは分かるのだが、最初のカップルがヴァージニア・ウルフなのか?。
二回目終了まで1時間37分。さて。
内容は理解出来だ。しかし、所詮、躁鬱と言う病気を克復出来ないままの結末、故に納得できない。
原作者は、日本で言えば、太宰治見たいな作家なんだろうと思った。
文学的って言うだろうが、それならば、小説を読んだ方が良い。しかし、彼女の話は少し敷居が高い。分かりもしないのに分かった気になりたくない。しかし、仕事がら読まなければと、今は考えている。
二回目見終わったが、何だか分からない。スジは分かったが、何を言いたいのか分からない。少なくとも、ヴァージニア・ウルフの時代にLGBTの事やフェミニストの事なんか影も見せていない。彼女は鬱で亡くなったのだろうから。それを美化してはならない。
ニコール・キッドマンってどの役?僕はニコール・キッドマンを知らない。ヴァージニア・ウルフのお姉さんかなぁ?ヴァージニア・ウルフ本人なんだ。
『誰の為に生きるか?』がテーマなのか?
人類の為、社会の為、家族の為、そんな事決まっている。僕はフジコさんと一緒。だから、この映画肌に合わないのか?兎に角、たとえ、親や子供であっても、そっ先して自ら死を選ぶなんてしない。死んでしまったら、楽しい事ばかりになって、悲しむ事も出来ないんだから。フジコさんのドキュメンタリーと逆のイデオロギーかなぁ?
アンジェリカ?が最後までローラだと思っているが。
ローラの様だが、それが重大なテーマでは無いとオペラを見て分かった。
さて、明日はこのドラマがオペラでどう表現されるか?それが期待大だし不安。
オペラのテーマは『心のままに生きよう』だった。
作品の真価は原作にあるのだろうが、オペラのテーマは『生きる』だった。原作は?この映画のどこにオペラと同じテーマが隠されているのか?
オペラの演出家は原作と映画を参考にした旨の話をしていた。だから。
ダロウェイ夫人〜心の渇き
ニコール・キッドマン演じる女流作家ヴァージニア・ウルフの心が、不安定に揺れ苦悩し続ける姿から目が離せなかった。その美しい瞳とスレンダーな肢体のみニコール・キッドマンでした。
精神が不安定な母( ジュリアン・ムーア )の顔色ばかり伺う幼い少年リチャード( ジャック・ロヴェロ )。大好きな美しい母を見つめるその瞳が切ない。
ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ、エド・ハリスの競演の見応えある作品。
ー凍てつくような疎外感
ー後悔すら出来ないものよ…他に道がないと
ー選んだの…生きることを
BS松竹東急を録画にて鑑賞 (吹替版)
自分で解釈したい人向き
大正のLON、終戦後のLA、現代のNY、三つの時代の無関係な三人の女性の生活が同時進行で進みます。
三人にどういうつながりがあるのか、関係がありそうにもなさそうにも思えますし、様々な設定が何故必要なのか?どこにどう話としてつながるのか?知恵袋に質問多く、回答も様々です。
つまり、それぞれ独立した三つの話の関係性や、何のためかよくわからない設定なんかに、理屈つければ説明できるかも?というタイプの作品なので、「自分で想像するのが好き派」の人は自分なりに解釈して面白いと感じるんでしょう。一方、「はっきりしてくれよ派」の人は、「その解釈こじつけじゃねえ?」ってなります。
換言すれば、よくも悪くも普通の人には「何いいたいのかよくわからないの」作品なので、好き嫌いがハッキリ別れます。評論家なんかにはウケるんでしょうが、一般受けはしません。
話の展開が早いのでそこそこ面白いですけどね。
タイトルなし(ネタバレ)
まだ観ていないと思って借りたら、実は観たことがあったというこの映画でした。
「めぐりあう時間たち」とは、3つの時~作家ヴァージニア・ウルフ(by ニコール・キッドマン)と、大戦後のロスアンジェルスの主婦ローラ・ブラウン(by ジュリアン)と、そして現代のニューヨークの女クラリッサ ・ヴォーン(by メリル・ストリープ)。
そもそも3つの時が絡み合っているので、説明はなかなか難しいのですが、冒頭では特に切り貼り・コラージュのように3つの時の出来事やエレメントの「偶然」(シンクロニシティ的に捉えてもいいのでしょうか)が映像で語られます。
全編を通じて、花を買うこと・飾ること、本や書くこと、家や他人の世話をすること、パーティをやる、まどろみ・・・などに女性の人生や女性性(フェミニニティ)が象徴されているように思います。それらはすでに冒頭で暗示されています。
物語は絡み合い、特にそれぞれの女性の生き方の難しさ、苦悩のようなものが暗示されたり、語られたりします。ヴァージニア・ウルフは自殺を図り、ローラ・ブラウンも子どもを預けた上自殺を考えますが、思いとどまり、妊娠中だった子どもを産んだ直後に家族を捨てて家を出る決心をします。その代わりというか、数十年後のニューヨークで、彼女の上の子リチャード(リッチー)が、エイズに苦しんだ挙げ句手にした詩人の賞の祝賀パーティに出ることなく、自殺を遂げてしまいます。
3人目のクラリッサは、編集者として働きつつも、エイズで自暴自棄になった才能溢れるリチャードのアパートに通い、面倒を見つづけます。
3人の女性はそのリチャードの自殺後にクラリッサのアパートで「逢う」ことになります。クラリッサとローラと、ヴァージニア・ウルフは『ダロウェイ夫人』の本(の著者)として・・・
補足ですが、アメリカでもゲイ・カルチャーにオープンであったNYやサンフランシスコなど、都市部を中心にエイズは席巻したという感じでした。特に知識人や芸術家に多かったこともあり、そのコミュニティ内では多くの人が冒され、亡くなり大変な喪失を味わいました。その後、「治る」わけではないですが発症を食い止める特効薬は開発され、以前ほどには「怖い」ものではなくなったものの、ある種のコミュニティのある世代にとってはトラウマとなっていると思えます。(短い間ですがエイズ・HIV関連の仕事をしていたことがあります。)
実は、冒頭に書いた通り観たことがいいと思ったら観たことがあったのですが(家人には機内で観たんでは? と言われましたが、記憶のあいまいさから見てそれはあるかも)、あれ? と思ったのは子どもであるリッチーがママの知り合い?に預けられるとき、なにか子どもならではの嫌な予感がしたのか必死に抵抗して、去りゆくママの背中に叫ぶシーン。この辺りで、あれ、既視感があるぞ・・・とやっと思い始めたのでした(笑)。
さらに個人的には、NYに長いこと住んでいたので、アパート内の様子にとても惹かれました。生活感とインテリアのスタイルを上手く組み合わせたような、映画の中のインテリアは、近年の映画では登場人物の生活状況や性格を表すものとして、またスタイルやファッション性でもとても興味を惹かれます。NYの生活空間が大好きなのですが、また訪れる云々は別として(現在コロナですが)、やはり自分の身の周りでできるインテリアの改善をしなければ、と思わされた映画でした(笑)。
ファッション面でも参考になることが多かったです。女性目線ですね。
3人の女優の共演(競演)というところも見所。豪華というほかありません。個人的には、ニコール・キッドマンとメリル・ストリープは以前から好きではありますが、なんとなく「人」が前面に出てしまっているように見えたメリル・ストリープ(現代の役だからでしょうか)よりは、見事「役」の中に沈潜したニコール・キッドマンにやはり軍配が上がるでしょうか。エキセントリックでメンタルを病んだ(と言われた)女性を見事に演じきっています(アカデミー賞取ったんですよね?)。
ジュリアン・ムーアについては申し訳ない、あまり知識がなく・・・が、惹かれました。というのも、彼女の苦悩はほとんど会話やセリフに表れていない形だったからです。表面上は幸せな女性を演じつつ、内面では追い詰められているという「二重の演技」だったかと思います。
惜しむらくはヴァージニア・ウルフのことをもうちょっと知っていれば、楽しめたのでしょう。『ダロウェイ夫人』、読みたくはなりましたが。英語圏ではヴァージニア・ウルフのことはよく知られているので、あちらでの方が評価は高かったのではないかと思います。
女も死にたい。女たちの紡ぐ物語。
男性です。
男はみんな死にたいと思っています。
「死にたいと思ったことは一度もない」と言った男には、僕は今まで1人にしか会ったことがない。
この映画を観て初めて知ったのは
「女も死にたいと思っている」ということ。
知らなかった。
女はそんなことは考えないんだと思っていた。
世界が180度回転した、記念碑的な映画体験となりました。
・・・・・・・・・・・・
3大女優が、3時代の3つエピソードを担当するのが良い。
成功している。
3人を同時に登場させてお互いに絡ませる等の無駄遣いをしないシナリオは良く考えられている。
1941年の女流作家ニコール・キッドマンは姪に魂を引き継ぐ
(一緒に小鳥を弔った姪子)
姪は
1951年にこの小説にはまり生死を行き来する。そして
姪が産んだ娘が
2001年エピソードのメリル・ストリープその人だ。
メリルは同性のパートナーと暮らし、また娘を生んでいる。
命を生み出す女たちが、こんなに身近に死を想い、生死分け目の尾根に生きていたとは、僕にとって驚きの体験でした。
男においては命は単発。継承はされない。
ところが本作品、女たちは時代を隔ててばらばらなようで、こんなに有機的に死と命と、そして一冊の「女の生涯」で繋がっている。
本当に僕にとっては初めて覗いた新しい世界だったのですよ。
原作を読んでいませんが、原著をググるとその筋書きが、3人それぞれ、その日1日のプロットになっていることが判明します。
このレビューも鑑賞してから1年かかりました。
僕の母親の死生観について、あれこれ彼女の生きざまのエピソードを、いま大切に思い出しているところです。
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