劇場公開日 2005年11月5日

「万物が等しく無価値な空間で、オイラは一体誰なんだ?」TAKESHIS' 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0万物が等しく無価値な空間で、オイラは一体誰なんだ?

2022年12月18日
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北野武という監督は、監督である前にビートたけしというお笑い芸人である。お笑い芸人は社会や大衆の固定観念を基点にズレや反転といった差異を生み出す。そしてそれが笑いという現象に結実する。要するにお笑い芸人は常に社会や大衆を裏切り続けなければいけない。社会や大衆を常に裏切り続けたいという熱意が人をお笑い芸人という職種へと向かわせる、と言い換えてもいいかもしれない。

だからたとえそいつが何かの弾みで映画を撮ることになったとしても、さらに金獅子賞を受賞することになったとしても、はたまた興行収入30億を叩き出すことになったとしても、そうした地位や評価に安住することは許されないし当の本人が許さない。安住は笑いから最も遠い概念だから。

北野は演芸場やテレビの雛壇のみならず、映画というフィールドにおいても常に観客を裏切り続けることに腐心した。『その男、凶暴につき。』では深作欣二が血気盛んな雰囲気で撮り上げるはずだった脚本を内面の欠落した人間同士が無意味な殺戮を繰り広げるサイコホラーに仕立て上げた。『みんな〜やってるか!』ではそれまで築き上げてきたアート志向を一切合切かなぐり捨て、露悪と下ネタにまみれたナンセンスコメディを好き勝手展開した。そして本作の直前に撮られた『座頭市』では、「座頭市=勝新太郎」あるいは「映画監督・北野武=金獅子賞を獲った芸術映画家」という定式を破壊すべく、北野本人が金髪の盲目剣士となって派手なアクション活劇を演じた。

この『座頭市』は思いのほか大衆に受け、北野作品で最も興行収入の高い作品となった。北野がかつて批評家筋に向かって「ちったぁ興行収入に影響するようなこと言えねーのか!」と苦言を呈していたことからもわかるように、本作のヒットは本来であれば喜ばしいことである…はずなのだが、ヘソ曲がりの北野はこんなわかりやすいアクション活劇がわかりやすく流行ってしまう日本の映画シーンに辟易する。

そこから3作にわたって北野の作家的自意識をめぐる難解で奇矯な芸術3部作が幕を開けるわけだが、本作はその第1作目にあたる。

物語らしい物語はなく、売れない役者志望の北野(以後金髪たけし)が現実と虚妄の境界線を幾度となく切り裂きながら自意識の無限回廊をあてどなく突き進んでいく。本作では各登場人物がそれぞれもう一人別の役を演じており、しっかり見ていないと誰が誰なのかわからなくなる。

ゆえに当然、本作を見た多くの人間が困惑したし、それまでは一貫して北野作品を称賛してきたヨーロッパの映画シーンもこれには閉口せざるを得なかった。いちいちエビデンスを挙げるまでもなく、このサイトでの本作の評価の低さが端的にそれを示している。カンヌでこれが上映され終えた瞬間なんか面白おかしくてたまらなかったに違いないだろうな。

とはいえ北野がたったそれだけのためにわざわざこんな妙ちくりんな構造の映画を撮ったとは思えない。じゃあ結局この映画は何なんだ?というと、それは北野武のきわめて個人的な戦いの軌跡なのではないかと思う。

北野武は東京の薄汚い下町に生まれ、父親はしがないペンキ職人だったという。しかし高校〜大学時代に新宿界隈に出入りしていたところ、ひょんなことからお笑い芸人になり、あれよあれよという間にお茶の間の顔、あるいは日本を代表する大富豪へとのし上がっていった。アメリカンドリームならぬジャパニーズドリームだ。

しかし北野はそこに実力以外の要素が多分に混入していたことを虚心に認める。もし新宿界隈にいなかったら、もしお笑い芸人にならなかったら、そうした無数の偶然が重ならなかったなら、もともとが貧乏暮らしの自分に光明が差し込んでくることは未来永劫なかったかもしれない、という。当時既に売れっ子だったにもかかわらず「夢は捨てたと言わないで 他にあてなき二人なのに」などと売れない芸人の哀愁と感傷をアクチュアルに歌い上げる「浅草キッド」を作詞したことからもそのことは窺える。

ゆえに本作の金髪たけしは、ありうべき世界線の北野本人であるといえる。金髪たけしとは、もしかしたら50や60になっても小汚い和室のワンルームで孤独に生活を送る社会的弱者に落ちぶれていたかもしれない、という北野のオブセッションの受肉体なのだ。

天運によってたまたま成功できただけかもしれない、という北野の疑念は、金髪たけしのような反-自分的な存在を生み出すのみならず、現在の自分自身をも侵犯する。本作には金髪たけしとは別に、現実世界の北野本人として劇中に売れっ子タレントの黒髪たけしが登場するのだが、彼の存在は映画の進行とともに次第に希薄になっていき、最後には金髪たけしと見分けがつかなくなる。

ここへきて「天運によってたまたま成功できただけかもしれない」という疑念は、より実存的な深みに落ち込んでいる。要するに、金持ちとか貧乏とか運が良いとか悪いとか、そんなのは結局のところ周縁的なものでしかなく、本当に重要なのは、それらを全て捨象したときに析出する「自分」がいかなるものであるのか?あるいはそもそも「自分」などというものが本当に自分の中にあるのか?という素朴だが実存的な不安だ。

そして北野は先述の通り、現在の自分(黒髪たけし)と可能世界の自分(金髪たけし)を対消滅させることによって何らかの化学反応をカメラの前に現出させようと試みた。思えば過去作への自己言及の多さも、過去の栄光を等しく無価値なものとして放り出す作業だったのかもしれない。序盤の米兵との睨み合いは初主演作『戦場のメリークリスマス』に酷似しているし、金髪たけしの部屋に貼ってある架空の映画ポスター『灼熱』は、もともと北野監督が『その男、凶暴につき。』につけるはずだったタイトルだし、どこかのスタジオに造られた沖縄式家屋は『ソナチネ』を彷彿とさせる(しかし主人公の男は『ソナチネ』の村川のように潔く引き金を引けない)し、冗長なタップダンスシーンは『菊次郎の夏』の後半部や『座頭市』の再演だ。

とはいえ結局のところ彼の戦いに明確な決着がついたとは到底思えない。序盤シーンとラストシーンを円環化させることで実存の問題を無理やり脇へどけたといった感じだ。北野自身も本作を失敗作であると明言してしまっている。しかし私としては、自身のあらゆるキャリアを放り捨ててでも実存の問題へ切り込もうとする北野の狂気を評価したい。また「キャリアの放り捨て」という社会や大衆に対するある種の裏切りに彼のお笑い芸人としての欲望が重なったことで、演出や編集に今まで以上の熱気と外連味がこもっていたようにも感じた。意味不明でも普通に映像として、あるいは運動として面白いから最後まで見れてしまうのが北野映画の素晴らしいところだ。

さて、彼のこの実存への問いは以降『監督、ばんざい!』『アキレスの亀』にわたって吟味されていくことになるわけだが、その辺の詳細はちょっと見直してみないとわかんないっすね…

因果