劇場公開日 2004年3月6日

「人形という理想の死をめぐる極私的アニメ」イノセンス 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0人形という理想の死をめぐる極私的アニメ

2021年11月26日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

1)本作のテーマ
本作は性的愛玩アンドロイドによる殺人事件を捜査する公安9課バトーとトグサ、少佐の活躍というアクションドラマを表面に立てながら、実はその奥にドストエフスキー以来の「近代人の自意識の苦悩」と、そこからの解放=〈人形という理想の死〉をテーマとして潜ませている。

2)自意識の苦悩から解放された人形という死の形
上記のテーマからみると本作の主要シーンはハッカー・キムの屋敷における疑似体験の迷路、なかんずく彼のモノローグにあることは明らかであり、押井の意図はその言葉にすべて含まれている。少々長いが引用しよう。

〈真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身のことだ。崩壊の寸前に踏みとどまって爪先立ちを続ける死体。人間はその姿や動きの優美さに、いや存在においても人形に適わない。
人間の認識能力の不完全さはその現実の不完全さをもたらし、そしてその「種」の完全さは意識を持たないか無限の意識を備えるか、つまり人形あるいは神においてしか実現しない。
いや、人形や神に匹敵する存在がもう一つだけ…。シェリーの『雲雀』は我々のように自己意識の強い生物が決して感ずることのできない深い無意識の喜びに満ちている。認識の木の実を貪ったものの末裔にとっては神になるより困難な話だ。〉

続けてバトーがそれを敷衍する。
〈生身の人形は死を所与のものとしてこれを生きる。キムが完全な義体化を選んだ、それが理由だった。〉

以上から考察するに、本作に頻出する「人形」には「認識(=自意識)の苦悩を免れた完全なる存在」という意味が付与されている。神にもなれず雲雀にもなれず、中途半端な自意識に苦しむ人間にとって、そこから解放された人形とは一つの理想であり、死体の別名である。完全な義体化の実現した世界が、このアナロジーを成立させる。本作で押井は、死を理想とともに語っていると言えよう。

3)物語と映像について
前項の内容さえ解読できれば、あとは押井の衒学趣味と映像上の労作を鑑賞すればよい。
引用の洪水は多様な教養の果実として楽しめるし、「生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落落磊磊」のようなフィクション論も謎々のような効果を利かせている。
さらに択捉経済特区の祝祭、疑似体験の迷路、ロクス・ソルスのプラント船での人形群との戦闘はちょっと無意味なくらいに豪勢な映像である。
ちなみに疑似体験の迷路でバトーがキムの工作に気づくのは、少女人形の広げた「2501」というカードから。それは前作のラストで「次に会う時の合言葉にしよう」と少佐の言った数字だ。

引用や映像にこだわる一方、登場人物の造形はずいぶんいい加減である。
例えば、殺人を犯した愛玩用アンドロイドはバトーからすれば苦も無く確保できるはずなのに、あたら破壊して原因追及の手がかりを抹消してしまうのは馬鹿げている。ヤクザの事務所に入るや否やマシンガンを乱射して数十人を殺戮ないし破壊するシーンも、いかにロクス・ソルスを引きずりだす狙いがあるとはいえデタラメすぎる。
娘の誕生日がどうした女房がこうしたと泣き言を言うトグサだって、猛者の集団・公安9課メンバーとは到底思えない。
このように人物造形がチープなため人間ドラマがほとんど感じられず、バトーの犬にしか心を開けない孤独も、少佐と再会した歓喜もろくに伝わってこない。

4)テーマと物語の乖離
ロクス・ソルスのプラント船を完全に制圧した後、誘拐された少女を救出したバトーは、こともあろうに「犠牲者が出ることは考えなかったのか。魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか」と彼女に詰問する。少女は「あたしは人形になんかなりたくなかった」と答えるが、この会話はどう見ても不自然だ。

実はこれは、押井がバトーに「人間と人形は地続きの存在だ」という認識を代弁させ、人形が人間という「種」の完全形であること、したがって理想の死の形と見做し得るというテーマをダメ押し的に提示したシーンなのである。
しかし、この人間認識は唐突すぎるし、直前に数十体の人形を破壊しまくってきたバトーのセリフとしてはあんまりだろう。

また映画の前半で、警察の鑑識課職員が「子育ては人造人間をつくるという古来の夢をいちばん手っ取り早く実現する方法だったのではないか」と、無茶な論理をねじ込むのも同様な理由からだが、やはりあんまりといえばあんまりであるw

これらはテーマと物語が乖離していることを強く印象付けるところで、独りよがりの失敗シーンだと言わざるを得ない。

4)結論
本作は押井の死生観をめぐる極私的アニメである。エンタテイメント性も希薄だから誰にでも薦められる作品ではない。しかし、その衒学趣味や美意識に共感できるならば傑作と感ずるだろう。米国の映画会社は恐らくは押井に騙されてw、本作に出資してしまったらしいが、お気の毒さまではある。

5)補足
1)で「ドストエフスキー以来の『近代人の自意識の苦悩』」と書いたので、参考までにその原典を掲げておこう。

「誓って言うが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、十分すぎるくらいなのだ。(中略)たんに意識の過剰ばかりでなく、およそいっさいの意識は病気なのである。(中略)いったいどうしたわけで、ぼくはあの瞬間、つまり、一時期、わが国でよく使われた≪すべての美にして崇高なるもの≫の微妙なニュアンスをあまさず意識するのに最適となるあの瞬間に、まるでわざとのように、それを意識するどころか、あんな見苦しい行為をしでかす羽目になっているのだろうか?」(ドストエフスキー『地下室の手記』)

ドストエフスキーがこれを欠いたのは1864年だったが、それより20年ほど遡った1844年、マルクスはドストエフスキーが苦しめられた自意識について、次のように記している。
「意識的な生命活動をおこなう点で、人間は動物的な生命活動から袂を分かつ。そのことによって初めて人間は類的存在である。いいかえれば、人間はまさしく類的存在であることによって、意識的な存在であり、みずからの生活を対象とする存在である。だからこそ、この活動は自由な活動なのだ」(マルクス『経済学・哲学草稿』)

2つの巨大な知性が自意識に対して、正反対の見方をしているのが、とても面白い。もちろん押井は本作では、ドストエフスキー側に立っている。

徒然草枕