劇場公開日 2001年4月7日

ハンニバル : 特集

2001年3月21日更新

フィレンツェ在住ストリート・アーティストの独占手記、一挙掲載!
「ハンニバル」に出演した日本人

(文:齋藤智輝)

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そのシーンの撮影は、5月15日、フィレンツェの某化粧品屋を半日借り切って行われました。私は50点の日本語のプライスカード、POP広告などを作って、お店に並べたり貼ったりしました。映画では一瞬のシーンですよね。え? そんなシーンあったかなですって? 美術のスタッフと何回も打ち合わせして、けっこう時間かけて準備したのに……。 そのシーンで、お店の中を客としてうろうろしてる丸坊主の男も私です。でもまあ、本人でも1回観ただけではどこにいるか分からなかったような本当に一瞬のシーンですけど。

私の「路上画」の撮影は5月22日の予定でしたが、結局そのシーンはキャンセルになってしまいました。皆さまよくご存知のとおり、リドリー・スコット大先生は雨を降らすのが好きなのですが、私の絵は雨に溶けてしまうものですから。

ベッキオ宮の撮影で日本人エキストラが参加したのは、5月31日と6月1日の夜(朝まで)でした。例のシーンの撮影のとき、リドリー・スコット巨匠が助監督に「英語を話す日本人はいるのか?」と訊かれ、助監督が「トモ、ちょっと来て」と私を呼んでくれたのです。巨匠自ら私にシーンの説明をして下さり、「君はまず最初はガイドの女性を見て、それからよそ見をして、死体に気付いて、指差して日本語で『LOOK!』と叫んでくれ」とおっしゃいました。

画像1

でも「LOOK!」って日本語でなんて言えば良いんだろうと本当に悩んだのです。最終的に、本番の勢いで「あれ! あれ見て!」と叫んだ1回目のテイク。カットの後、巨匠に「ど、どうですか?」と伺ったところ、「VERY GOOD。その調子でやってくれ」と言っていただきました。もう本当に感激してて、興奮してて、でもそれが死体を見つけて驚いているのに丁度良かったのかも知れません。パッツィ刑事の宙吊り死体の撮影は、テストでは人形でしたが、本番はスタントマンが本当に突き落とされます(それも何度も!)。しかし私たちの撮影のときには、実際ベッキオ宮のバルコニーには誰もぶら下がってなくて、黒地に白の×印の「看板」があるだけです。

その夜の撮影では、同じ時間のシーンをいろんな角度から撮りました。角度が変わるたびにだんだんカメラが遠くなって、いつの間にか私の前からスポットライトもマイクもなくなっていました。それでも「アクション!」の声と共に、やはり同じ動きをしなくてはなりませんでした。最初は緊張してたんですがそのうち飽きてきて、どうせ私の声はもう拾わないんだしと思って、最後の方は「あー!あれがダビデ像です」とか、「あー!……と何回撮るのかなー?」とか言って日本人エキストラを笑わせていました。

それから野次馬がベッキオ宮に走って行くシーン、レクター博士がバイクの後ろに乗せてもらって逃げるシーンなど撮影しましたが、映画では全部カットされていましたね。そのときも私はなにげに自転車で走っていたり、アンソニー・ホプキンスの後ろを歩いていたりしたんです。ま、これらのシーンについては、ディレクターズ・カット版までのお楽しみですね。

アンソニー・ホプキンスの影武者(カメラテスト用の人)は、あんまりそっくりだったので、アメリカから連れてきたのかと思ってたら、イタリア人のおやじでした。見物に来てる女の子たちに自分から話しかけてサインしたりしてました。さすがはイタリア人。でも帽子を脱いだときに、いかにも「ズラ」って分かるハゲズラ(それもホプキンスに似せた微妙なハゲ)をかぶってて、見るたびに笑ってしまいました。

そうそう、クラリスのデッサンは、最終的に誰が描いたのか分かりません。助監督に聞いた話では、巨匠は「誰の絵も私のイメージと違う」と言っておられたそうです。

映画でのフィレンツェの街は妖しく、こよなく美しい。昔「ブラックレイン」を観たとき、私の生まれ育った大阪の街が、非常にカッコ良かったのを思い出しました。日本の皆さま、ベッキオ宮殿にパッツィが吊るされるシーンに是非ご注目下さい。そして、尊敬する巨匠リドリー・スコット大先生、楽しかった撮影の日々が懐かしく思い出されます。次回作でまたご一緒できることを心待ち、なんてしてませんけど。

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