「監督の懐旧と理想、願望を描いた宮崎版「草枕」」紅の豚 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
監督の懐旧と理想、願望を描いた宮崎版「草枕」
1)ストーリーの背景を掘り下げてみると
1914年に始まる第1次世界大戦の頃、マルコ・パゴット大尉はイタリア空軍のエースパイロットとして鳴らし、同僚にはピッコロ、ベルリーニらが在籍した。
戦時中ではあったが同僚ベルリーニが結婚することになり、マルコは2人の婚礼を取り持ってやる。その足でベルリーニとともに部隊に復帰して警戒飛行に出たところ、敵の戦闘機隊に遭遇。多勢に無勢で友軍機は全部撃墜され、マルコ機のみほとんど意識もないまま海面すれすれを飛行して助かる。
その間、マルコは高空に1本かかる川のような雲の中に、友軍機が1機また1機と飲み込まれていくのを目撃し、一人だけ除外された自分は死ぬまで孤独に生きろと神に宣告されたと信じる。おそらくはこの瞬間に、マルコは戦争に明け暮れる現実と決別し、ポルコ・ロッソなる豚に変身したのだった。
時は移り、1930年代後半のイタリア。米国発の恐慌は世界を覆いつくすが、ここイタリアは第1次大戦後から経済混乱が長く続いており、皮肉にも恐慌のダメージを受けない珍しい国だった。それだけ元から不況がひどかったのである。1922年に発足して20年以上続くことになるムッソリーニのファシズム政権はローマ帝国の再建を叫ぶものの、現実には国民が豊かになるチャンスは他国へ移民することくらいしかなかった。
ポルコは戦争もファシズム国家も嫌い、軍や警察からお尋ね者とされていたため、その監視の目が及ばないアドリア海の離れ小島に隠棲し、空賊を退治する賞金稼ぎとして暮らしていた。
気が向けばベルリーニと死別したジーナの経営するレストラン・バーで食事し、愛機が故障すればピッコロの父親が経営する飛行機会社に修理を依頼する。そこには同僚の娘フィオが設計主任として働いている。
2)ストーリーの骨格
1)の背景はいかにも大がかりな反戦映画でもできそうなのだが、お話しの骨格は小学生くらいの悪ガキグループの喧嘩そのものだ。
ポルコはやたら喧嘩の強い男の子A。相手方の空賊たちは、たくさんいるが皆弱っちいので徒党を組んでいる悪ガキグループB。Bは何かと自分たちの悪事の邪魔をするAが憎くてたまらず、ことあるごとに彼と喧嘩している。
そこに腕っぷしの強い男の子Cが隣町からやってきたので、Bはこれ幸いとCに頼んでAと戦わせる。一度目は幸運もありCの勝利。そこでAはリターンマッチに打って出る。
そこに悪ガキ全員のアイドルの上級生の女の子や、転校してきた可愛い下級生が絡んで、さあこの喧嘩と幼い恋愛はどうなりますか…てな内容で、まあどこにでもありそうな、いたって単純すぎるストーリー。
それを宮崎は空賊なる架空のギャング団対賞金稼ぎとの戦いに仕立て上げたのである。
3)作品の中核~宮崎監督の「草枕」
1)の反戦思想と2)のガキの喧嘩がどうつながるかといえば…実はつながらないw 宮崎監督は例によって何やら過剰に意味付与する解説を語っているが、そのどれひとつとしてピンとこない。
そこで作品から受け取る印象そのものをたどって、何が描かれているかを再構成してみると、これは全部宮崎監督の懐旧と過去から現在にわたる理想や願望そのものなのだと気づかされる。
悪ガキ連中との悪意のない喧嘩、憧れの上級生マドンナ、生意気だが可愛い下級生の女の子、格好は良くないが2人から好かれる自分、自分が教室の隅から羨望のまなざしで見ていた不良連中の恰好づけとそこから姿を変えたダンディズム、サヨク思想を通じて知った反戦思想とパルチザン、思春期に抱いた時代にあらがう夢、男の身勝手な夢を微笑みながら許してくれる優しく包容力のある女性たち、そして子供のころからずっと抱き続けた飛行の夢……これらはすべて監督の幼少期のノスタルジーであり、思春期の理想であり、現在も抱く願望ではないか。
夏目漱石は「草枕」で自分の理想郷を描いた。宮崎はここで自分の桃源郷、「草枕」を描いたのだ。反戦思想がどうしたこうしたと、ことさらしち難しそうな解説をしたがるのは、それがバレてしまっては恥ずかしいからに決まっているのである。
かなり多くの女性が本作を「バカオヤジの身勝手な妄想」と小馬鹿にするのが目に見える気もする。スマン、小生はこの妄想組の一員なのであったw
一つだけケチをつけさせてもらえば、せっかくイタリア満艦飾にしたくせに、ジーナが店で歌う曲はカンツォーネならぬシャンソンなのが、ダンディズムの風上にも置けないなぁ。