「他者の評価に依存するアイデンティティが生む狂気と妄想」ボディビルダー ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
他者の評価に依存するアイデンティティが生む狂気と妄想
ネットで見かけたボディビル版「ジョーカー」という前評判がうっすらと脳裏に漂った状態で観たのだが、オチの方向性は全く違っていた。正反対と言ってもいい。
監督の意図するところではないが、ジョナサン・メジャースが当初の本作公開時期前に起こした元恋人への暴行事件のイメージによって、皮肉にも主人公キリアンの人物像がよりリアリティを増した気がする(ただし、容疑の一部は無罪判決が出ている)。彼の語る自身の過去の価値観も、妙にキリアンの生き方と重なる部分がある。
キリアンは冒頭からヤベー奴臭がぷんぷんしていて、物語後半でブチギレて暴力で復讐していく様が眼に浮かんだが、結果的に彼が派手な破壊行為をしたのは塀の塗り直しに来なかった塗装屋の店舗を襲撃した時だけだった。
途中色々とキリアンにとって不快な出来事が起こるたびに「こりゃ後でこの相手は殺されるな」と思いながら観ていたが、そうはならない。彼の怒りは何度も暴発寸前まで行くが、カウンセリングの効果なのか毎回実行には至らず寸止めだ。
暴力という形でハジけないこの流れは、見方によっては好き嫌い分かれるかもしれない。だが私は、怒りを抑えようと何かブツブツ呟いたり「私は冷静に話してますよね?」と言うキリアンが何より怖かった。あくまでフィクションにおける描写に対する評価だが、想像通りの暴力シーンが展開されるよりもある意味嫌な緊張を強いられた。メジャースの放つ負のオーラに圧倒された。
一方で、想像通りの展開もあった。ジェシーとのデートのシーンだ。
彼女から誘いの電話があった段階でもうやらかす未来しか見えなかったのだが、期待(?)を上回るキリアンの振る舞いに笑った。
① デート直前に聞く音楽じゃないし気合いの入れ方が怖い ② 最初の話題が両親のあんな話って激重過ぎ ③ 空気を読まないメニューのチョイス ④ ボディビルのレジェンドとか一般の女子は知らねーし、 世界を広げた方がいいのはお前
ツッコミを入れながら見てしまった。うーん、これは役満。ジェシーの表情がみるみる曇っていくのが面白かった。
店員に見栄を張ってか「帰ると聞いていた」と弁明するキリアンの感情を抑えている様がすでに怖くて、伝言だけ残して帰った彼女が後で殺されるのではと心配になった。
ただ、キリアンは極端な人間として描かれているが、初デートで舞い上がっておかしな挙動をするとか、つい自己アピールが過剰になるとか、根っこの部分は誰しもが(特に若い頃)経験する感情に通じていて、心の片隅でかすかな共感性羞恥を感じたりもした。
コンテスト直前のキリアンを仲間と襲撃した塗装屋とレストランで鉢合わせした時は、子どももいるけどとうとうこいつをボコボコにするのかと身構えたが、ここでもどうにか堪えた。彼は塗装屋の息子にカロリー指導して「太ったら嫌われるぞ」と説き、周囲の客に「ブス! デブ! ハゲ! チビ!」(笑)と子どもじみた悪態をつきながら出ていく。
傑作だったのは、かつて自分の三角筋を小さいと評したコンテスト審査員の自宅侵入シーン。マシンガンを抱えて乗り込んで、今度こそ惨劇かと思ったら、ぷよぷよのおっさんを裸にしてポージングさせ、(筋肉的な意味での)上下関係を叩き込む。
どんなジャンルであれ、やたら上から目線で否定してくる評論家にプレイヤー側が「じゃあお前がやってみろよ」と言いたくなる気持ち、お察しします。ここだけは妙にスカッとした。
憧れのブラッドからやっと電話をもらえたと思ったら、近所に興行に来たついででヤリ捨てられた形になったキリアンにはちょっと同情した。今度こそとうとう舞台上での惨劇かと思わせ、襲撃シーンまで描写されるが、それは幻だった。
ただし、キリアンがブラッドへの攻撃をやめたのは、衝動を自制心で抑えこむという過去のパターンとは違う理由だったように思う。
それまでの彼にとってのボディビルは、他人に勝つことで己の存在意義を示すための手段に過ぎなかったのではないか。両親にまつわるトラウマや祖父の介護、貧困に縛られた現実の中で、唯一自分でコントロール出来るのが筋肉だった。他者の評価を得ること以外に競技の意味を見出せないので、何年も恨むほど審査員の一言に振り回され、レジェンドに認められることに固執し、ドーピングに依存した。
だが、殺す覚悟で舞台に立つブラッドを見た瞬間、キリアンはボディビルダーの純粋な美しさや競技の本質に目覚めたのではないだろうか。自分に屈辱を与えたブラッドという人間への憧憬が消えてもなお、彼の肉体が美しいことにキリアンは気づいた。
だからマシンガンやステロイドといったそれまでの自分の歪みを象徴する道具を捨て去り、他人の評価ではなく自分や競技そのものと向き合っていく決心がついたのではないだろうか。
これは、狂気に溺れた人間が彼岸に流れつく寸前で一命をとりとめ、現実に帰ってくるまでの物語なのだ。
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