手に魂を込め、歩いてみればのレビュー・感想・評価
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「待つこと」「希望を持つこと」その大切さを彼女は決して忘れなかった でも「希望とはとても危険なもの」とも感じていた
私が最近観た映画『モンテ•クリスト伯』ではラスト間際のシーンで「待つこと」「希望を持つこと」の大切さについて書かれた手紙が登場します。私はこのドキュメンタリー映画『手に魂を込め、歩いてみれば』に、笑顔を絶やさずスクリーン上に登場するファトマさんの姿を見ながら、彼女はどんなに絶望的な状況になろうとも、この「待つこと」「希望を持つこと」の大切さを決して忘れなかったんだなと思い、涙がこぼれてきました。
でも彼女は映画『ショーシャンクの空に』のセリフの一節を引用しながら「希望とはとても危険なもの」とも言っています。これは希望を持ち続けても希望がいっこうにかなわない、希望と正反対の方向に物事が動くといった際のもう二度と希望を持ち得なくなるような絶望の淵の深さを言ったものだと思ったのですが、その後、彼女を待ち受けていた運命の過酷さを思うと「危険」という言葉に反応して胸が詰まってしまいます。
彼女は気高くとても聡明な人だと思いました。「待つこと」「希望を持つこと」の大切さだけでなく、自分の生まれ育った土地との絆、家族との絆の大切さもいつも忘れていなかったように思います。また、自分がその一員である民族としての誇り、自分が信仰している宗教に対する誇りも感じ取ることができました。さらに、24歳とまだ若く「駆け出し」といった感じだったでしょうが、報道カメラマン、ジャーナリストとしての誇りも十分に感じました。彼女は「手に魂を込め」シャッターを切ったのです。瓦礫の山を背景に彼女のカメラのレンズを見る人々の瞳からは、まだ「待つこと」「希望を持つこと」をあきらめないぞという気高さを感じることができます。
でもやっぱり、彼女には別の世界も見せてあげたかったな。生まれ育ったガザとの絆をとても大切にしている彼女のことですから、一時的に別の土地で見聞を広げても、結局はガザに戻り、ガザのために働くということにはなったでしょうが。
ただただ馬齢を重ねてきただけの私ですが、50歳近く年下の彼女に人としての大切な何かを教わったような気がして、僭越ながら、言葉をおくりたいと思います。
会うことはなかったけど、これからもずっと友だちだよ。ありがとう。
合掌。
ガザから
ヨルダン川西岸からのレポートはあるが、この紛争が始まってからのガザの現状レポートはじっくりと腰を落ち着けたものは初ではないだろうかそれもそのはず外国からの入国ははほぼできないので外国向けの発信はできない、ならばと内部パレスチナ人からの携帯電話で繫ぐドキュメンタリー。
まぁファトマの笑顔の晴れやかなこと戦争の真っただ中で周りで何にんも人が死んでも絶望的な環境でも悲壮感がないのは信仰の賜か彼女のもって生まれた物なのか?しかし彼女の話をきいてイスラムの考えが少しわかったような気がした。彼らはどんな不条理な目に遭っても決して神を恨まない運命として受け入れるそれが諦めず粘り強く抵抗する力となるのではないかと考えた。
沢山の人に見てほしい
今年は偶然ですが、ドキュメンタリーで始まりドキュメンタリーで終わります。
内容はあらすじ通り。結末も。でも、百聞は一見にしかずを再認識します。
ファトマの笑顔が眩しくて印象的でした。英語は苦手だと言ってたけれど、あれだけ話せるなら十分ですよね。母国語でも自分の考えを言葉にするのは難しい状況なのに、当事者として発信したいという強い意志を感じました。
そして、彼女の撮った写真がどれもこれも素晴らしかったです。さすがプロ。
通話の途中で出てきた弟さんが、監督のような外国人を初めて見た、と言ったことが彼らの生きる世界を表していて胸が締め付けられました。
監督がファトマに、お互いの環境が真逆な中ビデオ通話をしていることについて不思議な感じがする、というようなことを言ってましたが、スクリーンを見ているこちらもまさにそういう気持ちで眺めていました。画面の向こうには常に命の危険があり、こちらは穏やかで平和。
ファトマは、旅行には行ってみたいけど国外に住みたいとは一度も言いませんでした。彼女ならどこへ行っても生きていけるはずなのに。でもきっと、どこか別のところで生きててほしかったと考えるのはエゴなんでしょう。彼女が遺したものが、多くの人に伝わりますように。
彼女の「世界に響き渡る死」
イラン出身のドキュメンタリー映画の女性監督、セピデ・ファルシがガザで何が起きているのか映像制作を志すも、ガザに入ることが出来ず、知人の紹介でガザに住むパレスチナ人、ファトマ・ハッスーナとスマホでビデオ通話をして、それを撮影することでガザの現状をフィルムにとらえようとする…
電波状況が悪い中でのビデオ通話なので、言葉は途切れるし、しばしば接続も切れてしまう
しかしファトマはいつも満面の笑顔で画面にあらわれて、“現在のガザ”を感情を抑えた言葉で伝える
まだ23歳と若い彼女はフォトジャーナリストでもあり、ガザの破壊された街並みと、その中でもたくましく生活する人々、まなざしを向ける子どもたちをとらえて、1枚の写真に切り取り、ガザの外に送信する
突然、頭上にのしかかってくるような重い爆撃音
それに続く、何かが酷く破壊される音
後半はブーン、ブーンとドローンの音がノイローゼになりそうなほど常時響く(文字通り常時、つねに、だ)
彼女はガザに住んでいることを誇りに思っていて、たとえ国外に出ることが出来たとしても、ここに戻る、私の生きていく所だと語る
明るく話しているが、爆撃で彼女の叔父は亡くなり、その妻は路上で首だけが見つかる、という凄惨な死を遂げている、にもかかわらず、だ
私だったら…パニックに陥って、恐怖と嘆きと攻撃してくるイスラエルに向けて呪詛を投げるだろう
しかし彼女は自らが当事者であるにも関わらず、抑えた言葉で事実を伝えて、ビデオ通話では外国には行ってみたい、一欠片のチョコレートは食べたいなと笑ってみせる
彼女が切り取ったガザの風景のこちら側に、彼女の目線がある
大好きなふるさとが、一方的な攻撃で破壊されていくさまを淡々と写す
そしてその中で、彼女を見つめる子どもたちの目
何かを車で運ぶ人
誰がが命を落としたであろう凄惨な血溜まりを、黙々と掃除する人
大袈裟に、声高に叫んだりはしない
事実として撮影された風景や人々の姿が、私たちにたくさんのものごとを教えてくれる
彼女の目線が切り取った写真や動画、屈託のない笑顔が、淡々と語る事柄がこの映画に残る限り、彼女の生きた証拠となり、イスラエルの暴挙の証拠ともなる
「もし死ぬのなら、世界に響き渡る死を望む」
本人が記したように、皮肉にもまさしくそうなったように…
「監獄」という名の「人生」を生きる意味とは何か?
「ネタニヤフ調書」を鑑賞した流れで、この映画の存在を知ることになった。両映画とも「ドキュメンタリー」であり、かつ、究極的に「対立」する立場の視点になっている。良くも悪くも、「お互い」が「お互い」を補完し合うような「存在」であり、補完し合って、一つの「完成」した形になるのではないかと思い、鑑賞に至った。
スクリーンには、基本的には、「ガザ」の難民である、若い女性「ファトマ」と「監督」とのスマートフォン使用した「ビデオ通話」の映像が写し出される構成になっている。ただ、それだけ。それだけの構成なのだが、「ファトマ」の身を案じてしまい、ハラハラ・ドキドキする自分、どっぷりと映画の中に浸っている自分がそこにはいた。
「ファトマ」の表情は、常に「笑顔」で、いつも明るい。自分の家族や友人などを紹介したり、今日は何をしたとか、何を食べたとか、とりとめのない話をしてくれる。そんな、彼女を見ていると、とても、そこが、「戦場」とは思えない。だけど、間違いなく、そこは、「戦場」だった。「今日は、友人が死んだ。」、「叔父さんが死んだ。」、「首は道路の上に転がっていた。」、「死んだと思うけど、遺体を見つけられない。」など、想像を絶するような事実を淡々と話す彼女を見ると、今まで、どれだけの苦しみを経験してきたのかと考えさせられてしまう。
そして、時間が経過していくと、次第に、戦火が大きくなっていく。「ビデオ通話」には空爆の音が混じるようになり、近距離にある爆撃されたビルが煙を上げている映像が流れる。繰り返される、通信の遮断や、文字通りの「音信不通」。鑑賞している者は、そのたびに、彼女の身を案じて、いたたまれない気持ちになってしまう。
また、日々の食料調達もままならない状況から、栄養失調気味となり、声に力がなくなる。顔は瘦せこけて、空爆のために外に出られずに室内にこもる日々。そのような毎日を送る「ファトマ」の精神も、次第に落ち込んで軽い「うつ」のような状態になってしまう。
「監督」自身も、「ファトマ」の身を案じて、言葉をかける。「ガザを出て、外国に行く気持ちはないか?」と。何度聞かれても、「ファトマ」の答えは同じ。「外国に旅行をしたいとは思うが、必ず、ガザに戻る。」
この「ファトマ」の強固な意志、信念が全く揺らがないことが凄い。「生まれ故郷」とは言え、一歩外に出れば、そこには、もはや、以前の「生まれ故郷」の面影すらない。あるのは、跡形もなく崩壊した建物の残骸だけだ。自分自身と関係のある人たちも次第に亡くなっていく。居るのは、いつ攻撃してくるかわからないイスラエル兵だけ。このような悲惨な状況にもかかわらず、「ガザ」に固執する「ファトマ」。
鑑賞していた私自身は、「生まれ故郷」だけが理由なのか、「親戚」や「友人」が眠る地だからなのか、色々と思いを巡らす。無論、彼女自身が「ジャーナリスト」であったことも、大きい理由かとは思うが、私は、究極的には「意地」だと考えている。言い換えれば、「プライド」みたいなものだ。「ガザ」で生まれて、「ガザ」で育った、「ガザ人」の「プライド」が、「ガザ」を離れるという行為を許さなかったのだと思う。
現在の「ガザ」に住むことは、ある意味、実際の「監獄」の中にいる以上につらく厳しいものだが、「ファトマ」が、それを選択した理由は、彼女の「ガザ人」としての「プライド」に他ならなかったと思う。最後、非常に、非常に、残念な結果になってしまったが、「ファトマ」にとって、その「プライド」とは、「命」を賭しても、守らなければならない、真に大切なものだったに違いない。そして、その「プライド」は、「イスラエル」がどんなに攻撃しようとも、永遠に奪うことはできないものとなった。
鑑賞前でも、何となくではあるが、その内容を想像することは難しくはなかったが、いざ、映像を見ていくと、どんどん、気分が落ち込んで重くなり、まるで、「ファトマ」を案じる「監督」の気持ちと「同期」しているようだった。その意味で、「ファトマ」や「ガザ」の窮状をより現実のものに感じることができたと思っている。鑑賞したあとに、昔の映画のキャッチコピーが頭をよぎった。映画のタイトルは失念してしまったが、確か、「どんなに凄いCG映像も、真実にはかなわない。」だったかと思う。このキャッチコピーのとおり、どんなに優れた高度なCG映像、あるいは、ストーリーであっても、「真実」という1点において、「ドキュメンタリー映画」にはかなわない。こんなことを改めて感じさせてくれる、本当に素晴らしい映画だと思う。
上映終了後に、外に出てみると、すっかり日は落ちて暗くなっていた。街の明かりが美しく輝いていた。そういえば、彼女は、「ファトマ」は、こんな美しい街明かりを見たことはあったのだろうかと、ふと思うと、自然と涙がこぼれ落ちた。いい年したオッサンが、鼻をすすりながら涙している姿を見た人たちは、きっと不思議に思ったに違いない。
そして、「ネタニヤフ調書 汚職と戦争」のレビューの最後に書いた文を改めて、書き記したいと思う。2025年が終わろうとしている、今、この時も、戦火に巻き込まれている、「イスラエル」、「パレスチナ」の人々の「健康」・「安全」・「幸福」を願わずにはいられない。
”ジワリ”とくる
言葉がない
気持ちが落ち着いたら書くことにします。
追記
やっと少し落ち着いてきました。
私は結末を知っていたので、最初の笑顔のシーンから涙が出てきました。
あんな状況の中、ファトマさんは、どうしてあんな笑顔ができるのだろう。ずっとそれが不思議でした。監督と彼女とのやり取りは人間的で、とてもあたたかなものでした。
しかし、監督と彼女との物理的な距離が、この映画を見ている立場の自分と実際にガザで苦しんでいる彼女の距離と重なり、「今、自分にできることがない」という現実に苦しむ監督の気持ちに、感情移入してしまいました。
ファトマさんの誕生日はいつなのでしょう。映画の状況から考えると、ちょうど彼女は娘と同学年で、日本で暮らしている娘の笑顔を思い出してしまいました。ガザを出たくないと言ってみたり、早くこの街を出たいと言ってみたり。矛盾だらけの彼女の反応が、とても愛(いと)おしく思えました。
怒りと絶望感と悲しみと・・・、いろんな気持ちがごっちゃになった2時間でした。
殺戮されるひとたちの実像
微笑むと白い歯がまぶしい美貌のジャーナリスト、ファトマ。通話場所は毎日のように変わっていることが画像から見て取れますが、ときおりスマホの画面が窓の外に向けられると、そこには爆撃で廃墟のようになったガザの街並みと近くに黒煙があがっている様子が映し出されます。・・次々に亡くなる家族や友人のことに話が及んだりするときは、徐々に細くなってゆくのがわかる彼女の顔の表情には、明らかに陰りが見えたりします。そしてまた栄養失調で意識も少しはっきりしなくなることに話が及んだりするときは、会話のかみ合いも悪くなるのですが、それがそのまま刻印され、観客の前に提示されてゆきます。
でも、なんていうのでしょう。映画で映し出される、監督とファトマの会話が親密さを基調としているということだけはなく、言葉自身が常に「明るく前向き」だったように思うのです。例えば、亡くなる少し前の映像だと思いますが、「ねえ、これ見て。」と満面の笑みで嬉しそうに彼女が見せたのは一袋のポテトチップスでした。たばこ1本50$の戦地ではその価値はいかほどかと思いましたが、「ゆっくり楽しんでね」との監督の言葉に満面の笑みで返していました。そして彼女が撮影した、がれきのなかでの子供達の表情といったらどうでしょう。みな戦火の止んだ一瞬の時間のなかで、柔和な微笑を湛えているのです。それらの対照がなんとも印象的で不思議でした。
「建物は壊されても、また作り直せばよい。わたしたちがこの地で生きることを望まない人がいるのは知っているが、ここを動くことはない。ここはわたしたちの故郷なのだから。」そんな趣旨のことばを発する彼女は、しかし、同時にハマスの指導者に対しても「イスラエルと基本やっていることは同じ」と手厳しい。そして「何もできない」との監督の言葉には「寄り添ってくれるだけでうれしい」と優しい笑顔で返す・・・。
思想や宗教や文化や慣習の違いで、奪い合い、殺し合うこの世界ですが、この作品で写しとられたその姿は、二元論の印象操作で生まれたかもしれない邪悪で汚い存在という歪んだ虚像などではなく、家族を思い、旅にあこがれ、猫を可愛いといい、遊園地に行きたいと願う、基本的には我々と何も変わることはない普通の人間なのだということがよくわかる作品でした。若いジャーナリストが命がけで、伝えようとしたその事実・・・確かに受け取りました。
ファトマの顔はもう忘れないと思う フォロアーさんのレビューを読みま...
ファトマの顔はもう忘れないと思う
フォロアーさんのレビューを読みました。
それで決心がつきました。
涙のごとく、感情のあふれるままに、そのままに思いを綴ってくれた
いつもと違う彼女 talismanさんの「行替えなしのレビュー」を見て、
迷いが吹っ切れて、映画館まで行ってきました。
往復6時間と、電車賃1万円は痛いけれど、
これは「ファトマ」と「フォロアーさん」への義理です。
自分が戦場に巻き込まれていないと、
そして身内や知り合いが 彼の地に居ないと、
こんなにもガザもウクライナも僕の意識から次第に遠のき、懸案ではなくなっていく。
日常生活で取り紛れてしまう。
薄情な自分です。
24歳のファトマ、
笑ったり、黙ったり、
ピンクのヒジャブ、
可愛い小紋のヒジャブ。
24歳なのに夕暮れに老女のような顔にもなっていた。
ガザを出たいと言い、ガザからは出ないと言い。
いつも間に合わない。ぜんぶ僕は後の祭り。
今年は国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)
に送金しました。
映画の力を見せつけられました!
ガザで懸命に生きていたファトマさんとセピデ監督とのビデオ通話によるドキュメンタリー映画
映画の中で何度もニュース画面が流れます。テレビの横で戯れるネコちゃんは、まさに私たちの過ごしている日常そのもの。
キャスターが伝える内容…「爆撃による死者×名…」
「あら、大変なことになっているのねぇ」と心を痛めはしますが
もし、このうちの1名にあなたの愛する人が含まれていたとしたら…
映画には人の心を動かす力がある。
この映画を見ることで、ファトマが生きていた証を知ることで、圧倒的に他人事ではなくなります。
ビデオ通話が繋がらなくなる度にファトマさんの身に何かあったのではないかとハラハラし、いつしかニュース映像に祈っている自分に気づきました。
ファトマの素敵な笑顔が心から離れません。
人間的な生活を奪われても、心は屈しない。
ファトマの笑顔は抵抗そのもの。
自分の目で見て伝える。
映画でも写真でも、そこに映っているのは被写体ではなく、ファインダーを覗いて切り取った本人そのものだと感じています。
ファトマはガザの各地を転々と非難しますが、
食料を持って行けない状況でもカメラは手放さなかった。
ファトマが手に込めていたのはジャーナリストの魂そのものだったと感じました。
大事なもの
RECONNECTまでの不安感
覚悟して観に行き、上映中はみじろぎもせず観ました。でもやはり打ちのめされました。
通話は途切れがち、繋がっても画面から爆撃機なのかヘリなのか常に不穏な音が消えることはありませんでした。
でもファトマさんの笑顔はどこから来るのでしょうか。私よりはるかに若いのですが、(イデオロギーとか宗教観以前に)「人」として尊敬します。さまつなことに日々文句ばかり垂れている自分が恥ずかしくなります。
無力な自分があれこれ偉そうに言っても偽善にしか聞こえません。最低限出来ることはファトマさんとセピデ・ファルシ監督の存在を決して忘れず、パレスチナの実情を逃げずに意識し続けることかなと考えます。
映画館を出ると、12月の晴れた空が目に飛び込んできて、その青さにほっとしました。そして街角には人々の普通の生活があり、自由に歩ける幸せを噛みしめました。
ファトマさんの魂が一刻も早く自由にガザの街を歩けるよう祈るばかりです。
現実とは思えない、現実
泣くとかそういうレベルの映画じゃなかった
観終わって、想像の及ばない世界に絶句。
自分が思い出したのは、職場にいるベトナム人の女の子との会話。いつも私の名前の由来を聞いてくる。私も質問し返してお互い半分くらいわかった気になって話を終える。半分はわからないからまた同じ話をする。
壁の外側の人と接続することで、ファトマは自分の魂の輪郭を確かめ、時に癒しを得ていたのだろう。
何度もスマホの画面に出てくる「再接続」の文字がもどかしいがこれが現実だ。
映画のテーマとしては戦争によって損なわれる人権だけでなく標的にされるジャーナリストということも強く訴えたかったのだと思う。
今世界に発信しなければ、というファトマの決意が悲しい。
ガザにはヒジャブをつけていない人もいるらしい。そして瓦礫ばかりの街の道だけはとても綺麗にされているところにわずかに希望が見えた気がした。
彼女の証言、彼女が撮った写真
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