劇場公開日 2026年1月30日

ランニング・マン : 映画評論・批評

2026年1月27日更新

2026年1月30日よりTOHOシネマズ日比谷ほかにてロードショー

ライトにしてキングだが「バトルランナー」にあらず

そりゃエドガー・ライトのフィルモグラフィを俯瞰すれば、彼がスティーヴン・キング原作の精神に忠実であろうとする姿勢は想像に難くない。いま最もファンを裏切らない、オタク監督の筆頭と称していいだけに。

とはいえ、前回の映画化作「バトルランナー」(1987)も、あれはあれで栄養価が必要以上に高い翻案だった。キングらしい文体を控えめにした小説(ゆえに名義も異なる)に、過剰な装飾で大胆な味変をほどこし、普通の男であったはずの主人公は、アーノルド・シュワルツェネッガーによって叛逆のヒーロー像を与えられた。いま振り返れば悪い冗談のようだが、そのズレこそが、80年代ハリウッド的イマジネーションの産物だったともいえる。

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当然ながら、ライト版「ランニング・マン」は、そうした予測に沿った仕上がりとなっており、「バトルランナー」に顕著だったパワーファンタジーへの傾斜を明確に回避している。グレン・パウエルの演じる主人公はオーディエンスの目線と同期し、映画はアクション性を損なうことなく、あえてカタルシスを与えないというジレンマと格闘しつつも、メッセージ性が薄められることはない。その政治的な含意は、英国人監督らしいシニシズムにくるめられ、むっくりと頭をもたげてくる。

いっぽう、テレビが社会の中心にあった時代に書かれた原作を、現代の多視点的なメディア環境へと移植する試みは、頻繁な画面転換や加速するテンポといったかたちで、監督の個性を刻印している。しかしその反面、エドガー・ライト作品に固有のユーモアや視覚的な遊び心が、やや後景に退いている印象も拭えない。つまり本作は「エドガー・ライトの“ランニング・マン”」というよりも、「キングが構想していた方向性の代弁」と捉えることもできるだろう。かつてキングは、自作の映画化において監督の作家的解釈による改変を嫌ったが、そうした経緯を踏まえるなら、本作は原作者と監督、双方の作家性を並列に思考させる、きわめてフラットな「ランニング・マン」なのかもしれない。

「デスゲームものの原点にして頂点」という煽りも、まんざら誇張ではない。ただしそれは、ジャンル的な完成度や快楽の強度を担保するものではない。ライト版が行き至ったのは、デスゲームという形式が本来はらんでいた不快感とバイオレンス性を、いま一度真正面から定義しなおす地点である。そこには爽快さも逃げ場もなく、その居心地の悪さこそが本作を、単なる再映画化でも、ライト流の娯楽作でもないものにしている。結果としてあるのは、観る者を楽しませる作品というよりも、観終えたあとに問いだけを置き去っていくような感触だ。小説や映画と媒体を問わず、本来「ランニング・マン」とは、そうした物語だったはずである。

尾﨑一男

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