旅と日々のレビュー・感想・評価
全45件中、21~40件目を表示
いい映画だな
最後、熱があるから警察の人に連れられていくシーン、現実味があってとても好きです。笑いました。
この終わらせ方、すごくいいなと思いました。
海のシーンでは、女の子(河合優美さん)の最後の眼差し。李の創作物から生み出された人間の奥底、内部が垣間みれた感じ。創作物ならではのリアルさがあった。
女の子の「もっと奥の方だよ」「もっと奥」には、波と思念が共鳴しているように感じました。安全な場所から言ってるところが人間の利己的な図太さがあって好きです。
宿主の奥さんと子どもには、病気や事故で亡くなったという悲しい過去があるのかと思っていたら、実際は宗教観(価値観)の違いによる離婚。現実的で良いと思いました。いい意味で裏切られて好きです。
ただただリアルで、人間のおかしさがあって、面白くて、にやにやしながら見ていました。
最初、冗談で堤真一さんに似た現地の人が出てるのかと思いました。さすがに途中から、あまりにも堤真一さんに似すぎていて気づきました。
日本人だけが登場するわけではないところが、「地球上の物語」という感じがして好きです。
短すぎず、長すぎず、丁度いい尺の映画だと思いました。最後まで楽しめました。
賛否両論ありそうな映画だと思いますが、
ぬるっと終わるところが一番好きです。
もう一回、映画館で観に行こうかな。
イモトとイビキ男
【所感】
つげ義春の漫画は子どものころに読んで、どうにも気色悪く感じて以来、ずっと苦手でした。ところが、週刊文春で高評価を得ていたので、だまされたつもりで観てみました。結果としては、また文春にうまくだまされました。文春あ砲。
映画が始まってすぐ、導入部が「シャイニング」みたいだな」と思いました。けれど、冒頭30分ほどは眠くて眠くて、まるで夢の中で展開されるような、ぼんやりした世界。北野映画のつまらないシーンだけを集めたような印象すら受けました。北野ブルーのような映像も見られます。
主演のシム・ウンギョンは、以前ドラマで見たときから、イッテQのイモトに似ているなと感じていて、当時は途中まで本当にイモトだと思い込んでいました。今回の作品でも、やはり似ています。眉毛メイクを外した、日本語片言のイモトという感じです。
脚本家という役柄ながら、鉛筆の持ち方が妙に独特で、気になりました。ただし、朴訥として、少しとぼけた演技は似合ってました。堤真一は、初老のボロ宿屋の主人が意外にもはまり役で、特に、いびきの演技が見事。亡くなった父親のいびきのうるささを思い出し、胸に響きました。佐野史郎の設定には、ちょっと笑ってしまいました。河合優実はもったいない使い方。
物語は、中盤以降からようやく、少し面白くなりそうな気配を見せますが、気配を見せたままさらっと終わってしまいます。
私としては、少し似た雰囲気のジュリー主演作「土を喰らう十二ヵ月」の方が、田舎めしの描写も美味しそうで、映画としても格段に面白かったです。
今作は、くすっと笑えるシーンもありますが、私にはやはり、少し肌に合わない作品でした。いっそのこと、イモトを主演にして、もっと笑えるようにした方が良かったのでは。でも、それでは、つげ作品になりませんね。
なので、つげ義春の作風に抵抗がなく、淡々とした展開を楽しめる人になら、おすすめできるかもしれません。
旅=非日常感
日本で活動している脚本家の李は、思うような映画を作ることができず、行き詰りを感じていた。
そこで彼女は思い切って地方に旅に出ることに決めた。
宿泊先を探そうにも、どこの宿も満席で部屋が取れなかったが、地元の人にとある一件の民宿を教えてもらい、そこに足を運ぶ。
そこで不器用ながらほそぼそと経営している一人の亭主と出会うことになり、しだいに彼女の心の緊張が溶けていくという物語。
この物語は、都会のビル群が並んでいる風景から始まるが、その時点で「彼女の気持ちがなぜ行き詰っているのか」を、息の詰まるような都会の風景から静かに描き出すことに成功している。
映画の序盤、彼女がいた都会は「乱立するビル群」に囲まれている。
それはまさに「コンクリートジャングル」であり、観客にさえ「閉塞感」を与える。
この物理的な圧迫感は、脚本家として「うまく説明できない」「きっちり生きられない」彼女の精神的な「息苦しさ」そのもの。
彼女が旅行先で遭遇した「ホテルが満室で泊まれない」という出来事は、彼女が社会のルール(予約、秩序)から「どこかはじき出されている」ことを象徴的に示す。
社会(地図)から「はじき出された」彼女がたどり着いたのは、皮肉にも「地図にない宿」だったように思った。地図の範囲外のところにあったのは意図的な演出に感じるし、そこは、都会の「こうしなければいけない」という規範から完全に切り離された場所であることが分かる。
その民宿では、布団は自分で敷いて、寝たいときに寝て、置きたいときに起きる。決められた時間が定義されておらず、その日のうちにやることだけやる。そこが良い意味で適当な暮らしを強いられるところがとても良い。
民宿の不器用な亭主もまた、どこか社会にうまく適応できない「よそよそしい」人物であると思うし、そんな二人は説明不要の関係性を築いていく。
そして、彼女が亭主と過ごす日々は「夢見心地」なように思う。
とある深夜に「鯉を盗む」といった非現実的な出来事は、亭主の「思いつき」で行動することが許される、この場所の性質をよく表している。
彼女は、この「夢」のような体験を「写真」に撮り、「記録」として残そうとする。それは、この非現実的な日々を、かろうじて「現実」に繋ぎ止めようとする行為だ。
しかし、彼女は「カメラをなくす」。
これは決定的だ。唯一の「記録」を失ったことで、宿での体験は再び現実から切り離され、「あれは本当に夢だったんじゃないか」という曖 …(あいまい)な記憶へと変わっていく。
脚本を練っている時の「こうだったらいいのにな(と頭で描く)」ことと、映像化(=記録)の「差異」に悩んでいた脚本家の彼女が、旅先で「記録そのもの」を失うことの意味は大きい。
結局、彼女の「行き詰り」は根本的には解決していないのかもしれない。
しかし、旅から戻った彼女の表情は違うと思う。
今までの生活で人と接するときにはどこか「完璧」なところを見せなければいけないので気疲れしていたと思うが、今回の旅で体験した「ちょっとゆるい出来事」は、都会で暮らしていたらきっと経験はできなかっただろう。
良い意味で「いい加減」な亭主と出会えたことが彼女の「心の緊張」を溶かしたものの正体だと思うし、この作品の静かな救いなのだろう。
日本人でも毎日の慌ただしさで虚しくなる人も多いと思うが、韓国人である李にとっては我々が思う以上に疲れてしまうと思う。
この作品はそうした日常を生きることに精一杯な人に対しての休息映画だと思う。この作品を見終わったあとはきっと、心が少し和らいで和やかな気持ちになる作品だと思う。
今まで都会で感じる「完璧な対応」とは別に、「疎外されたままでいい」と許容してくれる場所(地図にない宿)と時間(夢のような日々)が存在し得たと知ること。
それこそが、彼女の「心の緊張」を溶かしたものの正体であり、この作品の静かな救いだと感じた。
期待値とのせめぎ合い
杉咲花さん、髙石あかりさん、広瀬すずさん、河合優実さんの出演作は自動的に観ます(すずさんの宝島はタイミング合わずで観てないけど)。そんな河合優実さん出演で、三宅唱監督作品、しかもロカルノ映画祭グランプリとくれば、期待値は高くならざるを得ません。
河合さんは、今回も趣きある演技。ただ、河合さんが演じる役としてはぴったりかつお馴染みで新味はなし。突然の水着姿にはもちろんありがとうの気持ちですが…。
女性脚本家の旅パートは、まず佐野史郎さんの生きてたんかい!え、違うんかい!で騙されて、なんとなくコメディかな?って思ってからの宿難民で山奥侵入。
堤真一さん(恥ずかしながらエンドロールまで堤さんとは気づいてませんでした)の東北訛りとシム・ウンギョンさんの韓国訛り日本語の交流が味わい深いと感じました。
季節、ローケーション、年齢、言葉数などなど、前半パートとの対比を意識して観て、何か感じた気がしていましたが、忘れてしまいました(汗
三宅監督直近の「ケイコ目を澄ませて」、「夜明けのすべて」という一級品ストーリーを期待しちゃうと肩すかしくらうかも。日々は旅で、旅の日々の「旅と日々」を他と比較せず観るのがよきと結論づけました。
ロケ地を知りたくなる映画で、映画館を出てすぐ検索。ロケ地紹介のブログを読みました。神津島いいっすね。東北産の人間には懐かしい響きだけども、自分の田舎の言葉とは明らかに違うあの言葉は庄内弁なのですね。満室だらけだった温泉宿に泊まってみたいです。
なんだか非常に散漫な感想で恥ずかしいのですが、なんとなくそういう映画だった気がしています。嫌いじゃないけど、勝手に期待値上げてたために⭐︎4つはつけられず
鯉泥棒
本サイトの粗筋が前後で繋がらないな、と思ってたら、劇中劇なのね。
この劇中劇が、河合優実をもってしても退屈だった。
背景も語られない2人の男女がなんとなく出会って、なんとなく一緒に過ごすだけ。
しかも意味もなく台風の中で泳ぐという、事故にでも遭ったら迷惑極まりない行動に出る。
主人公が「自分には才能がない」と思わなきゃなので、面白くするわけにもいかないのだが…
そんな作品を長々と、しかも部分的に見せられるのは苦痛でした。
後半は堤真一のべん造がなかなか面白い。
世捨て人風なのに、「ドラマになれば都会から客が〜」とか「幸せ=金持ちになる」とか俗っぽくて。笑
喋り方も妙にリアルで、これを堤真一がやっているというメタ的な楽しさがある。
話としては、ダラダラして、鯉泥棒して、べん造がパトカーで病院に搬送されただけ。
主役が韓国人というのは、故郷との物理的な距離とか、言語や文化の違いという意味で理解できる。
でも、国内の田舎と都会でも“近くなのに”という逆説的な描き方は出来たと思う。
わざわざ字幕を付けてまでの意味はあったかな。
また、最初の宿泊場所?食堂?はもっと現代的にした方がギャップが出たんじゃなかろうか。
「旅とは言葉と距離を置くこと」という一つの答えを中盤に出しちゃったのも勿体ない。
カットの美しさ(特に風景)とか、べん造の宿に着いて音が消える演出とか、いいところもあった。
けど正直、画を撮りたかっただけの部分が多過ぎる気がする。
タイトルなし(ネタバレ)
シムウンギョンさんの居方が与えられた動作をしているように見えてあまり好きではなかった。
こう見えるでしょ?という意思を感じてしまった
あまり好みではないんだとも思う
それにより
作り手の韓国映画の憧れさえ感じてしまったのだから
いくつかの映画を見たようなまとまりのない冒頭
それは人の脳内に似ているようにも感じた
河合優実さん素敵だけど
スタンダードだったため、想像ができてしまって
その感じは少し見飽きたようにも思う
もっと違うの見たかった
ただ、テイストはすごく好きだ
堤真一さんはいいなぁ、、、、
ただ生活をし生きている感じが
夜な夜な
「ケイコ 目を澄ませて」「夜明けのすべて」の三宅監督というところに注目して鑑賞。
コンパクトな尺も良いねと思いながら観ましたが、まさかここが落とし穴になるとは…。
序盤からめちゃくちゃ間を取っていたのでこれは苦手なタイプだ…と早々に苦手意識を持ち、2つの原作を組み合わせて1本の作品になっている割には前半と後半で全く違うものになっているのも悪い意味でギャップがありました。
前半パートは脚本家の描く物語が映像になっており、風景はとっても綺麗なんですが、セリフ量の圧倒的な少なさと河合優実さんの歩く様子を淡々と見せられる河合さん頼りな演出になっていてまずさを確信しました。
脚本家の描くストーリーの殴り書きの途中なので、起承転結を求めるのは酷ではあるんですが、変わり映えしなさすぎてちょっとウトウト。
後半パートでは筆が進まない脚本家が雪山の温泉街へ向かうカンヅメを求めにいく話ではあるんですが、アポなしで温泉宿取れるわけないだろうというツッコミは置き去りにするかの如く、変わり者の宿主との素っ頓狂なコメディが始まるのですがこれが自分とは合わなかったです。
方言が何言ってるか分からないのはまぁ良いとして、掛け合いの平坦さが全く好みではなく、その後の展開も犯罪一歩手前の行動をしておきながら放りっぱなしでエンドロールへ向かっていくので、この旅の中で脚本家は何を得れたのか、そもそも旅していたのか?と疑問に思いっぱなしでモヤモヤしました。
警察周りもなんだかファンタジーでのめり込めず。
あといびきがリアルすぎてゾワゾワしました。せめて2〜3回くらいで終わらせて欲しかった…。
堤さんが出てるという情報を知らなければ分からないくらい田舎の人に溶け込んでいるので、それは大収穫だったなと思いました。
評価は割れてるのでピンかパーかなとは思いましたがここまでパーとは。
三宅監督の次回作はどうなるのか、予測不能です。
鑑賞日 11/8
鑑賞時間 17:05〜18:55
面白かったぁ〜!
夏バージョンの劇中劇の旅先の海辺のシーンは、
どこか、日本の純文学のような、
昭和初期の作品のような⋯
また、現実世界でも、
人との出会いと別れを描くことで、寂しさと温かさを感じる
少しノスタルジックな雰囲気に胸がジンワリしました。
逆に、雪深い山村のシーン、
雪の白に覆われた色彩の少ない画面は、モノクロ映画のようで、
韓国語のセリフの字幕具合が、どこかフランス映画のようで⋯
とても好みの雰囲気でした。
また、宿屋でのシーンは、
真面目に生きている中に、ユーモアの欠片が散らばってて⋯
カチカチの黄金に輝く錦鯉、まさにそれ!で、かなりツボりました!!
思い出しても、笑ってしまう⋯。
雨の海や、雪深い山村や、映像は寒そうなのに、
心は温かくなるホッコリ作品でしたー。
わたしは、大好きです!
ひとり旅に出かけたくなりました。
補足1
つげ義春さんの漫画へのリスペクトから出来上がったと、
鑑賞後にパンフレットを読んで知りまして、
俄然、漫画を読んでみたくなりました。
補足2
雨の海で泳ぐ河合優実さんと、髙田万作さんの唇も、
宿屋で話す堤真一さんと、シム・ウンギョンさんの吐く息の白さも
とにかく本当に寒そうで、俳優さんって、たいへんねーと思ったりもしました。
味わい深い
映画館がとても寒くて、映画の中も寒々しい。これから訪れるだろう冬を思わせて切ない気持ちになる。夏は夏で暑すぎるし、冬は寒くてつらい。その上今年は雪が深そうで、げんなりする。
劇中劇の河合優美の海水浴も寒そうだ。本当に夏に撮影したのだろうか。
たどり着いた民宿がとんでもなくて、客間がない。つげ義春の原作がそうだったのだろうけど、断熱材など当然なくて、板塀と障子のすぐ外が雪だ。お風呂はどうしていたのだろう。五右衛門風呂だろうか。布団もきれいじゃなさそうだ。魚料理はおいしそう。宿賃はいくらだったのだろうか。そういうものであるとして覚悟して泊まる必要がある。
おじさんに子どもがいて、しかも近くに住んでいて険悪な関係ではないことに、なんだか安心する。
おじさんはその宿を舞台にした映画を作ったら客が殺到すると夢を語る。しかし客が殺到したら対応できないだろう。人を雇ったり増築したりするつもりなのだろうか。クレームも増えて心を病むことだろう。
ザ・インバウンド映画
僕はこういう映画が一番嫌い。
映像美と役者の演技だけで、あと日常を描きました、だけでほんと中身がない。
現に感想はそればっか。あとはエロチックか。映画の中でエロチックって自分で
言っちゃってるし。
日常を淡々と描くことは悪いことじゃない。ただ、あの宿、本当に堤さんが日々一人で
暮らしてるんですかね。朝何時に起きて、何をしてどう毎日やっているか
考えたんですかね。あの脚本家は、本当にスランプで苦悩してるんですかね?
日本にわざわざやってきて、なんで脚本家になって、どんな仕事をしてきて、
忍者の脚本ってどんなのかとかちゃんと考えたんですかね?
生活感があるっぽい感じにしているだけで、その人を感じさせる描写や小道具、演出が
なさすぎる。挙句に、ほとんどセリフで語っちゃってる。酷いのは、田舎のおじさんとの
会話があんなにスムーズに行くのは、単なる作り手のエゴだ。テーマはなに?って聞く?
キャラクターが全然作り込まれてない。そもそもカメラの意味はなんだった?
何度も席を立とうと思ったけど、そういうことは一度もしたことがないのでやめました。
外国の方は、日本の風景、生活、素晴らしいって思うかもしれないが、日本人からしたら
薄っぺらさがものすごく鼻につく映画でした。
王様の耳はロバの耳。僕はちゃんと言いたい。
日常に潜むユーモアは、真剣に人々の間を埋める緩衝材なのかもしれません
2025.11.11 一部字幕 イオンシネマ京都桂川
2025年の日本映画(89分、 G)
原作はつげ義春の漫画『海辺の叙景』『ほんやら洞のべんさん』
行き詰まった脚本家が言葉から遠い世界に旅をする様子を描いたヒューマンコメディ
監督&脚本は三宅唱
物語の舞台は、都内某所
つげ義春の漫画『海辺の叙景』の実写化に挑んだ脚本家の李(シム・ウンギョン)は、その上映会が行われる大学にて、学生たちと一緒に完成した作品を観ていた
その後、映画監督(松浦慎一郎)とともに質疑応答のために登壇することになった李だったが、魚沼教授(佐野史郎)や学生たち(安光隆太郎、トロツキー・マックレンドン、嶋貫妃夏)の質問を受けて、「自分には才能がないな」とこぼしてしまった
劇中映画は、ある夏の日に人気の少ない島に辿り着いた女・渚(河合優実)と青年・夏男(髙田万作)を描いた作品で、教授は「エロティックでセクシー」と評し、学生からは「わからない」と言われてしまっていた
その後、教授と話すことになった李は、そこで旅に出たら良いと言われてしまう
李は韓国をルーツに持ち日本で生活してきたが、徐々に言葉を覚えていくたびに、不思議だと思えていた日常に閉塞感を感じていた
今では「言葉に追いかけられている」という感覚があって、「言葉から遠いところ」という漠然としたイメージを持つようになっていたのである
映画の後半では、言葉に追いかけられていた李と、言葉足らずの宿屋の主人・べん造(堤真一)との交流を描いていく
劇中映画が嵐の夏で、現実は大雪の冬という構図になっていて、彼女は寡黙な世界では多弁な存在だった
あれだけ言葉から遠いところを渇望していたのに、今度は自分が言葉で相手を追い詰めている
そんな感覚の中、李はべん造が抱える悲しみにふれ、また事件に巻き込まれてしまうのである
劇中映画に限らず、執筆した脚本のテーマを言葉にできない李が描かれ、彼女は数々の言葉によって日常が退屈になっていた人物だった
それでも、個々の事象を言葉で定義できても、一連の繋がりとか、言葉が映像になった瞬間に起きることなどを言語化できていない
それは「韓国語ではできているけど日本語ではまだできない」のかはわからない感じだが、おそらくは韓国語でも無理なんだと思う
そう言った資質がありつつも言葉に追いかけられているという表現を使うのは、ある種の言葉にしなければダメだという職業的な強迫観念なのだろう
映画では、べん造が作品の定義を語るのだが、そこには「人間の悲しみとユーモア」という言葉が登場する
物語には必要な要素であるとべん造は言うのだが、李にはいまいちスッと入ってこない言葉だった
だが、映画の後半は「この言葉を映像にした」という感じになっていて、ある意味、映画の後半で物語の主人公の悩みを解決している、というふうにも思えるのである
いずれにせよ、かなりゆるいテンポの作品で、特に劇中映画はそれを意識しているのかかなりゆったりした内容になっていた
前半の動きがあるのに遅いというのと、後半の動きがあまりないのに速いという感覚が交差して不思議な感覚の映画だったと思う
劇中映画の教授の感想に共感する人も多いと思うのだが、女性が書いた脚本を男性が映像化するという構図があの感想を生み出しているように思える
このあたりの感覚の妙とか、言葉を捉えて映像にする能力というのは個々の観念によると思うのだが、それを共有するのはとても難しいことだと思う
それは言葉をたくさん知っているからできるということではなく、相手が持っている言葉に対するイメージをいかに想像できるかなのだろう
映像を観て言葉に起こすと人それぞれであるのと同様に、その逆も然りということで、それでも人のコミュニケーションは成り立つというところが面白い
後半はおそらく無音にしても面白さが伝わる内容になっているので、映像から想像を発揮して物語を補完できる能力というのは、人に備わっている特別な能力なのかな、と感じた
コントラストの可能性
日本に住んでいる韓国人の若い女性脚本家が、ノートに鉛筆で、脚本を書いているシーン。あまり筆はノっておらず、苦しみ、迷いながら書き進める。次第にノートの文字と、描かれた映像が往復してゆき。
夏の浜辺。初対面の20代前半の男女が、海を眺めながら、他愛もない話をする。なにか意味ありげな自然風景の映像がたびたび挟まる。一日共にし、互いが自然と、明日も海に来る流れを感じ取る。翌日。台風が接近し、大雨のなか二人は浜辺で出会う。男女は大雨でズブ濡れになった服を脱ぎ捨て、大荒れの海へ飛び込む。
その映像を観ている学生の後ろ姿が映る。上映後、監督と脚本家の女性が登壇し、学生からの質問を受ける。しかし、質問にうまく答えられない。彼女は自信を失っていた。講演後、女性は教授に脚本が書けないことを打ち明けると、教授に「仕事は適当でいい。旅に行ってみては。」と言われ、背中を押された。直後、教授は亡くなる。その後、教授の家を訪れた脚本家は、生前教授が集めていたカメラを一つ受け取り、生前の言葉を胸に、旅に出る。
冬の田舎。大雪の山間部。宿を予約せずに来てしまったため、山奥の宿に泊まることになる。そこは宿というよりも民家のようで、中年男が一人で暮らしていた。宿の男と、脚本家の女性の数日間の共同生活。男に脚本家であることを伝えると、二人で新しい物語を考える。日々、何をするわけでもなく時間だけが過ぎてゆく。ある晩、男は「裏の池にいる錦鯉を見に行こう」と、女性を連れ出す。
というような、あらすじである。とても不思議な映画。というのが率直な感想だが、それだけではあまりにももったいない。
冒頭のシーンから印象的である。脚本家が文章を書くと、次のそのシーンの映像が流れる。それを何度か繰り返し、導入とする演出は今まで見た事がない。フィクションの中のフィクションのような。多次元空間のような。この構造が所々に現れる。これがクセになり、この映画の魅力の一つである。
その導入からつづく前半部は、明らかにフランス映画を意識した考えさせる描写が続く。男女の他愛もない話は、他愛もないはずなのに、どこか意味ありげに引っかかり、残り続ける。小舟で漁に出ると、赤子を抱いた女性の死体が引き上げられた。女性は白くなり、鼻や口には藻が詰まっている。死体が引き上げられたところは、タコの棲み家で、タコに食い荒らされて赤子は白骨化した。という話や、ここから見える地平線は何キロ先にあるか。という話。そんな中、海や山、様々な動植物の映像や、そこに住んでいた住民の生活風景のモノクロ写真がたびたび挟まる。その他にも解けない謎がいくつかある。なぜ、少女の左手の中指に、包帯が巻かれていたのか。少女の母親らしき女性が外国人だが、少女からはそのような節は感じられない。夢の中と現実の境のような、よくわからない世界が続く。
しかし、このよくわからない世界は、ある一瞬で現実に引き戻される。それは、映像を観ている学生の後ろ姿が映るシーンである。ここで、ハッとさせられる。映像を観ている人を観ているのである。これが先ほど書いた、フィクションの中のフィクションのような構造と重なる。なんとも不思議な、気持ち悪い感覚に陥る。そして、上映が終わった後のシーン。教授がまず感想を伝える。「難しそうで、エロティシズムを感じた。」と。結局、このエロティシズムとは、単に服を脱ぎ捨てた女性の水着姿であり、それ以上でもそれ以下でもない。非常に薄い感想で、フランス映画を見た、多くの人が抱く感想と重なる。きっとこのような感想が、脚本家の女性のスランプに拍車をかけたのだろう。
対して、後半部は実にわかりやすく、日本の大衆映画のような作りになっている。上映中に、何度も客席から笑い声が聞こえてきた。それが何よりの証拠である。前半部を夢の中のような世界とするならば、後半部は、現実の世界と言えるだろう。
私が、この映画の最も重要だと思った点に、コントラストがある。それは様々に形態を変えて現れる。わかりやすいところで言えば、前半部と後半部のコントラストである。夏と冬。海と山。夢の中と現実。フランス映画と日本映画。そしてこのコントラストは、脚本家の女性の心理描写や心、気持ちの変化を如実に表現しており、実に効果的である。前半部は、夢の中のような、ぼんやりとした世界。雲に覆われ、どんよりとした空。台風や大雨。このような描写から、自分を見失い、スランプに陥っていた女性を、表しているのではないだろうか。対して後半部は、常に一面の銀世界。そして、女性は常に黒い服を身にまとう。黒い服単体では、悲観的に考えてしまうかもしれないが、白と黒はコントラストの中でも最上級である。旅を通じて、自分を再び見つけ、脚本に向き合う女性を、表しているのではないだろうか。このように、いくつものコントラストが様々な方向に絡みあって、映画を形作っている。
この映画で最も評価できる点は、とっつきづらいフランス映画を、その体裁を保ちつつ、日本映画と組み合わせることで、とっつきやすいものにした事である。相対すものを並べることによって、単体では感じ取ることの難しい空気感や雰囲気といった、より、その本質に近い、深い部分について感じ取りやすくなる。この技法は後にも先にもこの映画だけなのかもしれない。
ちょっと不思議な現実的非日常
観終わった後、直ぐに湯治の旅に出たくなった。
特別心を動かされることもなく、淡々と流れる映像を眺めていた、という鑑賞体験だったが突然、湯治に行きたいなどという妙な欲求が出てきたのは、随分この映画に感化されたというか、癒やされた(癒やされたい)のだと思った。
スタンダードサイズで撮られたこの映像からは、観客の視点を縦方向に向け、手前と奥という意識を強める効果が感じられた。人間の普通の視野は横に広がっているものだ。最初は違和感があったが、自然とスクリーンに集中することができたし、撮られた画も、遠近、奥行きというものを意識していたように感じられた。
それから、音。夏の島の風、波、雨という自然の音。冬山の「しん」とした降雪の音。かんじきを履いて雪を踏みしめる音。そういう自然がつくる音がしっかり聞こえるように、変に脚色せずに録音されているように感じた。
「ケイコ 目を澄ませて」でも三宅監督は音を巧みに使って映画の雰囲気や登場人物の心象風景を表しているように感じたが、この作品にもそれが感じられた。
河合優実の佇まいはなんとも言えない雰囲気があって、一歩一歩揺れるように海辺へ近づく足取りから、渚の心の中で渦巻くモヤモヤした感情、ゴツゴツした岩場や暗いコンクリートの排水溝を慎重に足を運んで海へ近づいていく様に、一種の危うさを感じた。台詞なし、顔の表情の変化なしでも何か伝わってくるものがあった。
冬の李(シム・ウンギョン)の佇まいも、趣がある。帽子を被り、ロングコートにマフラーをした姿は凜々しいのだけど、どこか頼りなささが漂う。金田一耕助のように見えた。
彼女の旅は、観光地を巡る物見遊山の旅ではない。宿も決めず、何となく雪国へ行き、あてどもなく、なんとなく歩く。心を解放しようという意思と時間が無いとできない、ある種贅沢な旅だと思った。
べん造(堤真一)との会話がほっこりしていて少し可笑しい。
個人的には、李が寝転びながらふっと漏らした「さようですか」という台詞がナチュラルさとユーモアを併せ持つキャラクターが表現されていて気に入った。この台詞はアドリブだったという。彼女本来の持ち味と現場の空気がシンクロして出た言葉なのだろう。
べん造は、現実世界から断絶された世界で生きる仙人のような存在かと思ったら、夜の雪道の向こうに街の明かりや車のヘッドライトが見え、さらには警察官がやってきて病院に連れて行くなど、ちゃんと現実世界で生きているということが示される。
非日常だけども現実的である。
ちょっと癖のある登場人物たちが醸し出す雰囲気とちょっと不思議な会話が、空間を非日常的にしているように思われる。そしてそこに何か得体のしれない癒やしがある。この空間に入っていって、しばらくたゆたっていたいような気分になる。
あとからジワジワ効いてくる不思議な映画だった。
期待せず、どのような映画なのか
ある程度、細かいことは気にせずに観ました。直前に、爆弾を観たので、よりのんびりとした空間にいる感じでした😀
日々の日常での言葉等から解放される緩やかな時間(旅)も必要ってことなのかな。その旅でのちょっとした出来事で、少しでも前向きな気持ちでいつもの日々に戻ることが出来る。焦らなくて良いゆっくりで良い、そんなことを感じました😀
テンポが緩やかだったので、色々考えながら観れました。
河合優実さん、高田万作さんの前半も、シム・ウンギョンさん、堤真一さんの後半も良かった😎
たまには何も考えずふらっと旅をしたいなあと思った。ただ海をみるだけとか、ただ旅館に泊まって近くの景色を見るだけとか笑笑
期待大きくて…追記
三宅唱監督、前2作が共に年間ベスト級にめちゃめちゃ良かったので期待値が上がりすぎてました。河合優実でつげ義春の「海辺の叙景」が映像化されたのはもちろん物凄く喜ばしいことなんだが、所詮劇中劇の位置付けで、これ、独立した短編として仕上げて欲しかったな。とにかくそれを囲む本筋側に乗り切れなかったので仕方がない。もしかしたらドルビーシネマ仕様かと思うほど暗い画面に、話す内容の高度さにマッチしないシムウンギョンの日本語(簡単な言い回しに変えても映画の質は落ちないよ。小栗旬のドラマに出てくるハンヒョジュが上手くて要求レベルが上がってます。)後半うとうとしてしまい、ミンティアが欠かせなかった。残念。
追記
マイナスの補足。「海辺の叙景」が4点なんだが入れ子構造にしてしまったことで後半の一要素として捉えるべき(李が出来ていないと思い込んでしまった要因)とするとそこすら2点に引きずられてしまうのだオイラの頭。
よかったです。
映画と関係なくて申し訳ないのですが、シム・ウンギョンさん、今話題の伊東市田久保元市長にしか見えませんでした。
暗闇を抜けたら、暗闇は電車のトンネルで線路沿いに雪に埋もれた墓(人の生活)が続く。
いいですね。
自分には高尚でした。。
「ケイコ目を澄ませて」「夜明けのすべて」「新聞記者」は各々お気に入りなのですが、この作品は個人的にピンとこなくて、後半は寝てしまいました。その後週刊文春の映画評見たら、評論家各位から絶賛されており、映画賞も獲得されており、相性なんだなと思いました。前半の河合優美パートは良かったのですが、河合優美がお気に入りだからなのでしょう。
たまには立ち止まり寄り道。
仕事に行き詰まり数日の旅に出る韓国人脚本家・李の話。
旅には出たものの宿泊先の予約は取っておらず、市街地のホテルは満室と断られ、市街地から少し離れる宿を紹介され向かってみるが…。
作風的にはかなり静かめな作品、李脚本家が書いた脚本を映画化し観終わった後の監督と脚本志望と関係者を交えての感想会?質疑応答?での女性脚本家志望の言葉が印象的。
“自分の書いた脚本は思った様に映像化されたか?”って質問、これって何にでも言える事だと思うけれど、思った様に映像化されてないと思う脚本家、こういうイメージで撮りたかったけど撮れなかったと思う監督さんって必ずしもいると思う。
この部分ってやはり経験知ですよね、こう撮ったらこう見えた、こう撮ったらこう見えるとか。…少し静かめな作品だけど味はあったし、泊まった宿先では共犯にされるし寝れないしで少し笑えて。
作品内の作品に出てきた渚演じた河合優実の画力、濡れた姿も魅力的で印象的だった。
可笑しみがじわる、美しく静かな作品
久々に満員に近い入りで、単館系映画を観る。シャンテシネの背の低い椅子は、周りの観客の挙動が視界に入るのだった。最初はいちいち目についたが、途中から集中できて気にならなくなる。自分が慣れたのか、俳優さんの演技の力か、物語の力か。
つげ原作ということで、難解かもと覚悟して鑑賞したが、シュールな表現はなくただ淡々と具現化された映像。
冬のパートはセリフをかみしめると、いろいろ想像が広がる。
「いっぺ、お客さま来てもらえる」 宿の主人は世捨て人ではないのか。経済的に潤いたい気持ちはあるのね。でも他力本願か。
「背、伸びたか?」 まあまあ頻繁に顔は合わせてるのね。ということは、ちょいちょいこの家に来てるの?
「お庭」 元妻。元夫とはだいぶ離れた環境にいるセリフ。
「すごい熱」 本当に? 本当なら警察が病院に連れて行ってくれる関係性って近いね。本当じゃないなら、やんわりと署に連行する口実か?
などと想像しつつの89分。
【"失意から再生する漂泊の旅。”今作は人生に迷う在日韓国人脚本家が、鄙びた海辺での若き男女の出会いを映画化するも失意を感じ、その後鄙びた冬の庄内を旅する中で仄かな未来の灯を見つける作品である。】
ー エンドロールで、今作はつげ義春の短編旅漫画「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を構成したと流れる。
特に、後半の在日韓国人脚本家、李(シム・ウンギョン)が山形の庄内地方の鄙びた宿に泊まり、心をゆっくりと再生していくパートは、良かったモノである。
私が、3年間庄内平野で過ごした事も関係しているかもしれないが・・。-
■「海辺の叙景」を原作にした脚本を書いた李は、映画を学ぶ学生たちに試写会でその映画を見せた後に、質疑応答で感想を問われ”私には才能が無いと思いました・・。”と寂し気な表情で口にする。
その授業を担当した魚沼教授(佐野史郎)が急逝し、彼の双子の弟(佐野史郎:二役)から形見でカメラを貰う。
彼女はそれを持ち、雪深い庄内(と思われる。劇中で宿の主人べんぞう(堤真一)が喋る言葉が、庄内弁ソックリだからである。だが、場所は東北の何処かで良い。)に出向き、予約なしで行ったため次々に宿泊を断られ、漸く到着したのが屋根に雪がこんもりと降り積もったオンボロ宿だったのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・前半の「海辺の叙景」を原作にした、真夏の海辺を舞台にした若き女性(河合優実)と若き男(高田万作)の出会いを描いたパートは、李が失意を感じたようにやや単調である。
だが、セパレートの水着を身に着けて、台風が近づく海を泳ぐ若き女性を演じる河合優実の憂いある存在感は、抜群である。男を演じた高田の虚無感を漂わせる様も個人的には好きである。
・そして、魚沼教授の死を挟み、物語は李自身が雪ぶかき東北の庄内地方を旅する後半に繋がれるのである。
・李が屋根に雪がこんもりと降り積もったオンボロ宿に、漸く夜に到着するシーンでハイアングルで映し出されるシーンは少し驚く。つげ義春が描いた”ほんやら洞”にソックリだからである。
そして、李とべんさんが交わす会話が良いのだなあ。
べんさん:”アンタは何をしている人?”
李:”一応、脚本家です・・。”
べんさん:”じゃ、おらいを描いたらいいべや。”(おらい=おらの家と言う意味の庄内弁)
・そして、李はオンボロのべんさんの家の中を眺めて”貴方は、一人住まい何ですか?”と聞くのである。あちこちに、一人住まいで無かった形跡があるからである。そして、徐々に彼の妻子が少し前に大きな家の主の家に移った事が分かるのである。
それ故にか、二人はお互いに似た境遇にある事を感じたのか分からないが、ちょっとした冒険に出るのである。李は一応反対するが・・。
・それは、べんさんの別れた妻の家で飼っている数百万はするという錦鯉を盗む事である。べんさんはそこで幼い息子と出会い、口止めをし、コッソリと池から一匹錦鯉を頂戴し、木の桶に入れて持ち帰るのだが、余りの寒さに錦鯉が入った水は氷になっているのである。序でに李は大切なカメラを忘れて来るのである。
そして、その錦鯉を囲炉裏で焼いて食べようとする李。彼女は言うのである。”数百万する鯉の味はどうですかね。”
ー このシーンにはユーモアがある。場内から少し笑い声が上がる。李の表情もどこかリラックスしているようである。-
・そして、警察が来る訳だが、幼い息子は言いつけを守っていて、熱があったべんぞうはパトロールカーに乗せてもらうのである。
一人、宿に残された李は、翌朝に布団を畳み掃除をして、足首まで積もる雪の中をツボ足で、よたよたと歩いて行くのだが、その姿は来る時と違い、何処か楽し気なのである。
<今作は人生に迷う在日韓国人脚本家が、鄙びた海辺での若き男女の出会いを映画化するも失意を感じ、その後に、鄙びた冬の庄内を旅する中で仄かな未来の灯を見つける作品なのである。そして、個人的にとても風合の良い作品だとも思った作品でもある。>
全45件中、21~40件目を表示











