「シリーズ一番のクオリティ」岸辺露伴は動かない 懺悔室 sow_miyaさんの映画レビュー(感想・評価)
シリーズ一番のクオリティ
どの場面を切り取っても絵になるヴェネツィアの風景。そこに岸辺露伴が佇むだけで世界が出来上がる。シリーズ中、今作が一番予算がかかっているだろうけれど、作り物では生み出せない説得力があって、作品としてのクオリティは間違いなくシリーズ一番だと思う。
ヘヴンズドアのポーズやペン入れの切れ味などの露伴の様式美に加え、負の感情から生ずるドロドロに足を取られている人々を、持ち前の天然さで軽々と飛び越えていく泉の存在。そして、明暗、色、ピントなどのコントラストをハッキリさせたローアングルの画面づくり等々、このシリーズのよさが、今作でもしっかり表現されている。
ゲスト出演者達も、それぞれ世界観にピッタリとハマり、心地よい。
それに、原作の設定に、オペラ「リゴレット」のストーリーを入れ込んでまとめ上げた脚本がお見事。
前作は「わざわざ映画でなくても…」と思ってしまうところが正直あったが、これは劇場で観た方がいい作品。
<ここからは、内容にも関わる部分について>
舞台挨拶のまとめで、高橋一生は「誤りながら正していくのが人間」といった表現をしていたが、ストーリーの主軸となる「誤り」の部分をヘヴンズドアで紐解いていく露伴に対して、天性の純真さ故に、人として誤らない「正しさ」を示す泉という対比が、自分がこのシリーズに惹かれる理由の一つだなぁと改めて思った。
今作でもそこが明確に示されていた。
前作で言えば「黒い絵を見ると襲われる事態」にあたる「その人自身の消化(昇華)できていない過ちへの後悔やトラウマ」、つまり「誤り」の部分が、今作では「日頃から受けていた仕打ちを、浮浪者(戸次重幸)という弱者にあたることで晴らそうとした大東駿介」や「浮浪者からの呪いを整形で逃れようとして、更に呪いをかけられた井浦新」で表現されている。
中でも「最愛の娘」だったはずが、彼女が亡くなった(ように見えた)ことで、「助かった」と言いながら立ち去る男の自分勝手さ。本来は、彼が感じている呪い(後悔やトラウマから生じる恐怖感)は、彼自身の中にあった良心から生まれてきたはずなのに、いつの間にか死への恐怖だけにすり替わってしまっていくところが哀れだし、根源的な後悔に向き合えない限りは呪いは続くという暗示が切ない。
それに対して、玉城ティナ演じる娘と彼のカップルは、「今日が最高に幸せだとは言い切れない。だって、明日はもっと最高になるかもしれないから」と、視点を変えた「正しさ」で前を向いていく。
その軽やかさや爽やかさは、未来あるからこその眼差しかもしれないけれど、とてもまぶしく、愛おしい。
最後に、ラストシーンからエンドロールまで流れる映像が本当に美しく、現地で、それをずっと眺めるためだけに、ヴェネツィアに訪れたくなるくらいだった。