「可愛い動物が出てくるからといって、優しい映画だと思ったら大間違いだ。」ズートピア2 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
可愛い動物が出てくるからといって、優しい映画だと思ったら大間違いだ。
ディズニー映画というのは、だいたい安心して見られる。勧善懲悪で、最後は丸く収まり、子どもも大人も「いい話だったね」で席を立てる。少なくとも、そう期待して映画館に足を運ぶ人が大半だろう。ところが、ズートピア2は、そういう顔をしながら、なかなかに厄介なことをやっている。これは「多様性を学ぼう」という映画ではない。むしろ、「多様性という言葉で、何を見ないことにしてきたのか」を、こちらに突きつけてくる作品だ。
■ 多様性は入口であって、出口ではない
表向きのテーマは分かりやすい。哺乳類同士のバディが、お互いの違いを尊重しながら協力する。価値観が違っても、正しさが食い違っても、それでも一緒に仕事はできる。これは現代社会にとって、非常に「正しい」物語だ。企業研修に使ってもいいくらいだろう。だが、映画はその横で、別の話をしている。
・歴史が改竄され
・冤罪が作られ
・先住民が追い出され
・土地が奪われ
・奪った側が「最初からそうだった」と言い張る
ここまで来ると、「多様性」という言葉では収まらない。これは収奪と返還の話である。
■ 差別的だったのではなく、「いなくても成立した」
一部では、ズートピアは爬虫類にとって差別的な都市だった、という見方がある。しかし、それはやや雑だ。ズートピアは、爬虫類が住めない都市ではない。段差があるわけでも、制度的に締め出されているわけでもない。いわゆるバリアフリーの問題は、ほとんど描かれていない。むしろ問題は逆だ。爬虫類がいなくても、都市が普通に回ってしまった。これが本作の一番怖いところだ。
・排除しなくてもいい。
・嫌わなくてもいい。
・存在を「なかったこと」にしてしまえば、社会は成立する。
これは、差別よりも一段階、冷たい。
■ 和解は感情ではなく、是正の結果として起きる
終盤、爬虫類と哺乳類は抱き合う。いかにもディズニー的な、分かりやすいハッピーエンドだ。だが、この和解は「分かり合えたから」起きたのではない。
・歴史が訂正され
・功績が返され
・土地が返還され
・加害が公式に認められた
その後に、ようやく感情が追いついただけだ。正義が先で、和解は後。この順番を崩さなかったことが、本作の最大の誠実さだろう。
■ パウバートという、救われない若者
この映画で最も後味が悪いのは、パウバートという人物だ。名門一家に生まれ、無能の烙印を押され、家族の中に居場所がない。それでも彼は、家族に認められたいと願い続けた。彼は悪人ではない。だが、加害に加担した。本作は、彼を救済しない。なぜか。それは、「かわいそうだったから仕方ない」という論理を、この映画が拒否したからだ。居場所をくれる共同体が、正しいとは限らない。むしろ危険なのは、「居させてくれるから」という理由で、間違った側に立つことだ。パウバートは、その現実を引き受けさせられた存在である。
■ 共存は、実はかなり限定的だ
さらにやっかいなのは、この世界の「共存」が普遍ではない点だ。魚や虫は存在するが、市民ではない。普通に食われている。つまりズートピアは、すべての生命を平等に扱う理想都市ではない。どこかで、文明としての線が引かれている。その線がどこにあるのか、映画は説明しない。だからこそ、不気味だ。
■ まとめ:これは優しい顔をした、かなり現実的な映画だ
『ズートピア2』は、
・多様性映画として見れば安全
・歴史の映画として見れば、相当厄介
という二重構造を持っている。
可愛い動物の話だと思って油断すると、いつの間にか「あなたなら、どこに属ぶか」「誰の側に立つか」と問われている。
この映画は、優しい。しかし、甘くはない。だからこそ、観終わったあとに少し居心地が悪い人ほど、たぶん、この作品を正しく受け取っている。
——そんな映画である。
共感ありがとうございました。
時代的には同化できない移民は排斥される風潮ですが、本来なら「みんな違ってみんないい」のが社会の健全なあり方ですね。
まあ、「道徳心」を共有するのが前提でなくては、ですが。
勢いとユーモラスな動きで強引にハッピーエンドと大団円に持って行っていますが、一歩引いて俯瞰すると「ズートピアとディストピアは紙一重」という感じもします。
あと、あのような結末ではパウバートもアナ雪のハンス同様に「貝になりたい」状態であり、手放しで喜べずにいます。
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