果てしなきスカーレットのレビュー・感想・評価
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世間の評価は高くないようですが・・・
私はこういう作品が好きです。
愛とは、許すとは、人とは、生きるとは・・・。
終わってみれば狭い世界観の中で、答えのない普遍的な問いかけが続いていく。
細田監督の中に答はあるのでしょうが、説教臭くも説明臭くもありません。
観ている私たちが自分をどう見つめるかということなんだと思います。
物語の展開に派手さは感じませんが、映像も音楽も良かったです。
ただ、声優陣に声だけで誰か分かる俳優さんが多くて、顔が浮かんでしまいます。
特にスカーレットは似てないのに芦田さんの顔が浮かんでしまって、
演技自体は上手だと思うのですが、まぁ仕方ないと思いながら観てました。
個人的にはここしばらく見た中でで1番の駄作
芦田愛菜さん
重い、けれど味がある作品
代表作「時かけ」から19年、「時かけ」を上回る尊い「時空を超えた愛...
代表作「時かけ」から19年、「時かけ」を上回る尊い「時空を超えた愛」が描かれ、細田守の愛の形がアップデートされていると感じました。
一方作品の世界を一歩出てみればそばかす姫のUの世界のように言葉を刃物が飛び交います。果てスカファンは弾圧され考察もままならない。
再生数稼ぎのためか脚本家やプロデューサーなど当人たちが何も言ってないのに被害者にしたてあげ正義を偽装しとことん叩きのめす。
敵なんていないのに。自分で判断出来ない状況
戦争が近いのだと思いました。
整合性が取れている作品なんてありません。受け取る人次第です。あなたの人生は整合性とれてますか?
千昭が見たがっていた絵はスカーレットの世界の絵のような気がしてきました
以下は過去作との強引な共通点、妄想メモです。
◆時をかける少女との共通点
渋谷
キャッチコピー
時:待ってられない 未来がある。
果:必ず、あなたにたどり着く
千昭のセリフ「川が地面を流れていること」
叔母のセリフ「何百年も前の大戦争と飢饉の時代」「世界が終わろうとしていたとき」
千昭のオレンジ色の髪
千昭→未来で会えるからキスを我慢
スカーレット→未来で会えないからキスを我慢しなかった?
エンディングと挿入歌が対比関係?
ガーネット(赤)
叔母:「魔女おばさん」と呼ばれる 実写版で弓道部、右手に傷
津田 功介 医者の息子.ボランティア部
◆そばかす姫の共通点
キャラデザ、花のモチーフ衣装デザインが同じスタッフ
異世界の描写が3D
親との死別
歌で人や異世界とコネクトする
傷ついた龍(竜)
水が記憶や感情のターニングポイント
嘔吐シーン
空を飛ぶ大きい存在(クジラ、竜)
◆未来のミライとの共通点
ミライちゃん.右手にアザ、スカーレット.右手にキズ
ミライちゃんが初めて家に入る時の父のセリフ「さあ着きましたよ、お姫様」
犬のユッコ、中世風の服に赤いスカーフ
ミライちゃんのセーラー服の赤いスカーフ
ミライの水には魚 スカーレットの水には魚なし(大地にサンゴ)
大きい存在:時のインデックスの木、駅、電車
番外:くんちゃんが鼻くそをほじってる
◆その他
渋谷の街「バケモノの子」
時空を超えた物語「時をかける少女」「未来のミライ」
異空間での異文化交流「バケモノの子」「デジモン」「ルイヴィトンPV」
これこそ私達人間の永遠のテーマ
鑑賞して少し不要かなと思える場面はあったもののレビューでの酷評程でもなく、映像も音も音楽も凄く良くて、これまでの細田監督の作品とは違った深いテーマと映像に冒頭から圧倒され、これから始まるスカーレットの残酷な運命を恐れて早くも泣いてしまいました😭
細田監督のインタビューやメイキングも事前に観ていたので、何故聖が看護師でなければならなかったのか、何故歌を歌ったり踊ったりする場面を作ったのか等…場面1つ1つにも意味合いがあって、細田監督の意図とするその思想や熱量、祈りさえ感じられて、更に芦田愛菜ちゃんの様々な声の表現力も凄かったので後半にもまた泣いてしまって😢💖
劇中歌『祝祭のうた』は一度聴くと耳から離れなくなる程リズム感があって好きですが、芦田愛菜ちゃんが歌うエンディングテーマ『果てしなき』は、映画の最後に更なる感動を添えてくれる素晴らしい曲と歌声で、満足感で心が満たされました✨
私達は日々起こる出来事の中で、些細なことから大きな決断をしなければならない時でさえ、何かしらの自問自答を繰り返しながら生きています。映画のテーマとなる“復讐”に隠されたもの、これこそ私達人間の永遠のテーマだと思いました💞
この映画を鑑賞して本当に良かったです!✨
最後に、長い年月を経て様々な挑戦をして映画を作って下さった細田監督やこの映画に関わって下さった皆様に感謝の意を🙏💖
あんな残酷な運命を生きながらもスカーレットの穏やかな笑顔が見られたのが一番印象的で、私は心から嬉しかったです🍀
人の根源を見つめ、考えることができる映画
●映画【果てしなきスカーレット】を観た
※ネタバレ無し感想
この映画の感想を簡単に表現するならば、人の根源を見つめ考えることができる映画
人は争いをやめないのではなく、やめられない
そんな負のスパイラルに陥ってしまう
ただ、争いと同じように、平和も願い、楽しみ笑うことも大事にしている
それは地獄であっても変わらない
スカーレットは、そんな相反するような状況の中で、憎しみと復讐に駆られて邁進しようとするけれど、そうじゃない自分の可能性をジワジワと感じていく
人はどこか、(自分はこうなのだ)という価値観の枠組みをつくって、その中に自身を入れ固めてしまうことはないだろうか?
社会もどこか、こんなものだ、難しいね、しょうがないなど、争いがある現状を無意識に肯定している状況は、ないだろうか?
考え方や捉え方次第で、いくらでも自分や世界は変わっていく可能性があるのに
この映画では、地獄といわれる、あの世とこの世と時間軸が混在してる世界観だからこそ、見えてくるものがある
混在している世界は、すなわち争いを繰り返す苦難な過去がある現在を投影しており、また、その現在も争い苦難を強いられている人たちが未だ数多に在る世界
そんな、遥か彼方から持つ人類の課題を、敢えてジワジワと描き、伝え、感じさせてくれる映画だと思った
結果、何も変わらないかもしれない
だけれども、変わるかもしれない可能性に目を向けよう、と
そう、心に響いた映画でした
評判ほど悪くないんじゃないですか。
残念だった。期待値が高すぎたかも。
そういえば竜とそばかすの姫もみたけど微妙だったんだよな。記憶に残っていなかった。
細田守=時をかける少女、サマーウォーズのイメージで期待してしまった。
たぶん私が求めていたのは
日常と非日常の絶妙なバランスで、
日常を支える人の描写や、青空がきれいとか、澄んだ空気感を感じられる日常の風景のきれいさとかがあって、絶妙に非日常に展開していって非日常の要素を含めつつの恋心の日常の遠回しな表現とかもあって。
幼少期に感じた自然の感じとか、夏の匂いとかを感じながら青春の淡い心も思い出しつつちょっと複雑な大人な人生的なテーマも感じられるみたいな。そんなのを期待していたんだ。
全然違った。
ハムレットとか、ダンテの神曲を意識しているとか、世界市場を意識しているとかいろいろあるのかもしれないけど、物語は至極単純だったし。メッセージもこすりにこすられているテーマだと思ってしまった。非日常が淡々と続いていく。もうなんかマーベルシリーズ見ているみたいだった。マーベルはマーベルにまかせてほしい。
感情輸入の度合いもマーベルくらい。戦いの爽快さがあるからまあ見れるみたいな構図。映像美があるからちょっと見れるみたいな感じ。それくらい。
昔の細田さん戻ってきてよー。
死後の世界を信じないジジイなので
ちぐはぐな作品
細田守の最新作だがいろいろと苦戦している作品。どんなものかと興味本位で鑑賞したが、言われているほど酷くはなかった。作品に込められたテーマは感じるし、それなりに感動的なシーンもある。だが、人に勧められるかというとそこまでではない。
この作品、そこかしこでうまく噛み合っていない箇所が目立つ。
復讐が物語の主軸のため、結末が「復讐の成否」と始めから決まるタイプの作品だが、最初から最後までが一直線の作りになっており、代わり映えのない殺伐とした世界観と相まって、単調で淡々とした印象を与える。
ストーリーの進行に伴って随所でイベントが挟まれるが、それもかなりシンプルなものだ。このイベントが後のあのシーンへの伏線になるんだろうなあとか、このシーンをきっかけにあのキャラクターの心情に変化が生まれるんだろうなあとか、そういうのがすぐわかる。
これが細田監督が得意とする青春ものやファミリーものであればそれでいいと思うのだが、本作は終始暗く重い空気が漂う作風で、尺も2時間近くある大作だ。なので、こういった一直線のストーリーにシンプルなイベントだと、作りが浅いというかダイジェスト版を見せられているような気分になる。
また、本作は公開時よりテレビで大々的な宣伝が行われ、非常に多くの館数で上映されるなど、売れっ子監督の最新作として大変な期待を背負って登場した。しかし、ダークでシリアスなストーリーは万人受けするものではなく、これまでの明るい細田作品を期待していた観客には受け入れがたいものとなったのではないか。
製作の日テレとしては、ポスト宮崎駿の一人として細田氏をプッシュしたいのだろうが、今回はそのプロデュースの仕方ではミスマッチである。本作のポスターは公開時より2回ほど変わっており、徐々に明るい雰囲気のものへと変更されているのだが、それも少しでも親しみやすくなるようにというテコ入れのように感じられた。
本作は、シェイクスピアのハムレットを下敷きとして、16世紀のデンマークが舞台となっているが、ストーリーのきっかけはコロナ禍における不安定な社会情勢だったそうだ。争い、生と死、生きる意味など、普遍的だが難しいテーマを扱ったものの、うまく消化できないまま完成を迎えたという印象である。作中で随所に主人公スカーレットの慟哭が挿入されるが、それは苦悩する細田監督自身の叫びであるように思えた。
なぜか日本語を喋る外人達
「ハムレット=舞台演劇」としての『果てしなきスカーレット』
ようやく『果てしなきスカーレット』を観ることができた。
地元のシネコンでの上映は、朝8時台と16時台の1日2回のみ。土曜朝の回を選んだが、観客は15〜16人ほどで、想像していたよりは多かった。子ども連れは2組ほどで、全体としては年配の観客が目立つ。
【作品を見て】
鑑賞して強く感じたのは、「これは一般受けしない映画だ」という確信だった。
公開以降、SNSやYouTubeでは酷評が相次いでいるが、その反応は決して的外れではない。むしろ、なぜここまで拒否反応が起きているのかは、実際に観ればよく分かる。
細田守監督の作品は、近作に至るまで、説明不足な設定や不用意なセリフ回し、物語上の綻びが散見され、「細田病」とも呼べる癖を持つことがネットで指摘されている。今作もその文脈で見れば、過去作への批判を意に介さず、同じ弱点を抱えたまま進んでいるように見える。むしろ症状はさらに悪化していると感じる人がいても不思議ではない。
そうした失望が怒りへと転化し、炎上という形を取っているのだろう。
ただし今回に限って言えば、その「病状」は無自覚なものではなく、ある意味で確信犯的なのではないか、という印象を受けた。
【舞台演劇やオペラ・楽劇の様式】
ネット上では「舞台演劇を観ているようだ」という指摘が多く見られるが、これはかなり正鵠を射ているように思う。特に、キャラクターを真正面から捉える画角が多用されており、まるで舞台上の俳優を見つめているかのようだ。セリフ回しにも、演劇的な調子が色濃く漂っている。私見としては、単なる演劇というよりも、オペラや、ワーグナーの楽劇などに近い感触かもしれない。
どういうことか?
古典的な舞台演劇、とりわけ古典劇では、舞台空間や舞台装置の制約から、「これはこういう意味である」という前提を観客に受け入れてもらう暗黙の了解が数多く存在する。観客はすでに物語を知っている、あるいはその様式を理解している前提なため、細かな状況説明や設定の補足は省略される。
オペラや楽劇ではそれがさらに徹底されている。台本も音楽も完全に固定されており、新たな説明を途中で差し込む余地はない。近年では、舞台設定を現代などに置き換えることで解釈の更新が試みられているが、その結果、何の説明もなしにスーツにネクタイ姿の人物や、宇宙服を着た演者が現れ、神々を讃える前時代的な歌を高らかに歌い上げるといった、意図的にシュールな光景が生まれる。しかし各場面の役割や意味を観客が共有し受け入れるため、それは破綻ではなく「演出」として成立する(ブーイングの嵐になることも頻繁にあるが…)。
『果てしなきスカーレット』もまた、細かな設定や状況を逐一説明するのではなく、「そういうものとして受け入れてもらう」ことを前提に作られているように思える。
物語の中では、登場人物の行動や配置、出来事の因果関係について、観客に十分な説明が与えられない場面が繰り返し現れる。例えば、毒が回ってスカーレットが倒れ込む場面では、彼女が顔を上げた瞬間、直前まで存在していなかった王妃たちがクローディアスの背後に整然と立っている。彼女たちがいつ、どこから現れたのかについての説明は一切ない。
また物語終盤では、山の上という限定された空間に、唐突に敵味方の人物が登場するが、その移動経路や時間的経過は描写されない。さらに、最後の見果てぬ場所の場面でも、スカーレットや聖は、いつの間にか大勢の登場人物たちに見つめられている。
あの竜は何者なのか。あの老婆は誰なのか。死者の国と天国・地獄との関係はどうなっているのか。細部を問い始めれば、疑問は尽きない。
これらの「演出」は、映画的リアリズムの観点から見れば、説明不足、あるいは構成上の瑕疵として批判されてしかるべきものだ。しかし本作においては、その省略そのものが表現の前提になっているように見える。出来事の連続性や因果関係を理解させることよりも、「人物の配置が示す関係性やドラマ」や、「その場面が象徴する意味」を、観客に直感的に読み取ってもらおうとしているのではないか。
【本作の実験性】
本作は、こうした舞台的とも言える手法を、アニメーション映画の中に実験的に持ち込んだ作品なのではないだろうか。
細田監督自身が「新しい表現手法を追求した」と語っていた記憶があるが、その言葉通り、映像表現は非常に意欲的だ。2Dと3Dのハイブリッド、悍ましいほどに残酷な死者の世界の荒涼、実写と見紛う背景美術、脱水で唇がひび割れ、泥で汚れたヒロインの顔、揺れる瞳、震える唇。
絵による演出には、執念すら感じられる。
そしてその実験精神は、ストーリーテリングにも及んでいて、舞台的、戯曲的な物語進行を、映画というメディアで成立させようとしたのではないか。
今作は「ハムレット」をベースにしていると監督自身が語っているが、それは復讐譚というテーマ以上に、「戯曲演劇的」な演出を採用するという意味合いが大きいのではないか。つまり『果てしなきスカーレット』は、文字通り「舞台演劇」として構想された作品なのかもしれない。実際、声優を務めた俳優陣の顔ぶれを見れば、どこかの劇場で上演される『ハムレット』だと言われても違和感はない。
【(アニメ)映画で成り立つのか?】
しかし問題は、それがそもそも映画として成立するのか、という点にある。映画とは、本来、舞台演劇の制約を取り払うために発明された表現手法なのだからだ。
しかも本作は新作のドラマであり、古典劇のように前提や情報を共有しない観客に向けて、映画館という場で提示された。初見の観客に対して何の断りもなく「察してもらう」ことを求めたなら、物語が理解不能な断片として受け取られるのは、ある意味で必然だったと言える。
【何が問題か】
実際に舞台的手法を取り入れたかどうかはさておき、少なくとも物語構成が特殊であり、そこに意図があったことは明らかだろう。その手法自体を失敗と断じてしまえば身も蓋もないので、それ以外の要因に目を向けると、問題は「どのように売られたか」にあったのではないか。
本作は、従来のファミリー向け大衆映画という文脈で観られると、構造的に破綻する。実際、それは既に興行成績として表れている。一方で本作は、アートワークとしての側面が極めて強く、本来はそのような文脈で提示されるべき作品だったのではないだろうか。
それにもかかわらず、旧態依然とした広告手法が選択され、従来と同列の「細田ブランド映画」として宣伝された。
結果として『果てしなきスカーレット』は、「間違った客層」に届けられ、「理解されないこと」を運命づけられた作品になってしまったのではないか。
【総論】
渋谷で踊る、心象の中のスカーレットを見て、死者の国に立つ彼女は何を思ったのか。
「不殺」を訴え続けてきた聖は、なぜ人を殺し得たのか。
溶岩が流れる山肌を登りながら歌われる歌が、震え、今にも泣きだしそうに聞こえたのは、スカーレットがどのような心情に置かれていたからなのか。
なぜ彼女はクローディアスを許したのか。そして最後に現れる老婆が投げかけた問いに、果たして答えは存在するのだろうか。
これらはいずれも、作品の中で明確に回収される問いではない。それを、物語進行の多くの部分を「そういうモノ」と受け入れた上で、観客一人ひとりが、自身の感受性と解釈によって問いを受け止め、それぞれの着地点を見つけることを要求される。
こうして列挙するだけでも、「私には無理」「よそでやってほしい」と感じる観客が大多数かもしれない。本作は「そういうのが好きな人」向けの作品で、もっと小さな規模で上映された方が幸せな作品だったような気がする。
現在はどこの映画館でも、小さめのシアターで日に2~3回の上映だが、この公開規模こそが、『果てしなきスカーレット』という作品にとっての「適正値」だったのかもしれない。
細田氏版「君たちはどう生きるか」かな?
...と見えました
作者の心象風景をのせたファンタジー(空想世界の叙事詩)という意味で。
物理法則や整合性がそもそも存在しない"夢物語"なので、話の辻つまとかはこの際、最重要課題ではないハズ
ただ、(勝手に引っ張り出してきて比較するのも失礼だとは認めながらも) 宮崎駿氏作品が、自身の原体験をベースにした物語であるためメッセージに"リアリティ"があるのに対し、本作は世の中一般(例えばハムレット然り)で語られているモノをなぞっただけ、という印象は拭えない
前者は観た者に「自分はどう考えるのか」を問うが、後者は監督が「こう考える」を押しつけるに留まる。その結果、『だからどうした!』『知らんがな!』『〇〇が気に入らん!』などと酷評が噴出、というのが構図だと理解しました
最初から「復讐の連鎖は断ち切られるべき」という"結論"があって、それが最初から匂わされて、何のヒネリも嬉しい驚きもなく、延々とそこへ向かう飛び飛びのお話し (「死者の国」という架空世界だから現実世界との整合性も十分ではない) を聞かされるだけなので、話しがツマラナイのだ思います
途中、シェークスピア的会話劇、戦闘、戦争、ミュージカル、ファンタジー...色々な要素のシーンが盛り込まれて盛り沢山なのがいいところなんですが、それらが上手く繋がって相乗効果を出してくれていない印象も...
あと、これも想像に過ぎませんが、シナリオは殆ど監督一人によって作られていて、第三者の(本当の)意見が殆ど反映されていないんじゃないですかね。
そのためにキャラクターの連続性のない不自然な行動やセリフが目立ってしまうのでは?
個々の"描きたい"シーンが最初に決まっていて、それらを繋げるために各キャラクターのその場の行動やセリフがある、という風に見えます
(宮崎氏を引き合いに出したついでにいえば) この辺が、新海氏の作品とも違う点かと。
ほぼ一人でストーリーを細部にわたって作っているのに、それが最初から高いクオリティで整合している。そのような稀有な才能はそうそうあるものではないので、映画シナリオは優秀なチームで作られる必要があり、その究極が良くも悪くもディズニー映画だと思います
最初に世界や場面、キャラクターの設定がしっかりと決まっていて、それらが勝手に動いていった結果、見事な物語が出来上がる(少なくともそう見える)、というのが理想だと思います。残念ながら、この映画はその理想からはずいぶん離れてしまったように感じました
ただ、作画や映像や演技はとても素晴らしい。これだけで、この映画を映画館で見る価値が十分にあります。
この点だけでも、私はこの映画が好きだと言えます 。少なくともこの観点で、私が細田ファンであるのは間違いありません
(個人的に絵柄やキャラデザインが好み、というのはあります。しかし、個人的に、これはアニメ作品を観る上でもっと重要な要素と信じて疑いません)
どのシーンをとっても、スカーレットは常に美しく魅力的です。また、「死者の国」世界観はとても見事に映像化されています。
これらの点だけでも、どんなに大げさに表現しても、この映画が"駄作"だということにはなりません
(これは、個人的に前作(竜とそばかす...)にも共通する美点と言えます)
ただ、モーションキャプチャーとデジタル技術によって作られたと思われるダンスシーンはいただけませんね。(特に複数の人が踊っているシーン)
とてもスムーズに動いているのですが、リアルに動くことが逆に不自然さがを醸し出してしまう。人間の動きやリズム感って、もっと不揃いでノイズのあるものだと思います
絵になった人物の動きがスムーズすぎると、ロボット感(取ってつけた感)が勝ってしまい残念です。
動物の体って確かに関節と骨でできているんだけど、現実世界の生き物は完全に左右対称ではないし、必ず細かい動きのクセがあります。恐らく点と点を線で結んで数値化してしまうと、これが表現しきれないのではないでしょうか。さらにこれを複製して並べると、そのロボット感が増幅されそうです (例えばアンドロイドの軍隊ならそれで構わないんですが)
この解決には、まだまだ技術革新が必要そうですね
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