果てしなきスカーレットのレビュー・感想・評価
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細田守版『ハムレット』
本作は細田守版『ハムレット』です。
観る前にシェイクスピア『ハムレット』の内容を予習しておく事をおすすめします。
その上で、とても良い作品だと感じました。
テーマは「復讐」「生と死」「愛」。
ストーリーは概ね『ハムレット』です。
違いは「救いがある」こと。
主人公のスカーレットが生と死の狭間「地獄」のような世界で復讐を目指すも様々な出会いや対話を通して人間として成長し、未来に繋げていくという話。
主人公・スカーレットの不器用さと無念、叫び上げたくなる魂を芦田愛菜がどストレートに表現していて引き込まれました。
ディズニー映画のような後味と、映像としても臨場感に溢れていて見応えがありました。
「生きる」とはどういう事なのか、
「今を生きている自分」は何をどうやって「生きていくべき」なのか。
そもそも「生きる事」は「無念」の連続。
どんなに努力をしたとしても報われない事が多い。
タイパ・コスパの世の中では泥臭く生きる事を避け、手っ取り早く「正解」を手にしたくなる。
それは解る。
解るんだけど、味気なく感じてしまう日々に心が付いていかない。
この作品を観て、改めて立ち止まり、不恰好だけど泥に塗れてでも、我武者羅に魂の思うままに生きてみよう、愛を叫ぼう、そう思えました。
良い作品と出会わせてくれてありがとう。
世間の評価は高くないようですが・・・
私はこういう作品が好きです。
愛とは、許すとは、人とは、生きるとは・・・。
終わってみれば狭い世界観の中で、答えのない普遍的な問いかけが続いていく。
細田監督の中に答はあるのでしょうが、説教臭くも説明臭くもありません。
観ている私たちが自分をどう見つめるかということなんだと思います。
物語の展開に派手さは感じませんが、映像も音楽も良かったです。
ただ、声優陣に声だけで誰か分かる俳優さんが多くて、顔が浮かんでしまいます。
特にスカーレットは似てないのに芦田さんの顔が浮かんでしまって、
演技自体は上手だと思うのですが、まぁ仕方ないと思いながら観てました。
試練と成長の物語・・時をかけ続ける少女
この作品はネタバレ事前情報が充実していて、結構、酷評にも頷けるところが多々あって、自分なりにチェックポイント(後述)を設けて観に行きましたが、全く予想外に、1)バランスが取れている、2) ディテールがしっかりしている、3) メッセージ性も分かりにくくはない、等、よかったので、マイ基準で⭐︎5に。時かけに⭐︎5をつけるとして、果てスカに⭐︎5はあり得ないと思っていましたが、喩えるとテイストの違うアバターもタイタニックも⭐︎5でいいかという感覚。
結論として、テーマについての鑑賞/視聴後の印象と解釈は、漫画/アニメの「進撃の巨人」に近いです。ざっくりと進撃が、ヒロインが愛し過ぎるという呪縛から大きな試練を通じて解放されていく物語だとすると、果てスカは、ヒロインが憎み過ぎるという呪縛から同じく大きな試練を通じて解放されていく物語なのだろう、と。「解呪」のキーワードが進撃だと「忘れろ」、果てスカだと「赦せ」かな。
・・・
視聴前に設けた自分のチェックポイントがまずは「時間配分」。上映時間110分強から逆算すると、4パート構成での起承転結、それと各パートでの起承転結。定石的な起承転結が崩れてしまうとそれだけでも分かりにくくなるので。結論としては時間配分のバランスが取れていて、例えばそろそろ転換部という時間帯でシーンや話がぶっ飛んでもさほど違和感はない、と。
同じく宮廷パートと神曲パートの時間配分は、それぞれ約20分、約90分なので、作品全体の解釈としては、神曲パートを意識すると分かりやすいだろうと思いました。
・・・
以上が総論で以下は賛否両論の各論。(相互理解のため論点については最大公約数的に、Ciatrのネタバレ・考察を参照しています)
1) 父王の「赦せ」意味は?
復讐に囚われて自分を見失うな、ということでいいと思います。(逆に、スカーレットの意識が高まれば世界に平和がもたらされる、憎しみの連鎖が断てるというイージーな解決ではない。)
2) 聖の違和感、行動に一貫性がない? 聖の存在理由は?
聖は登場後しばらくスカーレットにも周りにも変人扱いされているので、違和感が無かったです(笑
後半、殺さないから殺すへと聖が豹変する行動については、聖が敵を射殺す直前に数秒、ためらう描写があり、そこに被せるように謎の老婆(霊媒師?)が命令口調で「お前の使命を忘れるな」(訂正:お前の存在理由は何だ)と背中を押している。
神曲では主人公のダンテを天上に導く役回りの2人の人物が登場するけれど、果てスカでは老婆と聖がそれを担っていて、聖の最優先の「ミッション」がスカーレットを導き生かすということであれば、殺さないという聖自身の信条は大切であっても二の次・・行動は一貫しているという捉え方になってきます。
原作ハムレットの重要キャラであるはずのホレイショとオフィーリアを果てスカでは欠いていて、それで果たして劇作が成り立つのかという疑問を持っていましたが、神曲のキャラ2人で欠員2人を補完する構成なのだろうと。神曲の原題が「聖なる戯曲」なので、聖は神曲側のかなり理想化されているキャラということで間違いないと思います。
3) 問題の音楽シーンの意味は?
(解釈1)音楽/踊りを通じて、時代や場所が違っても、人々が心を通い合わせることができる。
(解釈2=マイ解釈)試練をクリアしていくと、天上の音楽として神の声が聴こえてくる。
解釈1だと、1960年代〜1970年代初頭の「ニューエイジ・ムーブメント」を想起させてしまう。チープあるいは、分からなくないけどバージョンアップなしに敢えてそれを繰り返す必然性を欠く・・視聴前の懸念点。
時間順序、因果関係として、内面の変化が先か? 音楽が先か? のチェック。
最初のキャラバンでの踊り/フラダンスのシーン。傷だらけのおじさん(訂正:キャラバンの長老)にスカーレットがコーヒーを薦められ、数秒ためらってから口にする。警戒心・猜疑心に凝り固まっていてしかも毒殺されているスカーレットだから避けるのが自然。ためらいながら口にするという些細なシーンはスカーレットの心境の大きな変化。漸進的な内面の変化(神曲では浄化のプロセス)が先行していれば、音楽シーンへの飛躍は唐突ではなく必然ということに。
理屈の上では、音楽=数=言葉=神の顕現というフォーミュラを念頭に置くと分かりやすく思えますが、そうしたことを抜きにして、神曲パートは暗く重いので、音楽パートがあると息抜きになるというか、喩えると映画「U ・ボート」で海中戦闘シーンの後、束の間の海面浮上でホッとするような感覚。
4) ドラゴンの正体は?
(解釈1)デウス・エクス・マキナ? 古代ギリシャの演劇だと好まれたパターン、時代が変わって今だと「ご都合主義」の代名詞。
(解釈2=マイ解釈)単純に天上への門の守り手。(神のようでもあるけれど、門を守るというミッションを与えられている荒ぶる守護天使。)同時にスカーレットの決断を見届ける試験官。
天上への門にたどり着くには大罪の浄化が要るから、スカーレットはともかくクローディアスがそこにたどり着けているのはなぜ? と思っていましたが、クローディアスとの対峙を試練と捉えると、クローディアスは試練として存在していることが許されていて、スカーレットが試練をクリアするとお役御免で自動消滅。
5) ラストの宮廷シーン、スカーレットのメッセージの意味は?
(解釈1)赦す/許すことで憎しみの連鎖を断ち切り平和な世界を共に築きましょう。(十分条件)
(解釈2=マイ解釈)それぞれが世の中をよくしていきたいと思えれば、すぐにはそうできなくともそうなっていくだろうと願いたい。(十分条件でなく必要条件)
個人の力だけではどうにもならなくても個人の力なしではどうにもならないだろうというマイ解釈。
時を跳んで修正してしまうセカイ系解決から、漸進的な努力/営為を繋いでいく必要があるということで「果てしなく」、レビュータイトルを「時をかけ続ける少女」に。
ps
1) 試練と成長の物語として捉える上で、設定として分かりにくさがあります。神曲は分かりにくいので、モーツァルトの「魔笛」のあらすじが参考になりそう。それでもとっつきにくい場合には、比較的馴染みのあるヘラクレスの英雄譚。
2) ヘラクレスは「愛」の力によって、「龍が守る黄金の実のなる木」すら昇りますが、最終的に愛が転じて「嫉妬」により、復讐と毒殺、狂気によって身を滅ぼします。←シェークスピア喜劇「恋の骨折り損」。愛があればよしということではないですね。
3) 全くの蛇足ですが、ループ量子重力理論のカルロ・ロヴェッリが「ブラックホールは白くなる」@2025/02で、ダンテの神曲の世界構造を取り上げています。現代の宇宙論の有効なアナロジーとして。(あの世を含むこの世と神の世、それぞれの世界の「果てしなき境界」を貼り合わせると宇宙全体。)
主人公は聖
巷で大不評&酷評の果てスカ観てきました
全体の印象として絵は綺麗だけど可もなく不可もなく・・
描かれているのは死後の行き場のない魂がさまよう魑魅魍魎の世界
ここに辻褄を求めてもしかたないなっという感想でしたが・・
しかし
見終わった後、何だか引っかかるものがあってフト気が付いたのです
この映画の世界って看護師・聖の死亡直後の残留思念が作った妄想じゃないのか?
実はこの死後世界もスカーレットも聖の魂の妄想の産物
だから観客には脈略の無いキャラと辻褄も合わない世界観も実は歴史好きの聖の生み出した妄想世界、そして21世紀の渋谷を知るのは聖のみ
通り魔に刺殺されて意識が消えつつ最後に自らの理想(お花畑思考)をデンマークのスカーレットという有り得ない自作王女キャラに投影して自己満足の走馬灯を作って死んでいったのかと
最初にスカーレットの前に現れた影も実は聖の怨念
そう考えるとナカナカの怪作かも^^
集中治療室につながれた何者か
物語は、必要以上に説明されない構成だと感じた。単に情報を省いているというより、復讐者の視野狭窄に近い目線で描写されているからではないかと思う。いつもの細田作品と比べると、語り手役の老婆を加えるなど、一見すると説明が増えているようにも見える。しかし、肝心なところは結局よく分からない。たとえば、国王が死ぬ間際に何を言ったのか。
「許せ」と言ったのだろうとは想像できるが、印象に残るような形では描かれない。普通の映画であれば、処刑直前に娘に向かって腹の底から叫ぶ場面が、観客の記憶に残るようにインサートされ強調されるはずだ。この映画は、それをしていない。
聖が人助けに熱心な理由も、セリフでさらっと話す場面はあったけど、涙を誘うような回想シーンはない。子どもの頃に目の前で親友を事故で失ったとか、そういうありがちなエピソードはなかった。
感情や関係性は、台詞ではなく、沈黙や視線といった「間」によって伝えられているように感じた。セリフで説明されない時間、沈黙や視線の積み重ねが、この物語の重さを支えているように感じた。タイトルにある「果てしなき」については、正直まだよく理解できていない。ただ、この点は「死者の国」における時間の感覚と切り離せないように思う。
未来の渋谷の街が出てくる場面が二度ある。どちらにも、一瞬だけ集中治療室のカットが挟まれる。最初は、その意味が分からなかった。明るく平和そうに見える未来と、生命が危うくつながれている場所が、なぜ同時に提示されるのか。
渋谷の街で踊る二人の姿を見たというスカーレット。「それは俺じゃないよ」と笑う聖。幸せそうに踊るスカーレットの髪は短い。スカーレットは、見たことのない自分を見たのだと思う。ただ、それが復讐をためらわせるような、分かりやすい転換点にはなっていない。
キャラバンを襲った盗賊を、さらに強い盗賊が襲い、そしてその盗賊をドラゴンが気まぐれに打ち砕く。情け容赦のない天変地異が人々を焼き、打ち倒す。天国のような美しい高みへ登っていった先にも、復讐の対象がいる。どこまで行っても救いはない。
父は死ぬ間際、娘に何かを言った。それを、処刑人がたまたま聞いていた。はっきり聞こえたわけではない。それでも何かを感じ取り、自分たちは剣を振り下ろせなかったという。この曖昧さが、この映画の誠実さなのだと思う。
「赦しの物語」と評するレビューを見かけることがあるが(このサイトのことではなくネット記事などの)、そうではない。スカーレットは仇を許していない。ただ、復讐することをやめただけだ。納得はしていないし、悔しさは消えていない。
「生きたいと言ってくれ!」という叫びは、感動を誘うための言葉ではなく、追い詰められた当事者の切実さとして響いた。聖は数秒ほどで消滅してしまう前に、必死にバトンを渡した。強引に受け取らせた。
平和で華やかに見える未来にも、復讐の連鎖があることを知る。だから、スカーレットはひとつだけ決意する。うまくいくかどうかは分からない。それでも、自分には責任があると考えて、できることをやるしかないのだと思う。何百年か先の未来につながると信じて。
タイトルに「果てしなき」とあるが、実際の出来事は数時間程度の話に見える。にもかかわらず、何度も日が昇り、沈んでいる。それは現実の時間ではなく、「死者の国」における時間の流れとして描かれているからだ。その感覚を受け取れないと、この作品の面白さはかなり削がれてしまう気がする。
ところどころの美しい風景は、実写ではないかと感じる瞬間があった。映画館を出たあと、自分は夢でも見ていたのではないか、という感覚が残った。見たことがある風景のようにも感じたからだ。
音楽の使い方もとても良い。大事な場面で音楽が前に出てきて説明することがない。観る側が考え、感じる余白を奪わない、ちょうどいい距離感だった。
『竜とそばかすの姫』のときにも感じたことだが、兄弟を虐待していた父親は、はっきりと悪い存在として描かれていた。細田作品は、薄っぺらい勧善懲悪を描く人ではなかったはずだと思っていたが、今回の作品で少し腑に落ちた。追い詰められている当事者に寄り添うとき、きれいごとは言えない。何を言っても「上から目線」に聞こえてしまうからだ。
この作品には、「クローディアスも本当は後悔している」といった描写が一切ない。「悪役にも人生がある」という、日本映画ではよく見られる視点もない。それでも、クローディアスは「どうせ最後に殺されるだけの存在」にはなっていない。役所広司の存在感も大きい。
一方で、聖はきれいごとを言って何度も殺されそうになる。スカーレットから「バカかおまえは?」と怒鳴られる。その感覚はとても正直だ。復讐者の目から見れば、聖の言葉は能天気に映る。
聖の人生についても、映画は詳しく描かない。「聖の言うことも分かる」と観客に思わせるための説教的な描写はない。集中治療室につながれていたのは聖だった。未来ある若者が、理不尽な事件に巻き込まれたという事実だけが、控えめに示される。そこで感動させすぎると、作品の狙いがぶれてしまう。復讐者にとっては「バカじゃないのか」としか思えないのだから。
父や聖の優しさに心を動かされる場面は確かにある。ただし、その描写には微妙な距離が保たれている。世の中には、誰からも優しくされたことがない人もいる。それは復讐に向かう十分な理由になりうるし、この映画はその視点も切り捨てていない。
ちょうど元首相銃撃事件の判決があった日でもあり、池袋の暴走事故など、いくつかの現実の事件を思い出した。犯人がいかにも凶悪な人物であれば、第三者としては分かりやすい。しかし、当事者ではないからそう思えるだけだ。「許せない」という感情は、単純にエンタメ化してはいけない。
胸がすくようなエンターテインメントではない。でも、こんな映画があってもいい。見てよかったと思える作品だった。
クソ映画好きならオススメ
SNSでクソ映画だのスカスカーレッドだのと言われまくっていたので、自分の目で真実を確かめるために鑑賞。
結論としては、まあ酷いもんでした。
ハムレットを知っているような知識人でないと楽しめない的な評価が散見されますが、ハムレット知っていても粗が目立ちすぎてそれ以前の話で楽しめない(クソ映画好きなら終始それはねーだろとツッコミ入れられるので楽しいけど)。
一応、ハムレットとの対比を意識してんのかなーと気付いてニヤリと出来る部分はあったものの、それはあくまで枝葉。根っこというか幹がダメなので作品評価には影響しないと思う。
正直映像作品として支離が滅裂というか、開始数分から「それはねーだろ」「そうはならんだろ」ってツッコミながら観てた。(普通に声に出てたけど劇場内に自分以外誰もいなかったから許してほしい)
細かい部分にツッコミ入れるとキリがないので個人的に重要だと思った部分だけ記載。
・物語の起こりは非常に良い。
父を殺された復讐という導入はシンプルでわかりやすい。死者の国を旅する中で父の遺した言葉を解釈し、最終的に復讐と許しどちらを選択するのか?という重厚なテーマは個人的に好き。
・世界観と設定は良いが、それを完全に持て余している。
全ての死した者が訪れるという死者の国の設定も良い。過去、現在、未来あらゆる時間軸が交わり同時に存在するというのも面白い。
……が、残念なことにこの設定を完全に持て余している。
書きようによってはアクション面、物語面両方で面白くなる設定なのに全く活かせていない。
死者の国のビジュアルは荒野と砂漠、朽ちた遺跡で構成されており、古代~近代、未来っぽい風景は全く登場しない。せっかく時間軸が混じり合う設定を用意したのなら、様々な時代旅するように作ったほうが絶対面白いだろうに。
また、登場人物はほとんど父の仇であるクローディアスの配下。つまりほぼ同一の時代から訪れた人物ばかりで、さらに身内ばかりなので広がりがまったくない。
この「時間軸が混じり合う」というのはおそらく監督が聖という現代人一人を参戦させたいがために敷いた設定なのだろう。実際、完全に異なる時代からの登場人物は聖以外に存在しない。(ちょっと離れた時代、国の人間っぽいのはちらほら居るがパッと見でわからない)
「スカーレットが死亡した後、クローディアスは未来でクーデターを起こされて暗殺された。そして死者の国でクローディアスとスカーレットが再び相対する」みたいな話にすればまだ良かったのに、クローディアスはあろうことかスカーレットが死亡した直後、毒を誤飲して死亡していましたというなんともアホらしい理由で死んでいる。
じゃあもうこの設定要らんでしょ。
・あまりにも意味不明な謎ドラゴン
死者の国には地表に雷を落とす巨大な龍が空を飛んでいる。以上。
…本当にこんな感じ。映画を最後まで観ても、定期的に現れてはスカーレットと敵対する相手に雷を落としてスカーレットを助けるドラゴン以上の描写がない。一切説明されないため、本当に何だコイツとしか思えない。
最終的には仇であるクローディアスもこのサンダードラゴンが始末するため、最後まで「主人公の勝利」というカタルシスが得られない。
描写から読み解くに、この龍は死者の国を回遊する上位者的存在で、死者の国において一定のルール(のようなもの。カルマとかそんな感じ?)を破ったものに対し制裁を加える的な役割があるのだろう。多分。
とはいえ、説明どころか登場人物の誰一人彼の龍に対して言及しないので自然災害以上の役割がなく、にも関わらずスカーレットがピンチのときにだけ現れるためご都合主義感が凄い。
・クローディアス及びその一味の存在が意味不明。
主人公スカーレットの宿敵であり、父王アムレットの弟。
物語冒頭でアムレットを謀殺し、王座を乗っ取る。
復讐に燃えるスカーレットを返り討ちにした直後、他者に盛るための毒を誤飲して死亡。
スカーレットとほぼ同時に死者の国に訪れたにも関わらず、死者の国で巨大な城や壁を築き、自身のように「見果てぬ場所」を目指す人々を妨害していた。
まあ死者の国は時間軸の概念が無いらしいのでいつの間にそんなもん用意したんだとか言うのは野暮かもしれない。(時間の概念が無いのに昼夜はあるのかよと突っ込みたくなるが)
クローディアスは死者の国で最も高い山の頂きにあるという「見果てぬ場所」に辿り着くことを目指している。しかし、見果てぬ場所には王妃ガートルードと共に向かいたいと考えており、いまだ死者の国に留まっている。
…それはわかるのだが、そもそもなんでクローディアスは人々が「見果てぬ場所」に辿り着くのを妨害していたのだろう。
物語中には「見果てぬ場所」に人数制限があるような描写は無く、わざわざ軍を興し、壁を築き、人々のヘイトを集めてまで進路を塞ぐ必要性は皆無だ。一体何がしたいのだろう?嫌がらせか?
また、死者の国には現世におけるクローディアスの部下が全員集合しているが、そもそも彼らは何故死んだのだろう。
前述した通り、クローディアスの死因は毒の誤飲であり、ラストの描写的に死亡してからおそらく数時間~数日といったところだろう。
にも関わらず死者の国には部下が全員集合している。コイツらは全員揃って毒を誤飲したのだろうか?
クーデターを起こされてまとめて暗殺あるいは処刑されたというならわかるが、あまりにも意味がわからずクローディアスの死因が判明した直後「はぁ?」と声が出てしまった。
・聖の行動に一貫性がなさすぎる。
死者の国に訪れたスカーレットが出会う「現代日本人」の青年。
看護師(描写としては救急救命士っぽいけど)のため、他者を害することに忌避感を持っている。
現実が見えておらず敵の前に丸腰で飛び出して争いを止めようとする。
無論スカーレットとは相容れず、事ある毎に衝突することになる。
…のだが、キャラの掘り下げが全く無いため終始「なんだコイツ?」感しかない。
死が当たり前の世界で死を忌避するような理想を追い求める甘ちゃんキャラかと思ったが、にしては主張が弱すぎる。
唯一の掘り下げは、彼が看護師になろうと思ったきっかけを語るシーンくらいだろうか。
「ボロ雑巾のようになって働く看護師を見て、自分もなろうと思った」とのこと。
なんだそりゃ。
また、個人的に全く理解が出来なかったのが終盤、クローディアスの築いた壁を民衆?が打ち壊してクローディアスの軍隊とぶつかるシーン。
クローディアス配下の兵士に襲われた聖が、自身が現世で通り魔に刺されて死んだという事を自覚する。
…そして、その直後あっさりと人を殺す。襲ってきた兵士達を矢で以て殺害するのだ。
確かに武器を持つ兵士に襲われたのだから当たり前のことだろう。別に殺した事そのものを責めるつもりはない。
しかし、それを行ったのが今まで散々生命の大切さを説き、人を殺すなと主張していた聖である。
こういう甘ちゃんキャラは自身の主張を最後まで貫いてこそ初めて成立するのだ。
死が当たり前の世界でそれでも尚自身の良心に従い死を忌避し、それを貫くからこそ他者との対比となりキャラに深みが出る。自身の身に危険が迫ったからと人を殺すならもうそのへんのモブキャラと変わらないだろう。
ちなみに、聖がこの殺人に対して葛藤する様子は皆無であり、この後一切思い返すことはない。
この時点でこの物語に聖が登場した意味はゼロになったと思う。聖が今後何を言おうとその台詞はひたすら空虚だ。
仮にスカーレットの生き方である復讐が云々とか殺しが云々とか講釈垂れようと、「でもお前普通に人殺したじゃん」で終わってしまう。
思わず「マジで薄っぺらいなコイツ」と呟いてしまうくらいには好感度がゼロになった。
せめて剣を構えた兵士の腕を射抜いて止めた後で兵士を治療するといった描写であれば一本筋通ってるなと思えるのに何なんだこれ。
・そもそも聖要らない説
そもそもの話、主人公であるスカーレットがこの後見せる葛藤、もっと言えばクローディアスに対して許しを与えるという展開についても、きっかけとなったのは父王であるアムレットが今際に残した「許せ」という言葉である。
つまり、極端に言えば聖がスカーレットに対して与えた影響は物語に何ら影響を与えないのだ。
もっと言えば、聖がいなくともこの「果てしなきスカーレット」という物語は成立してしまう。
取って付けたような恋愛描写のために存在するようなキャラで、スカーレットの根幹にある再起と許し、争いのない世界を作りたいという目的は全て最初から父王アムレットに与えられていたと思う。
聖が事ある毎に主張し、自身の手で無に帰した「生命を大切に」というメッセージすら元々アムレット王が主張していた事の焼き直しである。(そもそもこの世界に訪れた時点で全員死んでいるため、他人からすればひたすら何言ってんだコイツとしか思われない)
おそらく、聖の出番をそのまま削り取ってもスカーレットの辿る道程や結末は何一つ変わらない。
いまだかつて存在そのものが不要なメインキャラクターなどいただろうか?
正直ビックリだ。
・後半の盛り上がりがない。
後半、スカーレットはクローディアスを追って見果てぬ場所に繋がる門の前に辿り着く。
そこまでに唐突に山が噴火して民衆が溶岩に飲み込まれたり、山の頂に辿り着いたスカーレットたちを(なぜか)待ち構えていたクローディアス側近との最終決戦があったり、(どうやってか知らないが)追いかけてきた元クローディアスの側近二人がピンチに陥ったスカーレットを助けたり、聖が兵士二人を殺した際に傷を負っていたりとなんか色々ある。
…のだが、全く盛り上がらないのでもはやどうでもいいまである。
盛り上がるような描写もBGMもなく、聖とスカーレットの実質最終決戦は元クローディアスの部下(裏切り者)の参戦で終わる。
最終的に何故かスカーレット一人で見果てぬ場所へ繋がる門の前に辿り着く。なんで聖は付いてこないのか。マジで何なんコイツとしか思わなかった。
・最終決戦がクソ
仇(ラスボス)であるクローディアスとの直接対決という燃えるシーンのはずなのに終始グダグダで全く華がない。
ハムレットを意識しているのであろうクローディアスの懺悔やハムレットとの対比を意識しているのであろう父の亡霊との再会等盛り上がれそうなシーンはある。…のだが、いちいちテンポが悪くてノリきれなかった。
いや、それは正直どうでもいい。問題なのは決着である。
最後まで自身を曲げないクローディアス。スカーレットは果たしてどのような決断を下すのか?という最高に盛り上がるであろうシーンで再び現れたサンダードラゴン。
剣を掲げたクローディアスに雷を落とし、クローディアスは死にたくないとスカーレットに縋り付きながら消えていった。
…なんだそれ。
スカーレットが許したにも関わらず、クローディアスがそれを受け入れず最終的に死亡という展開にするならトドメは聖が刺すべきだろう。
最終的に蚊帳の外なら聖の存在はいよいよなんなんだ?
というか最終決戦の場に存在すらしないなら最初から登場する意味が無い。
ちなみに、最終的にスカーレットは毒を飲んだ後仮死状態で生きているとのことで見果てぬ場所へ辿り着く事無く現世へ帰還する。
門の先には何があるのか?見果てぬ場所はどんなものなのか?の描写は一切無い。
せめてクローディアス達が何を求めて戦っていたのかくらいは知りたかった。
・総括
この映画は最初から最後まで意味不明。
CGは綺麗だし戦闘描写も悪くない。世界観も良かったし面白くなる要素はいくらでもあるのにそれら全てを途中でゴミ箱に放り込んだみたいな感じ。
展開が破綻してるとかそういうレベルじゃなくて物語として成立していない。
単純に物語作品として面白くない。
……とまあ、映画好きには全くおすすめできない作品。
だけどクソ映画好きには是非とも観てほしい。
笑えるレベルで「それはねーだろ」が散りばめられてて最後まで退屈はしないと思う。
世の中の評価がオカシイ!
先日見てきた。
もともと気になっていた作品だ。
しかし前評判からよろしくない。
ん?どういうことだ?と思っていた。
しかもここのレビューで、プロが満足度や
完成度が高くないと平気で言ってしまっている。
何が起きているのだ?
監督に対してアンチの誰かが
ネガキャンでも張ってるのか?
そんな感覚の中、見に行った。
結果、面白かった!
いや、なかなか上等な作品だと思う。
なんでこんな評価になってるか分からん!
ちゃんと最後は泣ける展開だしね!
人それぞれだが、世界観を飲み込むのに
少し時間がいる。
この世とあの世の間にもう1つ世界があって、
死んだ人はまずそこに行き着く。
登場人物も戸惑うが、見ている観客も戸惑う。
単にそれだけなのにね〜
スカーレットがどうなるのか、
ご自身の目で確かめてみては?
素直に見れば、少なくとも映画料金分の
感動があると思う。
個人的にはここしばらく見た中でで1番の駄作
予告編の印象よりよかった
今までの細田作品とはテイストが異なるアートワークだったので注目していました。
しかし予告編を見て驚愕(悪い意味で)。急に足が遠のいてしまいました。
興行が芳しくないと聞き、どこか引っ掛かるものがありサービスディに鑑賞しました。
鑑賞前はなぜ声優を使わないんだと批判的な思いを持っていたのですが、芦田さんも岡田さんも予告編の印象より遥かに良い演技でしたし、皆さん素晴らしかったと思う。こんな声が出せるのかと驚きがありました。見応えのあるシーンも沢山ありました。
予告編の「どうしても復讐を~」「スカーレット 生きろ。」のセリフの部分は一番しんどそうな部分、棒読みに聞こえる部分に思えました。予告編を作った人はなぜあの部分を使ったのか、なぜあのような構成にしたのか? 宣伝として魅力的なシーン、惹きの強いシーンを凝縮する必要があると思うのですが…
最後まで見た感想としては、「隣人を愛せよ」というシンプル且つ強いメッセージを寓話的な手法で表現したかったのかなという印象です。
しかし設定や感情、テーマをセリフにして説明してしまう、言わなくてもよいセリフが散見され、監督が書く脚本の弱さが際立っており、感情移入を妨げる部分が多かったと思います。
映像や演技から観客が感じ取る能力を監督は信用していない。そんな風に感じました。
名選手名監督ならずとも言いますが、逆もまた然り。原作を自身が書いているのだから、脚本家は不要。という事なのかもしれませんが、監督の主張を咀嚼し映像表現とまた別角度で演技させる脚本家の力を借りた方が良いと率直に感じました。
そしてツッコミどころが色々あるなと。
死後の世界にクローディアスや側近がいる、その時点でもう現実世界では仇敵は死んでいると察せられると思うのですが、現実世界での権力関係もそのまま死後の世界にスライドしているのは意味が分からず違和感がありました。
人権も何もなく、あらゆる時代、人種、性別、年齢の人々が集まる死後の世界で、生前と同じく権力を持ち得ることがあり得るのかと。
そしてそのような世界において人種や国境、時代を超えた人々が混じり合う中で、価値観の相違はスカーレットや聖以外にも個々の人々が持ち得る筈。
今までの価値観の無意味さ、失われた価値観への気付き、現生での権力や富が果たしてどれほどの意味があるのかといった俯瞰の視点、価値観が違う者同士が出会う事で生まれるズレの面白さ。そうしたものが殆ど表現されていないのが残念でした(スカーレットと聖以外には)。死んだことで現生の価値観から解放される筈が、殆どそのまま死後の世界にスライドしてしまっていて生と死が混じり合う世界という舞台が希薄になっていたと思います。
ダンスのシーンは再開発後の渋谷というのはやはり引っ掛かりますね。聖地巡礼とか開発企業とのタイアップなどが透けて見えて、商売根性というか経済効果を狙っている感が出ていて白けますね。
非暴力を徹底していた聖が弓を放つシーンに違和感を抱く人が多いようですが、私はやはり脚本でカバーできる部分だったと思います。
ここで「許せ」と聖が一言発するだけでまるで違うのに。キーワードをなぜ使わないのか不思議でした。
竜の存在もとても都合の良いアイテムとして用いられていて、スカーレットとクローディアスの最後のシーンはどう解釈したらいいのか?疑問が残りました。
スカーレットの臨死体験とすればそれで済んでしまうのかもしれませんが…
ご都合主義なシーンが多かったようにも思いました。
コロナ禍以降の世界の様相は現実がフィクションを超えている部分もあると思います。
人類が対峙する争いや殺し合いの連鎖、富や権力への欲望、あらゆるものを食いつくす人類。そうしたものに楔を打ち込むにはどうしたらいいのか。テーマとしては普遍的な内容だと思います。
しかし変われない人類の最先端にいる我々は現在進行形で度し難い出来事が起き続けている事を知っている。
スカーレットが生きた世界から数百年経っても。
中世世界に戻っていくスカーレットの無力さを突き付けられるような感じがして苦しかったです。
あと最後にスカーレットが聖に何度も言わせられる言葉。
違う意味に聞こえてしまう私は心が汚れているんでしょうね。
監督が好みの女優に思うままのセリフを言わせたい、そんな風に感じてしまいました。そうではないと思いたいですが…
この映画は多くの作品に触れていない青少年が見るべきだろうと思いました。
隣人、身の回りの人を愛すること、信じる事は簡単なようで難しい。
愛されない母へ愛を注ぐことはできるのか?
無償の愛とは。
無償の愛を最後まで体現した聖は虚無化してしまう。
許そうとしたクローディアスは変わらなかった。
スカーレットは死者の無念を代行するということを燃料として生きる事がその全てだった。
自分の生を他者の尊厳の為に費やす事、争いへ転化する事への否定なのか。
そこから解き放たれる事、自分の生を自分の為に全うする事への気付きなのか。
監督が本当に伝えたいことは何だったのか。
すっきりしない、ということは現在の世界の出来事を俯瞰して感じる事と繋がっていて。
細田監督も恐らく答えを出せないのでしょうね。
砂漠の描写や剣と弓、泥臭い肉弾戦中心の中世ファンタジー世界は純粋に良かったです。
モブシーンも大スクリーンならではの迫力で中々見応えがありました。
今後このような世界観の作品が敬遠されることに繋がらないように祈りたいです。
細田守の不器用で愛らしい善意が溢れる作品
退屈ではないが面白さを感じにくい映画である。
最初に細田作品全般について触れると、一貫して脚本に難があると言われ続けている。その脚本が破綻する様子を具体的に考えると、恐らく監督の中に描きたい映像や展開、伝えたいメッセージが先にあり、且つそれが何よりも最優先された結果、それらを繋ぐ過程においてキャラクターの言動や該当シーンに至るまでの進行に無理や強い作為が生じてしまう点にある。
さらに、これまでの細田作品の多くは現代の日本を舞台としており、その作為が私たちが普遍的に身につけている常識や倫理と大きく矛盾してしまう場合も少なくなかった。そのため、違和感がより強調され「脚本が悪い」「キャラクターが悪い」といった評価に繋がっていると思われる。
さて、今回の『果てしなきスカーレット』はそれらとは打って変わり16世紀のデンマーク王国、すなわち『ハムレット』の舞台設定をほぼそのまま導入している。冒頭でスカーレットが死に至るまでのストーリーもそれに倣っており、登場人物の名称も引用され、作中での役割も概ね共通している。
このほか随所に『ハムレット』や『神曲』、あるいは歌劇的演出を想起させる要素は散見されるものの、それらが作品を豊かにしているかと言えば疑問が残る。多くの場合、これらの引用は設定やストーリー、画作りの補強として機能しているにとどまり、ファンが期待したであろう哲学的論考や、本作の主題である「復讐」や「生死」への踏み込んだ考察には必ずしも直結していないように感じられる。
つまるところ、本作はシェイクスピアやダンテを履修していなければ理解できない、といった不親切で高慢な構造の作品では決してないことは強調しておきたい。意味不明さが生じるとすれば、別のものに起因するものだろう。
その要因は、大別すると情報量の多さとその処理方法にあると思われる。
本作の物語は早々に細田守オリジナルの死後の世界へと移行していく。そこは年代や場所、生死を問わずあらゆる生命が死後一様に落とされる荒廃しきった世界だ。
この世界には人類の誕生から有史以来、さらには現代を大きく超えた未来に至るまでありとあらゆる人間が集結するという、極めて壮大な設定が与えられている。しかし、そのスケールはあまりにも広大で、破綻なく成立させること自体が困難なレベルに達している。そのため、作品全体が自ら定めた死後の世界の構造設定に終始苦しめられているような印象を受けた。死後の世界にまつわる設定はあまりにも多く、その複雑さを監督自身も扱いきれず、結果として物語の内容に貢献していないように感じられた。
そこにキャラクターや人間関係といった情報がさらに加わることで、映画内に散りばめられた情報量は殆どパンク状態となっている。これらの情報をすべて等しく丁寧に扱おうとした反動として、ストーリーにおいて本来理解のために必要な時間や描写が省略され、唐突な展開の連続となってしまった。キャラクターの心情の変化もそれに合わせて急激になり、それにより行動原理の一貫性が失われ破綻しているような印象を強く残す。
さらに、引用されている『ハムレット』や『神曲』の文脈も、こうした脚本や設定のほころびに対するエクスキューズとして機能しているに過ぎないように感じられる。これらの点が、本作が低評価を受ける主だった理由ではないだろうか。
映画において、整合性やリアリティが必ずしも最重要視されるべき要素であるとは限らない。しかし、それが観客を魅了する魔法として機能しないのであれば、少なくともこの規模の設定は採用されるべきではなかったように思う。
一方で、本作において概して高く評価されている点は、やはり映像演出である。
確かに技術的な進歩は明確で、CGグラフィックはよりリアルになり、モーションキャプチャーを用いたアクションシーンも重厚さを増し、カメラアングルもより劇的なものになっている。しかし、個人的には、これらの進歩がそのまま作品の品質向上に結びついているとは感じられなかった。
前述の通り、細田守作品は常に評価が分かれるが、演出力、特にワンシーン至上主義とも言える瞬間的なダイナミズムについては、誰しもが称賛する氏の真骨頂だろう。では、技術の進歩によって本作はより強烈なダイナミズムを獲得したのかと問われれば、そこにはやや違和感が残る。
この違和感を説明するために、失礼ながらクリスチャン・ラッセンの絵画を引き合いに出したい。ラッセンのマリンアートは、イルカ、波、樹木などの各モチーフ自体は写実的に描かれている一方で、その配置や光源は極めて非写実的である。
まず画面の印象として、『果てしなきスカーレット』にも、これに近い構成を感じた。背景やモーションには写実性がある一方で、エフェクトや人物表現にはアニメ的な誇張が残っている。そのバランスが、先に挙げたラッセン作品における写実と非写実の関係に近いため、同様の感覚があるのだと思う。
ラッセンの場合、これは生物や自然をより幻想的、かつ理想的に描写するために意図的に選ばれた手法であり、それ自体を批判するつもりはない。しかし、本作で描かれる死後の世界は、幻想や理想とは程遠い荒涼とした場所である。そのような世界観において、幻想性を帯びた写実的描写は、むしろ作品のコンセプトと相反しており、結果としてCGが画面に馴染んでいないように感じられた。写実的描写=リアリズムではない以上、半端にCGをリアルかつ幻想的に寄せることは、かえって作品のテーマを毀損する恐れがあるのではないだろうか。
もっとも、すべてが不首尾に終わっているわけではない。理想郷として描写される「見果てぬ場所」や、スカーレットの心象世界における表現については、目的と技術が的確に噛み合っていたと言える。言ってしまえば、本項で指摘した点も、これまでの細田作品と比較しなければ、実は大きな問題として意識しなかった可能性が高い。この違和感については、私自身の感覚に要因があることも否定できない。
それでもなお、汗や涙、血といった液体表現からは、紛れもなく細田節が感じられた。良い部分はやはり非常に素晴らしく、その演出力が失われていないこともまた事実である。
続いて、件のダンスシーンについては巷で言われているほど意味不明なものではないと感じられた。
確かに、提示されるタイミングの唐突さやダンスそのものの絵面については、評価が分かれる要素であることは否定できない。しかし、あのシーンが挿入された意味、なぜダンスなのか、なぜ舞台が渋谷なのかという点については、一定の解釈が可能であると思う。
まずダンスについて考えたい。細田守は本作において、ダンスを最もプライマルな人類の友好の手段、あるいはその証として位置づけているように見える。
劇中では、スカーレットと聖がキャラバンに招かれ、しばらく行動を共にする。 その過程で聖は、彼らから楽器を教わり、食事を共にするなどして、次第に人々と打ち解けていく。そしてそのコミュニケーションの完成形として、最初のダンスシーンへ移行する。 そのダンスもペルシャ圏(と思しき土地)でアラブ系(と思われる)人種がフラダンスを踊るという、かなり大胆なパッチワークなのだが、それも含めダンスや音楽を媒介として異文化や未知の存在を相互に許容していく、極めて直接的な描写だと言える。
やがてキャラバンと別れ、再びスカーレットと聖の二人きりとなった場面で、聖はスカーレットに未来の歌を披露する。それを耳にした瞬間、スカーレットの意識は遠い未来へと飛躍し、渋谷のスクランブル交差点で聖と並んで踊る自分、恐らくは別の可能性を積み重ねてきた自分を示唆する姿を見る。
このような連鎖で、例のダンスシーンへと繋がって行った。
では、なぜ舞台は渋谷なのか。
渋谷の、とりわけ駅周辺は、ビジネス、娯楽、住環境といった要素が一挙に混在するきわめて雑多な都市空間である。交通のハブとして老若男女、あらゆる国籍や人種が行き交い、同時にカルチャーの発信地として多様な文化が集積している。その様相はまさに「scramble」すなわち混沌そのものだ。
新旧の価値観がせめぎ合い、多様な人間が流動する渋谷という場所は、混沌の現世を概念的に示す場所として、それを可視化するための直喩として引用されたように思われる。
現実においても、文化のある場所には必ず音楽や舞踊が存在し、それらはしばしば儀式的、すなわち祈りの性質を帯びる。劇中のダンスシーンに挿入される「祝祭のうた」の「祝祭」もそういった祭礼を指しているものとして、且つ好意的に取り入れられているように思える。
綺麗も汚いも、良いも悪いも、古いも新しいも、すべてを内包した場所であらゆる人間が一斉に踊るという行為は、ダンスに前述のような解釈を見出すならば、恐らくこれは世界平和を願う細田守の祈りとして読み取れるのではないだろうか。
最後に、本作の核心である「復讐」に対して、どのようなアンサーが提示されたのかについて触れておきたい。
結論から言えば、ここにもやや問題が残るように感じられた。
物語終盤、スカーレットは復讐相手であるクロ―ディアスのもとへ辿り着く。彼女はそこに至るまでの道程で、亡き父の「許せ」という一言の遺言を発端に、自身の決意を揺さぶられ続けてきた。激しい葛藤の末、スカーレットは「赦せ」という言葉が、他者ではなく自分自身に向けられたものであったと悟る。そして彼女は、「クロ―ディアスを許さないが、復讐はしない」という結論に至る。その選択は、最終的に聖のいる未来の世界において、争いの連鎖が起こらぬよう祈りを込めた決断へと繋がっていく。
父の遺言は、自分が処刑されてでもそれがこの国で流れる最後の血であるならば、それを赦せ。という性質のものだったとして、スカーレットはその意志を汲み、クロ―ディアスを討つことを選ばなかった。と解釈した。
ここで注目したいのは、スカーレットの復讐が、二つの側面を持っている点である。ひとつは「父を殺された娘」としての視点。もうひとつは「王女という為政者」としての視点だ。この二重の立場と、今回提示された回答とが噛み合いきらないことが、テーマの理解を阻害している。
例えば、復讐に固執するなという主張は理解できるにしても、クロ―ディアスは相当な暴君として描かれており、決して野放しにしてよい存在ではない。復讐の可否に関わらず排除されるべき思想の持ち主ともいえる。そのため「民を思うならば、むしろ殺すべきではないか」という疑念が生じ、先ほどの結論に対するノイズとして残ってしまう。
さらに、元の時間軸へ帰還したスカーレットは、武力ではなく対話を用い、友好と信頼によって平和を築くことを民に誓う。そして、それが可能かという問いに対し、彼女はできると断言する。しかしこの選択は、作中のスカーレットの地位や境遇だからこそ成立するものであり、現実の私たちには実現可能性を想像しにくい点が問題だ。
「それができるなら、そもそもこんな世界にはなっていない」と、スクリーンの前で感じた観客も多かったのではないだろうか。作中と同じスケールでアンサーを提示するのではなく、もう少し身近な落としどころが用意されていれば、と非常に惜しまれる部分である。
なお、クローディアスは死後の世界においては雷に撃たれ、現世においては自滅的に服毒して命を落とす。結果として、スカーレットの復讐は成就することになるが、ここについても物語上の必然より作為の色が前面に出ており、復讐劇としての緊張感や倫理的問いを弱めてしまっている。
ここまで長々と問題点を挙げながら、本作にそれなりの点数を付けたのは、この映画から、従来の細田作品に見られがちだった社会へのクレームめいた主張や、強引な曲解が感じられず、純粋に平和を願う善意が伝わってきたからだ。正直なところ、温いと言わざるを得ない平和観ではある。しかしそれをいい歳の大人に、ここまで真っ直ぐに提示されると「でも、もしかしたら…」と、わずかに夢を見る気持ちが芽生えてくるのもまた事実である。
厳密な評価点は2.8~2.9としたい。
芦田愛菜さん
重い、けれど味がある作品
酷評が多いので迷っていましたが、タイミングが合ったので観に行きました。
正直、何がそんなに悪いのか、私にはわかりませんでした。
映像が綺麗なのは元より、
ストーリーはわかり易いし、映画が何を伝えようとしているのかもわかります。
娘を持つ親として、王の気持ちは痛いほどわかります。
わかっているけど、なかなかできないことなのですが・・。
死と生と、過去と未来と、時間や空間が入り混じった世界が前提だと、
老婆が何度も言ってくれていました。
これを念頭に置くと、突然の場面転換にも気付けます。
因果応報や、輪廻転生など、哲学的な部分もあります。
ただ、一般市民が反乱を起こす場面は突然過ぎた感があります。
この部分の経緯を、スリリングに、時にはユーモラスに、描ければ
なお、良かったかと思います。時間との兼ね合いがありますが・・。
芦田さんの歌、最高でした。生で聴いてみたくなります。
超良かったんですが💢
💢💢💢まず問題のダンスシーン💢💢💢
話しているだけで、ああ、この人は両親に愛されて育ったんだな、とか、育ちがいいなとかって、いろいろわかることありますよね💢
聖さんはフラダンスも楽器もイマイチ。だって自分の世界のもんじゃないから💢
聖さんが自分の世界の歌を歌った瞬間、スカーレットはわかったわけですよ💢
自分のいる果てしない煉獄とは違う、楽園のような世界で聖は生きてきたんだ…
楽園のような平和な世界があって、復讐者の自分も受け入れてくれるんだ…
聖さんにリードされて知ったわけですよ💢
ついでに、幸せだった子供時代の太鼓BGMも鳴ってましたしね💢
スカーレットの思う文句なく幸せな世界は、マツケ……サンバなんでしょうね💢
果てしなく復讐しかなかったのに、楽園を確信したから、喜びと驚きで総毛立っちゃったんでしょうね💢
スカーレットの感動が衝撃すぎて、アテクシ息止めちゃってましたよ💢
💢💢💢次に、かなり特殊な世界観💢💢💢
現世ばりに広いけど、しっかり閉じてる円環の理、右端まで行ったら左から出てくるゲームみたいな感じですかね💢
星空の上に水底がくっついているから、波うってるのが透けてましたしね💢
縦も横も、ループして閉じてるんでしょうね💢
そこに色々な時代、色々な世界の死者が集まって文化的? というか生き方の数も果てしなく存在する世界なんですかね💢
許して、初めて復讐のループ煉獄世界が終わるんでしょうね💢
💢💢💢3つめに、時をかける少女スカーレットについて💢💢💢
金ローの細田守月間、ラストが最新作でなく、最古の時をかける少女なのなんで? って思っていたら…時かけのセルフオマージュ、というか続き? ぢゃないですか💢
時かけではキスしなかったけど、スカーレットは時かけの続きだからキスしますよね💢
時かけは、未来にきっと行くってことですよね💢
スカーレットは、聖が生きている楽園に「絶対」行くってことですよね💢
どれだけ果てしなくてもそこに行くから、キスの前借り…約束のキスですよね💢
ラストの演説の、過去に死んだ〜と、未来に〜、って部分、両方とも聖さんぢゃないですか💢
エンディング曲の内容も…
聖さんは虚無っちゃったけど、そうならない世界に、楽園にする、果てしなくてもってことですよね💢
💢💢💢言いたいこと多いけど、キリがないのでこれでシメ💢💢💢
聖さんは自分の世界の事実をスカーレットに主張していただけで、反戦〜みたいな説教と、アテクシには思えませんでした。生きるって言えといってたのも、聖さん個人の強烈な願いで、とてもエゴいもんだったんぢゃないかなーーーーー💢
知らんけど💢
めっちょ良かった☺️
アテクシ思い込み激しいんで、おかしなこと言ってても気にしないでねーーーーー💢
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