「「ハムレット=舞台演劇」としての『果てしなきスカーレット』」果てしなきスカーレット ellipt01さんの映画レビュー(感想・評価)
「ハムレット=舞台演劇」としての『果てしなきスカーレット』
ようやく『果てしなきスカーレット』を観ることができた。
地元のシネコンでの上映は、朝8時台と16時台の1日2回のみ。土曜朝の回を選んだが、観客は15〜16人ほどで、想像していたよりは多かった。子ども連れは2組ほどで、全体としては年配の観客が目立つ。
【作品を見て】
鑑賞して強く感じたのは、「これは一般受けしない映画だ」という確信だった。
公開以降、SNSやYouTubeでは酷評が相次いでいるが、その反応は決して的外れではない。むしろ、なぜここまで拒否反応が起きているのかは、実際に観ればよく分かる。
細田守監督の作品は、近作に至るまで、説明不足な設定や不用意なセリフ回し、物語上の綻びが散見され、「細田病」とも呼べる癖を持つことがネットで指摘されている。今作もその文脈で見れば、過去作への批判を意に介さず、同じ弱点を抱えたまま進んでいるように見える。むしろ症状はさらに悪化していると感じる人がいても不思議ではない。
そうした失望が怒りへと転化し、炎上という形を取っているのだろう。
ただし今回に限って言えば、その「病状」は無自覚なものではなく、ある意味で確信犯的なのではないか、という印象を受けた。
【舞台演劇やオペラ・楽劇の様式】
ネット上では「舞台演劇を観ているようだ」という指摘が多く見られるが、これはかなり正鵠を射ているように思う。特に、キャラクターを真正面から捉える画角が多用されており、まるで舞台上の俳優を見つめているかのようだ。セリフ回しにも、演劇的な調子が色濃く漂っている。私見としては、単なる演劇というよりも、オペラや、ワーグナーの楽劇などに近い感触かもしれない。
どういうことか?
古典的な舞台演劇、とりわけ古典劇では、舞台空間や舞台装置の制約から、「これはこういう意味である」という前提を観客に受け入れてもらう暗黙の了解が数多く存在する。観客はすでに物語を知っている、あるいはその様式を理解している前提なため、細かな状況説明や設定の補足は省略される。
オペラや楽劇ではそれがさらに徹底されている。台本も音楽も完全に固定されており、新たな説明を途中で差し込む余地はない。近年では、舞台設定を現代などに置き換えることで解釈の更新が試みられているが、その結果、何の説明もなしにスーツにネクタイ姿の人物や、宇宙服を着た演者が現れ、神々を讃える前時代的な歌を高らかに歌い上げるといった、意図的にシュールな光景が生まれる。しかし各場面の役割や意味を観客が共有し受け入れるため、それは破綻ではなく「演出」として成立する(ブーイングの嵐になることも頻繁にあるが…)。
『果てしなきスカーレット』もまた、細かな設定や状況を逐一説明するのではなく、「そういうものとして受け入れてもらう」ことを前提に作られているように思える。
物語の中では、登場人物の行動や配置、出来事の因果関係について、観客に十分な説明が与えられない場面が繰り返し現れる。例えば、毒が回ってスカーレットが倒れ込む場面では、彼女が顔を上げた瞬間、直前まで存在していなかった王妃たちがクローディアスの背後に整然と立っている。彼女たちがいつ、どこから現れたのかについての説明は一切ない。
また物語終盤では、山の上という限定された空間に、唐突に敵味方の人物が登場するが、その移動経路や時間的経過は描写されない。さらに、最後の見果てぬ場所の場面でも、スカーレットや聖は、いつの間にか大勢の登場人物たちに見つめられている。
あの竜は何者なのか。あの老婆は誰なのか。死者の国と天国・地獄との関係はどうなっているのか。細部を問い始めれば、疑問は尽きない。
これらの「演出」は、映画的リアリズムの観点から見れば、説明不足、あるいは構成上の瑕疵として批判されてしかるべきものだ。しかし本作においては、その省略そのものが表現の前提になっているように見える。出来事の連続性や因果関係を理解させることよりも、「人物の配置が示す関係性やドラマ」や、「その場面が象徴する意味」を、観客に直感的に読み取ってもらおうとしているのではないか。
【本作の実験性】
本作は、こうした舞台的とも言える手法を、アニメーション映画の中に実験的に持ち込んだ作品なのではないだろうか。
細田監督自身が「新しい表現手法を追求した」と語っていた記憶があるが、その言葉通り、映像表現は非常に意欲的だ。2Dと3Dのハイブリッド、悍ましいほどに残酷な死者の世界の荒涼、実写と見紛う背景美術、脱水で唇がひび割れ、泥で汚れたヒロインの顔、揺れる瞳、震える唇。
絵による演出には、執念すら感じられる。
そしてその実験精神は、ストーリーテリングにも及んでいて、舞台的、戯曲的な物語進行を、映画というメディアで成立させようとしたのではないか。
今作は「ハムレット」をベースにしていると監督自身が語っているが、それは復讐譚というテーマ以上に、「戯曲演劇的」な演出を採用するという意味合いが大きいのではないか。つまり『果てしなきスカーレット』は、文字通り「舞台演劇」として構想された作品なのかもしれない。実際、声優を務めた俳優陣の顔ぶれを見れば、どこかの劇場で上演される『ハムレット』だと言われても違和感はない。
【(アニメ)映画で成り立つのか?】
しかし問題は、それがそもそも映画として成立するのか、という点にある。映画とは、本来、舞台演劇の制約を取り払うために発明された表現手法なのだからだ。
しかも本作は新作のドラマであり、古典劇のように前提や情報を共有しない観客に向けて、映画館という場で提示された。初見の観客に対して何の断りもなく「察してもらう」ことを求めたなら、物語が理解不能な断片として受け取られるのは、ある意味で必然だったと言える。
【何が問題か】
実際に舞台的手法を取り入れたかどうかはさておき、少なくとも物語構成が特殊であり、そこに意図があったことは明らかだろう。その手法自体を失敗と断じてしまえば身も蓋もないので、それ以外の要因に目を向けると、問題は「どのように売られたか」にあったのではないか。
本作は、従来のファミリー向け大衆映画という文脈で観られると、構造的に破綻する。実際、それは既に興行成績として表れている。一方で本作は、アートワークとしての側面が極めて強く、本来はそのような文脈で提示されるべき作品だったのではないだろうか。
それにもかかわらず、旧態依然とした広告手法が選択され、従来と同列の「細田ブランド映画」として宣伝された。
結果として『果てしなきスカーレット』は、「間違った客層」に届けられ、「理解されないこと」を運命づけられた作品になってしまったのではないか。
【総論】
渋谷で踊る、心象の中のスカーレットを見て、死者の国に立つ彼女は何を思ったのか。
「不殺」を訴え続けてきた聖は、なぜ人を殺し得たのか。
溶岩が流れる山肌を登りながら歌われる歌が、震え、今にも泣きだしそうに聞こえたのは、スカーレットがどのような心情に置かれていたからなのか。
なぜ彼女はクローディアスを許したのか。そして最後に現れる老婆が投げかけた問いに、果たして答えは存在するのだろうか。
これらはいずれも、作品の中で明確に回収される問いではない。それを、物語進行の多くの部分を「そういうモノ」と受け入れた上で、観客一人ひとりが、自身の感受性と解釈によって問いを受け止め、それぞれの着地点を見つけることを要求される。
こうして列挙するだけでも、「私には無理」「よそでやってほしい」と感じる観客が大多数かもしれない。本作は「そういうのが好きな人」向けの作品で、もっと小さな規模で上映された方が幸せな作品だったような気がする。
現在はどこの映画館でも、小さめのシアターで日に2~3回の上映だが、この公開規模こそが、『果てしなきスカーレット』という作品にとっての「適正値」だったのかもしれない。
全く同意します。同感であります。
演劇を引き合いにされたご説に同感であります。私はこの映画を観終わって、「台詞も舞台装置も無いクラシック音楽」の演奏会に行った気持ちになってしまいました。且つカーチュン・ウォンを想起しました。皆さんもこの映画独自の約束事や様式美など、そういうものだと思って観れば良いのではないでしょうか。
恐ろしいまでに酷評され、かつ、実際に見に行っても人が入っていない映画ですが・・・
演劇的表現と見れば、どうにも説明的なセリフ、しつこい絶叫など、納得できる感じでしょうかね(普段、演劇など見ませんが)。
懸念されるほど、上映打ち切りじゃないようなので、年末年始に6回目の鑑賞ができればなと思っています(案外、嵌まりました)。
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