「進化を続ける細田ワールド」果てしなきスカーレット 椿六十郎さんの映画レビュー(感想・評価)
進化を続ける細田ワールド
【ネタバレ有り】飽く迄も2次元に拘る「時をかける少女」時代の細田守の信奉者にとって「果てしなきスカーレット」は、その独特の世界観への冒涜と思われるかも知れない。しかし、進化し続ける映像の世界・・・、自身に枠を嵌め、その範囲から一歩も出ないで制作を続けるのは大変な事だ。その意味で「果てしなきスカーレット」における細田ワールドの変容は当然の帰結である。ただ、本作品の変化の度合いは些か大き過ぎて、昔ながらの信奉者を置いてきぼりにしてしまった感は拭えない。だが、ついてこられる者だけを相手にするのもクリエイターとしては致し方無い事だ。
それでは何が変わったのか?先ず言えるのは背景描写の圧倒的な立体感だ。砂漠・遺跡・海・空・・・2Dからの潔いまでの決別である。私にとってはどれもこれも当然の帰結と思われる。恐らく多くの場面で実在する風景をロケハンして行けばその世界を2Dの空間に閉じ込めるのは無理だと気付くのであろう。万物は流転する。その中で人もまた万物の一部だ。よって、背景だけ無く人物も立体的に動き出す。これは特にバトルシーンで顕著に見られる。確かに人物の造形では3Dは無いが、動きは頗る軽快で立体的であった。進化の一つだ。
更に、台詞回しまでも新境地が垣間見られる。これは、古典への回帰という意味での斬新さだ。主人公はスカーレットであるが、宿敵はクローディアス、更にガートルード・ローゼンクランツ・ギルデンスターンe.t.c.シェークスピア悲劇「ハムレット」の登場人物が目白押しである。更に、市村正親・吉田鋼太郎といった声優には、日本を代表するシェークスピア役者を充てる。私は、「ハムレット」をク・ナウカや蜷川版の舞台、そしてグレゴリー・ドラン監督の映画等で見ているが、何れも演出こそ違うが格調高い(別の表現をすれば「過度なまでに装飾された」)台詞回しのオンパレードで、シェークスピアの世界観から逸脱するものでは無かった。勿論、そこから逸脱しては意味が無いと云う事もあるが・・・。よって、この「果てしなきスカーレット」でもその些か装飾過多な台詞回しが時々出てくる。これもまた細田アニメの信奉者の癇に障る処となるのであろうが、シェークスピアが大好物の私にとってはこれは大歓迎であった。
とは言うものの、このアニメは「ハムレット」の焼直しではない。主人公スカーレットは、「果てしなき恨み」に支配された人物と言うことではハムレットと言えるが、其れが現代日本から来た看護師聖(ヒジリ)と出会う事によって「赦し」の概念を受け入れて行くことなる。この「赦し」によってシェークスピアの代表的悲劇はハッピーエンドに変わる。恐らくこの聖こそがオフィーリアなのであろう。ハムレットの遺恨とは対局にあるオフィーリアを受け入れる事が赦しに繋がって行くことが面白い。因みに、スカーレットが聖に「寺にゆけ」と云う場面があるが、これはハムレットがオフィーリアに言う「尼寺へ行け」のオマージュだろう。
そしてもう一つの大好物。渋谷でのダンスシーンだ。コレが素晴らしい。私はこれを「祝祭」のシーンと呼びたい。私の好きなアニメーターに今敏と云う人がいた(残念なことにもうこの世には居ない)。彼は人間の記憶や感情を具現化する事をライフワークにしていたが、その集大成とも言える「パプリカ」で、記憶の中にあるすべてのものを総動員させて街を練り歩かせる・・・ある種の「祝祭」のイメージを何度も出している。其れを彷彿とさせるのが渋谷でのダンスシーンだ。些か唐突ではあるが、元々「彼岸」と「此岸」の間にある曖昧な空間の出来事である。何が出てきても良いであろう。
さて、世間から認められない天才・・・そう、ゴッホの様な芸術家は・・・自分の作風を頑なに変えないが、早々に認められた天才・・・、ピカソの様な人は貪欲に新しい自分を作り出す。細田守と言う人はそう云うタイプなのかも知れない。ニュータイプを受け入れられない人は取り残されるだけである。
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