「彷徨っているのは細田守監督本人なのか?」果てしなきスカーレット alfredさんの映画レビュー(感想・評価)
彷徨っているのは細田守監督本人なのか?
(ちょっと長文)
最寄のシネコンでは公開2周目にして、一番客席数の少ないスクリーンでの公開になっている。細田守作品としては興行的失敗はほぼ確実だ。
序盤の舞台がデンマークだったり、母親が叔父をけしかけて、父たる王を計略に嵌めて殺害したりと、この愛憎劇はもうシェイクスピア劇である。
シェイクスピア劇の翻案は黒澤明監督が見事にやり遂げているが(「マクベス」→「蜘蛛巣城」)、本作は空回り感が強い。
声優陣のなかでも吉田剛太郎さんや白石加代子さんは、シェイクスピア全作連続上演を試みた蜷川幸雄さんの常連俳優だったし、さらに吉田剛太郎さんは蜷川さんが亡くなったあとはシェイクスピア連続上演の演出も担当している。
これでシェイクスピアを意識するなというほうが無理だ。
ただ、死者の国というのが掴みにくい。ダンテの「神曲」と言われても、すんなりとそうですねとはいかない。
死者の国は、地上と地獄(あるいは天国?)の中継地点であり、うまくすれば元の世界に戻れるらしいが、都合が良すぎる設定だ。日本人の聖(ひじり)という青年も何故か死者の国におり(他の日本人がいないのは何故?)、聖は物語のキーマンになる。
デンマーク人と日本人が通訳もなしに会話できるのはアニメの強みとして気にしないでおく(死者の国の特長なのかもしれないが不明)。
聖は見事な弓使いをみせるが、現代日本で看護士だった彼が何故弓がうまいのかは不明だ。
聖がスカーレットに対し「生きろ!」と言ったり、弓使いの上手さと合わせると殆ど「もののけ姫」へのアンサーソングみたいである。
スカーレットは途中で長く束ねた髪を切るが、直後にスカーレットを探す兵士らに見つかる。兵士らが「長い髪を束ねている女を探せ」といっていたのに、あっさりと見つかる。だったらなんで髪を切るという場面を直前に入れたんだろうか?
全体として、監督のやりたいことが不明だし、ちぐはぐさが否めない。
海外で受けそうなテーマ(シェイクスピアとダンテ)を選んだと言われそうだ。
スカーレットの声を演じた芦田愛菜さんは下手ではないが、やや一本調子という感じだ。だがこれは演出側のせいだと思う(怒りを爆発させている場面が多過ぎるという事情もある。人はそれほど怒りを持続出来ないものだが。)。芦田愛菜さんは子役から芸歴も長い。きちんと演出意図を伝えれば対応する演技が出来る人だ。
「もののけ姫」で祟り神になってしまった乙事主に対し山犬(声:美輪明宏さん)が「もう言葉まで無くしたか」という台詞録音のとき、宮崎駿監督は美輪さんに「二人?はかつて良い仲(恋愛関係)だったんです」ということを告げ、三輪さんもなるほどと了解し録音をやり直したという。そのことで、憐憫と怒りが入り混じった素晴らしいあの科白が出来上がったという。
声を当てるということは、まさに魂を吹き込むことだ。厳しく言うなら、本作には魂が欠けていないだろうか(声優陣が駄目という意味ではない)。
王の残した「許せ」とは、対立する他人を許せということではなく、怒りと憎しみに駆られた自分自身を許せと言う意味であろう。
ガザやウクライナのように前近代的な迫害と侵略がある一方で、ネットには呪詛の言葉があふれている。
この映画はそんな時代の世界に向けて放れた光なのかもしれない。
多くの人々にその「許せ」という言葉(光)は届いたのだろうかと疑問に感じた。
時間があったので2回観た。
不入りの原因の一つは、鼻白むくらいの理想主義にあるのかもしれない。人間が幾ばくか成長出来たなら、本作は佳作として評価されるかもしれないと、2度目の観賞の後で思っている。
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