「脚本・細田守でなかったら世に出なかった作品」果てしなきスカーレット Scottさんの映画レビュー(感想・評価)
脚本・細田守でなかったら世に出なかった作品
《竜とそばかすの姫》のとき思ったんだけど、細田守監督の脚本は、人物がお約束で動くんだよね。作者の都合で動くの。《竜とそばかすの姫》だと、ラストに向かって確か皆が団結してく感じになるんだけど、理由は描かれないんだよね。「ラストなんだから、みんな団結するでしょ」という感じに見えるの。
本作もお約束で動いていて、一番わかりやすくお約束なのは、スカーレットと看護師が恋仲になることだよね。「主人公と副主人公は恋仲になりました」って描かれてるの。
「主人公と副主人公は、△△ということがあって、◯◯という気持ちの変化が起きて、恋仲になりました」と描くのが普通だと思うんだけど、そういうの、極めてあっさりしてるの。
スカーレットの父の重臣も「重臣は叔父を裏切りました」と描かれてるね。「重臣は、とある事情で叔父の命令にやむなく従っていたが、◯◯ということがあって気持ちが変わり、叔父を裏切りました」という描かれ方をしてないの。
こういう脚本、分かりやすい話の場合だと、まあ、見逃せるんだけど、本作のように「《ハムレット》と《神曲》を下敷きにしました」っていう分かりづらい話だと、無理すぎるね。話が分からないから、登場人物の心情に寄り添って観るしかないんだけど、そこがお約束の動きしかしないからね。
「《ハムレット》と《神曲》の世界を用いて、物語を描いたら、いやー、ヒャー、もう考えるだけで興奮してきた!」って感じで書いちゃった気がすんのね。書いてて楽しくなる気持ちは分かるよ。
でも普通だったら、このレベルの脚本は書き直しになるか、企画自体がポシャると思うの。
でも「《竜とそばかすの姫》でメチャクチャ稼いだ細田守がやるって言ってるんだから……」で通っちゃうんだろうな。
本作は、どう楽しめば良いかも分からなかったのね。
《竜とそばかすの姫》は脚本ヘンテコだったけど、映像と音楽を観れば良かったんだよね。
本作は、エンタメとして観ることを意図されてない気もするのね。かといってアートではないし。純文学のような人間の本質的な部分を描いているわけでもない。
いっそ、メチャクチャ難解で、思わせぶりな作品になってた方が、楽しめた気もするの。
《ハムレット》と《神曲》を下敷きにするのものね、どうだったんだろう。
「みんな考察してくれるよ」というのもあったかも知れないけど。アニメファンのインプットは、原則アニメだからね。《ハムレット》と《神曲》を履修してから来いはハードル高いよ。
例えば、《風の谷のナウシカ》と《エヴァンゲリオン》を下敷きにしたらね、みんなすごい考察して楽しんでくれると思う。なんでいきなりハイアート系を狙っているのか。
物語の最後に地獄の門みたいなやつ出てくるよね。「なんか《鋼の錬金術師》でも似たようなやつ出てきたなあ」とか「国立西洋博物館の前庭に置いてあるやつかな」と思ったね。ハイアート系を参照しながら、表現がしょぼいんだよね。
この作品、企画の段階でね「これは、確実にコケる」と分かったと思うんだよね。
だって、観客にウケる要素が、ほぼないじゃん。
「なるほど《ハムレット》と《神曲》ですね。分かります」という人はいると思うけど、少数でしょ。そもそも《ハムレット》と《神曲》を履修済みみたいな人が、アニメを観に映画館に来るのかな。来ても少数じゃないのかな。
登場人物に感情移入できるような描かれ方をしていないし、音楽と美術が飛び抜けて良いわけではないし、真摯にテーマを描こうとして難解になっているわけでもない。
それなのになぜ、制作・公開に踏み切ってしまったのかという、内側に興味が湧いたな。
でも通して観てみてね、《神曲》履修しよと思ったよ。
いろんな作品の下敷きになってそうだしね。
そういう意識を持たせてくれた点では、良い作品だったよ。
声優は、この話なら、正直、誰でも良かった気はしたな。
それでも吉田鋼太郎はね「さすがシェイクスピア俳優」って感じで良かったよ。
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