「スピリチュアルアニメの傑作」果てしなきスカーレット Vanquishさんの映画レビュー(感想・評価)
スピリチュアルアニメの傑作
低評価なので観るのを辞めようと思ったが、よく訓練された観客はB級映画も好む。細田監督の作品は脚本が弱いので所謂「モヤル」ので覚悟して観た。結果観て良かった。
「死者の国」が時間も空間も関係ない舞台装置と機能していて、細田監督の弱点を上手く吸収してくれている。しかし、同時に「死者の国」の設定が非常に曖昧なため批判の対象となっている。瀕死の際に落ちる生と死の狭間の空間、集合的無意識、北欧神話における戦死者の館「ヴァルハラ」、ダンテの「神曲」における「煉獄」、仏教における「活きよ活きよ」の「等活地獄」など例えようはいくらでもあるにも関わらず、細田監督お得意の仮想電子空間のように閉じた解釈の世界ではないのだ。逆説的に例えようがいくらでもありすぎるから観客が混乱している。
では何のための「死者の国」があるのか言えば、「魂の研鑽」「魂の成長」を促すために創られたスピリチュアルな場所である。結論、スカーレットの魂を成長させるための場所である。武器(批判)が刺さった傷だらけの龍の雷撃も謎の老婆も神(監督)の「行為」と「声」というオチである。お仕置きだべーっといった感じで雷撃を喰らうクローディアスが虚無に還るのはあくまで「死者の国」では「自然」な現象なのである。この作品の鑑賞のポイントは基本が神(監督)に愛されし無敵の乙女がスカーレットであるという認識。これを念頭に置けば余計な葛藤を抱かずにすむ。スカーレットと聖がネオ渋谷で映画「ラ・ラ・ランド」のようにミュージカルダンスを披露するのも神(監督)が喜ぶからである。
アムレット王がスカーレットに対して「赦せ」と遺したことはなかなか万能な遺言である。復讐は果たすべきものという価値観が支持されている。我が国で敵討ちの物語が古来多く残っているのを考えると復讐はスカッとするし、生きる目的にもなるしプラス面が強調されているが余程恐ろしい行為である。第一常に成功する訳ではなく返り討ちにある可能性がある。またそこに注ぐ莫大な心的体力的エネルギーと時間を考えるとハイリスクローリターンとも言えなくもない。それを考えると愛する娘に対して自分自身を「赦せ」と遺しておけば、スカーレットが復讐に成功しても失敗しても何もしなくてもどんな状態でもウェルビーイングとして機能する。そのため、アムレット王が処刑間際で考える最大の愛娘に対する愛のある遺言である。
スカーレットは細田監督作品の中では群を抜いて可愛い。復讐を企むが高貴な身分であるがゆえにどこかポンコツで詰めの甘さがある。クローディアスに謝罪を求めるあたり、やはり地金がいいとこのお嬢さんなのである。聖を庇って腕を負傷し止血帯を巻くために服を切られる際に気弱に恥ずかしがるあたり乙女なのだ。凛々しい復讐鬼であると同時に少女っぽさが存在する。
聖が現代で馬にも乗れるし弓矢を射ることもできる聖はかなりいいとこの子(流鏑馬経験者)だと思う。小説では鍛えてきた技を試さねばならぬと決意する描写がある。如何せん聖の内面描写が少ないので都合のいいキャラに成り下がってしまう。聖は自分の死をすんなり受け入れてしまう。エリザベス・キューブラー・ロスの「死の受容プロセス」は、避けられない死に直面した人が「否認→怒り→取引→抑うつ→受容」の5つの心理段階をたどるとされる。それを超越している超人か無茶苦茶カッコつけマンだ。私は後者をとる。映画「タイタニック」のジャック並みに好きな女の子の前では男子の矜持、やせ我慢は死を超越する。
スカーレットが現世へ昇っていくのはアニメ「天空のエスカフローネ」を彷彿させる。これは「死者の国」という異世界に堕ちたスカーレットが自分の世界へ還っていくという異世界来訪ファンタジーだったのだ。同じ異世界に堕ちた聖は自己犠牲ではなく、結局助からずスカーレットに見送られるのが良かった。自己犠牲を美談として描くのは内心危険だと考えている。何か搾取されている気がするからだ。そして世界系の恋愛万能論も同じくらい危険だと思う。それが失われたら世界が崩壊するなんて他人を巻き込むなと思うからだ。だから「キスしてグッバイ」がアニメ「ゼーガペイン」のように切なくてちょうどいい。スカーレットにとって聖との邂逅が強烈なもう一つの自分の可能性を観させてくれてパラダイムシフトが起こった。聖との邂逅で違う世界にトリップしたスカーレットは自分のもう一つの可能性を観たのだ。ちなみにこの夜スカーレットと聖は結ばれています。スカーレットが髪をバッサリ切るのは言わなくても分かるよねという映像のお約束らしい。平和主義者の聖が急に武装し始めるのは守るものが出来たからですね。「守るべきもののために殺すべきは殺す」という我が国の戦国時代の僧侶が武装する(僧兵)のと動機は一緒である。聖が「死者の国」に堕ちたのは現世で子供たちを守れなかった無念があったからですね。そのことは老婆によって「おまえがここにいる理由は何だ?」と指摘されています。現実問題、人権と生命と財産を守るために武力行使によって敵を排除する行為は残念ながら必要であることを聖というキャラクターは如実に示しています。インドで殺生禁止の仏教が滅んだ理由、戦国時代を浄土真宗が生き残った理由、チベット、ウクライナ、台湾、尖閣諸島を考えれば僧侶風の聖の頭がお花畑でないということを描きたかったのだろう。スカーレットの暗澹たる復讐鬼の殺気立った目元が聖の価値観に影響されて、段々人間らしさを取り戻していく過程は見事だ。対して聖も「守りたいもののために殺すべきは殺す」という現実の冷徹さを目の当たりにして肝が据わっていく過程も殺伐として良い。
最終的に二人は結ばれて別れる訳だが、細田監督自身の作品「時をかける少女」のセルフオマージュだったりする。「生きて、そのかわり未来で聖が生まれる時代に、少しでも争いがなくなるようにがんばる!未来が変われば、きっと聖は殺されたりしないよね?そのために私、なんでもできることをするから!そしたら、聖はもっと長生きして!家族を作って、子供を育てて、いいおじいちゃんになって!」というセリフに疑問点が発生する。聖が殺された理由は無差別通り魔事件で社会的問題だが、国家間の戦争は外交上の問題だ。それぞれ問題の性質が異なる。やはり、現実への還り際になると細田監督の弱点が露出してきた。これは幼い社会観、国家観しか持たない細田監督が悪いと思う。また、スカーレットの所信表明演説もなかなか厳しいと思わざるを得ない。試しにデンマークの歴史や我が国の高市内閣総理大臣の所信表明演説を検索すると如何にスカーレットの演説がフワっとしたものか国民としては心配になる。聖が最終的に武器を持って戦った事実をスカーレットは受け入れるべきだ。それは女王として非情な決断を下さねばならぬ局面に立たされるからだ。
細田監督はアニメ界のテレンス・マリック監督だ。脚本が弱く、脈絡なく投入される映像先行型の映像詩とも言える表現なんか業界人の評価が高いが一般観客の賛否両論が巻き起こるあたり似ている。ポスト宮崎駿とも言われたことがあったけど、全然違う。テレンス・マリック監督作品もよく宇宙へ意識が飛んでしまうが、スカーレットも未来の渋谷に意識が飛んだあたり似ている。そして「赦せ」の意味を苦悩してついに「悟り」を得る「果てしなきスカーレット」はスピリチュアルアニメの傑作だ。
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