「作品は悪くない、空気が悪い。『果てしなきスカーレット』酷評の本当の理由」果てしなきスカーレット こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
作品は悪くない、空気が悪い。『果てしなきスカーレット』酷評の本当の理由
本作をめぐる評価の錯綜は、作品そのものの出来不出来よりも、むしろ現代の“空気の悪さ”を象徴している。ヴェネツィア映画祭に並ぶ作品群の多くが、キャンセルカルチャーやポピュリズムの暴走、相互保証された狂気など、いま世界を揺さぶる現象に正面から切り込む中で、細田守監督が提示したのは、ハムレットを大胆に換骨奪胎した異界ファンタジー。これが「家族で楽しむ細田アニメ」のブランドイメージと致命的に噛み合わず、観客の構えと作品の方向性が激しく干渉した。それが「難解」「凡庸」といった表層的な批判の増幅につながり、さらにSNSの同調圧力が“作品を正直に褒めにくい空気”を作ってしまった。
実際、肯定的な感想を述べれば「理解できる俺スゲェと言いたいのか」と揶揄され、批判すれば批判で「評論のテンプレに乗っただけだろ」と嘲られる。もはや作品を語る自由そのものが失われ、議論が“面白半分の消費”としてのみ機能している。これがいちばん不健全だ。作品の中で描かれる、異界に流れ着いた亡者たちのコミューンや、スカーレットの自己変容の旅は、本来なら死後世界を通じて“痛みと再生”を描こうとする寓話になり得たはずだし、理解すれば十分に楽しめる構造でもある。
だが、細田守監督がこれまで積み上げてきた“家族向け大衆エンタメとしての成功”が、今回の作品の評価を逆に縛った。観客は細田作品に「わかりやすい感情のカタルシス」を期待する。しかし『スカーレット』は、その期待に応えるどころか、あえてニッチで象徴的な構造を打ち込み、ハムレットの文脈を差し込んだ。観客の想定と作家の実験がズレたまま、興行の場に投じられた結果、「これは細田のエゴだ」という非難に変質してしまったわけだ。
作品の弱点——物語の甘さ、寓意の未消化、世界観の説明不足——は確かにある。しかしそれ以上に問題なのは、観客側が持つ「細田守はこうあるべき」という固定観念と、それを裏切った瞬間に生じる拒絶反応である。評価の多くが作品の内実ではなく“ラベル”に反応しているということだ。皮肉なことに、こうした空気そのものが、作品が投げかけた“世界の歪み”と地続きにある。いま必要なのは、この映画を一度「細田守の新作」ではなく、一つの寓話としてフラットに見直す態度ではないか。作品は駄作どころか、むしろ“語る力のある作品”なのだが、それを語る環境のほうが劣化している。そう感じてしまう。
とても納得しながら読ませていただきました。
以前、反対によい評価がついている作品に厳しい評価をつけたら、読んで気分の悪くなるようなコメントをもらったことがあります。
この作品自体は、ストーリーにはそれほど魅力を感じませんでしたが、スカーレットの造形が好きで、高い評価をつけました。監督が伝えたかったこともわかりやすくて、(若干浅い感じはしましたが)、なぜこんなに叩かれるのか不思議でした。
レビューに書かれている通り、今の不穏な世の中を表しているような気がします。
このレビューに大変感銘を受けました。ありがとうございました。
ここでのレビューで自分の感じた事とほぼ同じですね
これだけSNSが発達した社会において宣伝映像からのつまみ食いを軸にしてレビューではなく文句とクレームに特化したコメントの嵐に驚きました。何でこんなに低評価なのか?と
恐らくは本当は観ていないのでは?とも勘ぐるコメントの多さ
事前情報を何も耳に入れないで(ここ最近の自分のスタイルです。先入観を取っ払って観ないと最近の映画は正当な評価が出来ない)レビューを書こうと思ってドン引きした次第です
共感ありがとうございます!
前作の「竜とそばかすの姫」からは、エンタメ系から方向転換をして重いテーマ(前作では児童虐待とSNSの陰と陽)を発信する作品になりましたが、これはもう細田監督が日本国内でマスが小さくなっていくのを予見して、どんな人種にも思想信条を持った人にも受け入れてもらえる下地作りをしているからだと思います。
ジブリ作品はもちろん、鬼滅の刃とか初劇場版のチェンソーマンもエンタメとして確かに世界中で好成績を収めていますが、初期の動員が持続するのはせいぜい1カ月程度で、すぐに飽きられます。
これが重いテーマの作品となると、何か作品のテーマに近い事件があった時に、報道で取り上げてもらえる機会が出来てエンタメではなく人の記憶に留めてもらえるという計算から方向転換をしたと思います。
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