「応報刑の是非とニーチェの超人思想」果てしなきスカーレット 皮下脂肪さんの映画レビュー(感想・評価)
応報刑の是非とニーチェの超人思想
面白かった。 唐突にみえる演出も多かったが、ミュージカルシーンの意図も伝わり共感した。
また3DCGの新たな可能性を探るようなルックのアニメーションには心底凄みを感じ感動した。
私は映画に監督や作品との対話、価値観のすり合わせ的なものを求めているタイプの人間だ。
その為「細田守はそう考えるのか」と本作を楽しめた
許しや応報刑の是非などの問題を日頃から考えるタイプの人間としては目新しさこそなくとも答えが出せない問題に対して監督なりの一つの答えがきけて誠意を感じたのだ。
また、本作ではニーチェの言うところの永劫回帰や積極的、消極的ニヒリズムといった哲学的な問題に踏み込みその上で主人公に積極的ニヒリズムを選択させたと私は受け取ったので作品により深みや凄みを感じた
私の特性として映画にアトラクション性より凄みとか思想とかメッセージ性を求めるというものがある。
私がそれを求めるのと同様に大衆が映画に求めるものもまた多様だ。当然、本作がハマらない人がいるのも理解できる。
色々な人がいて多様な背景と可能性がある。他者を許せない人も許せる人もいる。ミュージカルシーンで多種多様な人種を描いたのはそういった事を表現したかったのだと思う。
ただ、許せない自分も許してしまう自分も許そう。許してしまっては折り合いがつかないこともあるけれど生きよう。そこからが始まりだというメッセージを感じた。
確かに問題点はいくつもあった。
ストーリーから外れた抽象表現に移り変わる「繋ぎ」の欠如。
エンターテイメント性が希薄で観る人のコンディションによっては説教的に感じる。
哲学、思想といった要素をエンターテイメントや大衆芸能に昇華できずそのまま作品に投影してしまっている為、受動的な鑑賞スタイルに耐えない。
画面は本当に凄いけれどメリハリなく凄すぎるが故に「凄すぎて凄いのが分からない現象」が起こっている
目新しさはなく「普遍的問題を映画で表現した」以上の意味を感じず顧客に新たな価値観を提供できていない。
と、いったところだろうか…
しかし私は本作のこうした欠点にすらある計算された狙いを感じた。
それは観客に【現実の復讐をさせない】ことだ。
この言葉は「エヴァンゲリオン」から引用したものであるが、敢えて言葉を濁さず言ってしまうと昨今の情勢や時代が映画に求めているものは「憂さ晴らし」や「現実の埋め合わせ」だと私は思う。
つまり「悪を倒せ」「正しさとは?そんなこと知らねぇよ」の代弁者としての映画が求められているという事だ
本作はそうした明快で手軽なカルチャーへのカウンターとして徹底的に「復讐の代弁者」になることを避け難解で起伏がなく脈絡のない問題が降り注ぐ美しいリアルな現実をそのままフィルムに投影しているのだ。
本作の感想とし「退屈で虚無を感じる」というものが散見される。
当然だ。なぜなら現実は退屈だからだ。
そしてその復讐は本作でついに果たされなかった
では本作は我々に何をもたらしたのだろうか?
それは「超人思想」だ。
少し説明させてもらう。
まず本作には様々な暗喩表現が散りばめらている
時も場所も混ざり虚無になる場所=「映画館」
復讐=「映画館での現実の復讐」
見果てぬ場所=見終わらない=「現実」
ざっとこんなところだろう。
哲学者ニーチェ曰く「虚無」とは神が死んだあとに訪れる既存価値観の崩壊であり「虚無」を受け入れ無意味な現実を生き新たな価値を創造する者こそが超人だそうだ
これを超人思想という。
この思想は本作とも合致する。
復讐に囚われ執着していたスカーレットは父の「赦せ」という言葉により価値観が崩壊し虚無を感じてしまう。
しかし聖の優しさや人の温もり、多様な可能性に触れて「争いのない世界を創ろう」という新たな価値を創造し見果てぬ現実に戻っていくのだ。
そう、つまり本作は観客とスカーレットの両者に虚無からの脱出、復讐からの開放の試練を与えた多重構造映画なのである。
最後に、
様々な重圧を背負った上でこのような作劇を世の中に提示し、更には映像表現の面でも新たな価値観を創造した細田守監督の「神殺し」に最大限の賛辞を送りたい。
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