「のどかな風景の中の腐ったコミュニティ」おんどりの鳴く前に ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
のどかな風景の中の腐ったコミュニティ
どアップの鶏と「今年最高のラストシーン!」の惹句が強烈なメインビジュアルに引き寄せられて鑑賞。
そのラストシーンに至るまでがなかなか……冗長なほど淡々と進み不快なことばかりが起こる物語や、主人公含め道徳心の薄いメインキャラたちにフラストレーションがたまる。救いはモルドヴァ地方の美しい田園風景と、時々映り込む動物さんたちだけだ。テンポのよいエンタメを求めて観たなら、期待外れな気分になる可能性がある。
だが、堆積してゆくモヤモヤにはあのラストを際立たせる作用もあった。
パンフレットにあるネゴエスク監督へのインタビューによると、ルーマニア語の原題はダブルミーニングで、「善良な人々」または「こちら側の人々」という意味を持つという。
この原題をそのまま使うのではなく、聖書の一節にちなんだ「おんどりの鳴く前に」という邦題を付けたのはすごいセンスだなと思った。インパクトがあるし、メインビジュアルが鶏なので聖書の知識がなくても覚えやすい。
作品の中で鶏は折に触れ意味深に姿を見せるが、具体的に展開に絡むことはない。そもそも元の脚本に鶏の描写はなかったそうで、物語の「見届け人」として登場させたのは監督のアイディアとのことだが、ロケ地に実際にいた鶏を映像に取り入れた、といったノリだったようだ。
でも出来上がった作品は、鶏の存在によってイリエが「マタイによる福音書」におけるペトロの立ち位置であることが暗示される、という構図にちゃんとなっている。邦題はそれを汲んだものなのだろう。
イエスの一番弟子でありながら、裁判にかけられた彼のことを知らないと言い続けたペトロ。イエスにあたるものはヴァリだろうか、それともイリエ自身の良心だろうか。
主人公のイリエは腑抜けた警察官で、居住するアパートの部屋を売って果樹園をやりたいと思っているが、売値が安過ぎて実現できない。
そんな彼は、好物件の果樹園を紹介したり、終いにはその果樹園の無償譲渡を申し出てくる村長の悪事を隠蔽する。村長が違法取引をする場所である川辺に向かう釣り人を追い払ったり、村長が起こした殺人事件について新人警官ヴァリが普通の捜査をしようとすると頭ごなしに叱責して止めさえした。司祭も村長の腰巾着状態で、この村は政治・宗教・警察権力の全てが腐っている。
そのイリエが、ヴァリまで暴力に晒された時に怒りを表したのを見て、最初は違和感を覚えた。それまで彼がヴァリに対して情を抱く様子が見えなかったからだ。
だが、終盤のイリエと彼の元妻との会話で、彼も10年前には職務にふさわしい正義感を持った善良な人間だったことが伺えた。それがあの村に来てから何かがあったのか、村長はじめ周囲の人間の価値観に染まったのか。あるいはその両方かもしれないが、あの村の中で生きていくために、彼は変わってしまったのだ。
そんなイリエは村長のような根っからの悪党とは違い、その心に善性のかけらが残っていたようだ。好意的に解釈すれば、ヴァリのまともな捜査を止めようとしたのも、「あの村長がいるイカれたこの村でそんなことをしたらろくなことにならない」という警告も無意識に含んでいたかもしれない。
そのヴァリが死に、イリエが心を寄せた殺人事件遺族のクリスティナもまたおそらく村長の差し金で暴力を受け、村から出て行った。身近で深刻な犠牲が続いてやっと、仮死状態だったイリエの良心が蘇ったのだろう。
ぎこちなさがかえって妙に生々しいクライマックスの銃撃戦は、主人公イリエが命懸けで正義の鉄槌を下す場面なのだが、カメラの眼差しはどこかドライで、ちょっとユーモラスな瞬間さえある。イリエ自身も死の裁きを受けるが、見ていて悲しくはならない。
むしろ、最後に良心を取り戻し「思ったより悪くない」と呟きながら死ねた彼に対し、よかったねという気持ちさえ湧いてきた。
それにしてもこの腐ったコミュニティ、ルーマニアの田舎特有のものとして描かれているようだが、風通しの悪い人間関係がそこにあれば、本質的に似たようなことが起こるのは万国共通ではないだろうか。