「シェイクスピア演劇に対峙した黒澤監督の作家証明と名優三船敏郎・山田五十鈴の気迫」蜘蛛巣城 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
シェイクスピア演劇に対峙した黒澤監督の作家証明と名優三船敏郎・山田五十鈴の気迫
シェイクスピアが執筆した四大悲劇の最後の戯曲「マクベス」(1606年頃)に黒澤監督が本格的に取り組んだ正攻法の演劇時代劇。娯楽時代劇の金字塔「七人の侍」始め、翌年の「隠し砦の三悪人」のユーモアとアクション、そして監督50代の成熟期の「用心棒」と「椿三十郎」とは趣を異にする、真剣勝負な映画作品でした。これら5作品の時代劇でも其々に特徴を持って、その他のジャンルにも傑作を数多く遺したのですから、黒澤監督の幅広い教養と知識、特に文学と絵画への才覚には敬服するしかありません。この作品でも、イギリス演劇の権威とも言えるシェイクスピアを日本の時代劇に翻案するにあたって、日本の伝統芸能の能の研ぎ澄まされた演技と様式美で対抗しています。これによって独特な緊張感を持った黒澤映画になっていました。
日本の戦国の世は、出世功名の為には親族同士でも殺し合う道義のすたれた権力闘争の時代。また洋の東西を問わず、家臣が謀反を起こし主君を討つ下克上がありました。主人公鷲津武時の妻浅茅の言葉にあるように、所詮人に殺されぬためには人を殺さねばならない。しかし、やるかやられるかの殺し合いでは国は成り立ちません。武時の言うところの、大逆(人の道にそむく最も悪質な行為)を犯しては何の名目も立たない。つまり友誼(友情)や情誼(友人・師弟間の情合)に報いてこそ、組織の結束力も固まるというものです。夫の武時に一国一城の主から天下人になって貰いたい野心家浅茅の貪欲さと冷徹な独占欲に誘惑され、洗脳される武時は、戦闘能力が高いも気が弱い性格の持ち主。この夫と妻が企み権力を掌握するも、謀反を犯した人間の宿命のように自滅していく物語には、古典に相応しい普遍性があります。
映画の特徴は、マクベスにあたる武時とマクベス夫人の浅茅のふたりのシーンを、能の様式に模した演技にした黒澤演出です。日本映画として、貴重な見所と思います。能面のようなメーキャップで演じる三船敏郎と山田五十鈴は、最小限に抑えた身体の動きと表情の僅かな変化で感情を表す繊細な演技です。それでいて重厚さがあるシーンになっているのは、日本伝統の詫び寂びの美しさと幽玄さからくるものでしょう。興味深いのは、城内のシーンで2人に他の登場人物が加わると、能と時代劇演技の中間の芝居を三船と山田がしていることでした。名優だから出来る切り替えの巧さと、室内シーンを自然にみせる見事な演出です。勿論蜘蛛巣城の城外の演技は通常の時代劇演技です。この点からも演劇時代劇としてのユニークな面白さがあります。そして改めて感じるのは、三船敏郎の圧倒的存在感です。眼力のある表情を維持するのも、相当な集中力を必要とすると思われます。そしてこの三船の存在感に負けない山田五十鈴の貫禄のある演技の素晴らしさ。死産した後の肥立ちが悪かったのか、子を失った悲しみに己の貪欲さを恨んだのか、発狂して手に付いた血を何度も水の無い鉢に手を入れ落とそうとするその仕草に、常軌を逸した表情の凄さ。この短いシーンに賭けた山田の真骨頂の演技でした。
この名優2人の演技の見所と並ぶのは、美術村木与四郎と監修江崎孝坪、そして中井朝一の撮影でした。古色蒼然とした蜘蛛巣城と北の舘のデザインの良さと本格的なセット建築。霧の蜘蛛手の森の中を馬が疾走するシーンのカメラワーク。霧で視界が悪くなり、それでも馬の姿が微かに見えるモノクロ映像のトーンと雰囲気の醸成。二度登場する森の老婆のシーンの神秘的且つ不気味な感覚の映像美。蜘蛛巣城に寄せて来る蜘蛛手の森の丁寧で雄弁な映像作り。そして、三船敏郎が役として精神的に追い詰められた、無数の矢を射るクライマックスの迫力と、全編に渡りあります。
シェイクスピア戯曲に挑戦して、日本的な伝統芸能と黒澤監督得意の時代劇の見事な融合を成し遂げた意欲作にして完成度の高い作品でした。そして何より、日本映画を代表する名優三船敏郎と山田五十鈴の気迫ある演技に賛辞を送りたい。
浅茅の鉢で手を洗う仕草のシーンはいつ見ても戦慄と恐怖を感じます。撮影も森の中で迷い走るシーンは前後左右とテクニカルで効果的な秀逸な出来映えの映像と感じました。美術も壮大な城廓の門の部分を詳細に建造していて素晴らしい画が撮れていますね。騎馬武者の行軍シーンが素晴らしく監督冥利に尽きていたと今観ると思います。本作と双璧かそれを超える騎馬武者の行軍シーンは「乱」で完成されたのだと感じます。