オリビアと雲 : 映画評論・批評
2026年1月27日更新
2026年1月24日よりシアター・イメージフォーラムほかにてロードショー
細胞のベクトルが揃えられるその瞬間に、映画は、初めて立ち現れる
一本の曲線の運動に注目してみよう。この曲線は、映画が開始される契機として、映画的空間そのものを立ち上げる役割を果たしている。曲線は画面内に描かれると同時に、その空間へと侵入し、浸食し、やがて大地へと導かれる。曲線は、二次元的な表象にとどまらず、実写によって構成された空間をも横断する。そして結果として、アニメーションの多様な表現を接合させることにも成功している。ドミニカ共和国出身のトマス・ピチャルド=エスパイヤ監督の初長編作品「オリビアと雲」は、この曲線の運動がもたらす映像的快楽とともに幕を開ける。
ロシアの画家であり抽象絵画の提唱者でもあるヴァシリー・カンディンスキーによれば、「曲線」には成熟したエネルギーが内在している(「点と線から面へ」、96頁参照)。「オリビアと雲」における曲線もまた、運動を通じて空間を組織する力として現れる。曲線の運動は、映画の始まりを告げる合図であると同時に、空間そのものを生成し、変容させる原動力となる。この点において、「オリビアと雲」では、線は単なる造形的モチーフとしてではなく、映画的な思考を活発化させる装置として用いられていると考えることができるだろう。

(C)Cine Chani / Historias de Bibi / Guasábara Cine
三部構成に分かれている本作において、こうした曲線の豊かなエネルギーを最も強く体感できるのは第一部(《オリビアと雲》)である。ここでは、さまざまなアニメーション技法が用いられながら、人々の内面に生じる感情の揺らぎが描き出される。ラモンの失踪、オリヴィアの苦悩、マウリシオとバルバラの破局——それぞれの出来事に応答するかたちで現れる曲線は、しばしば視線の運動として表象される。曲線は、感情の痕跡であると同時に、他者へと向かう視線の軌跡であり、ここではすでにコミュニケーションの次元に属しているのである。
実験映画との邂逅を通じて、映像におけるコミュニケーションの表現を考察する本作の手法は、おのずと実験映画的な思考と共鳴するのではないのだろうか。実験映画作家・飯村隆彦がかつて記したエッセイを想起したい。「人は一日を黙って生きることも、文字を読まずに生活することも出来る。それは必ずしもコミュニケーションの不在を意味しない。話し言葉ではなしに、言葉が文字となって書かれたときから、複雑な現象を呈し始める。文字ではなしに、ひとつの点、一本の線を書くことから、コミュニケーションは始まるのではないのか。」(「パリ=東京 映画日記」166–167頁)。この飯村の言葉は、本作品の制作にあたって、トマス・ピチャルド=エスパイヤ監督がインスピレーション源の一つとして、イングマール・ベルイマンの二作品(「野いちご」および「ある結婚の風景」)を挙げている点とも関係しているだろう。ピチャルド=エスパイヤは、ベルイマンの作品を通じて、映画における重要な要素の一つとしての「人のつながり」を見出したと語っている。言葉による説明や対話を伴いながら、視線や身振り、沈黙によってまた人と人との関係性を表現してきたベルイマンの映画的実践を参照するならば、本作が「コミュニケーション」を発話のみに依拠せず、曲線の運動として表現しようとしたことは、きわめて必然的な選択であったと言える。
だが、第二部(《ラモンと植物》)においては、表現の重心が曲線からカットアウトによる面の動きへと移行していることも理解できる。ここでは「植物」が単なる背景ではなく、一つのキャラクターとして前景化されることで、空間そのものが意識されることになる。市場という場におけるコミュニケーションを通じて、ラモンとオリビアの出会いという決定的な出来事が生じる。この出会いを契機として、オリビアとラモンの関係が徐々に構築されていく過程が、本作品の重要な主題として浮かび上がる。第一部において感情や視線の運動として描かれていた二人の関係は、ここで初めて、共有される空間=面の中に定着する。ラモンとオリビアは、もはや一時的な運動としてではなく、関係そのものを形成する存在として、より強い形で表象される。曲線が感情の瞬間的な運動を担っていたとすれば、面は関係が持続するための条件そのものを可視化している。
オリビアは第二部で植物として表象されるが、ここで、カットアウトという表現手法によって、ラモンとの関係を構築していく明確なプロセスが描かれる。このことを踏まえるならば、植物への変身は存在の不安定さではなく、関係の定着を可能にする契機として機能している。これに対して、線によって描かれるオリビアの像は、マウリシオと別れたバルバラによる映像制作や、ラモンからの逃避、さらにはラモンの失踪という悲劇的な出来事と結びついている。線はここで、関係の揺らぎや断絶、喪失の運動を担う表現として用いられている。そして、興味深いことに、第三部《オリビアとラモン》のラストシークエンスにおいて身体の一部が再びカットアウトによって描かれる場面は、ラモンとの再会という喜劇的な瞬間に呼応している。すなわち、本作においては、線とカットアウトという異なる表象形式が、悲劇と喜劇、関係の断絶と修復という対照的な在り方を担っているのである。
十二人のアーティストとの共同作業によって制作された「オリビアと雲」は、アニメーションにおける多様な表現を横断的に融合した作品であるがゆえに、単一の解釈へと回収されることを拒んでいるとも言える。本作には、カットアウト、クレイアニメーション、フォトコラージュといった異なる表現形式が併存しており、それぞれが固有のベクトルを生み出すことで、作品全体が一つの開かれた空間として成立している。その中で、植物というモチーフが関係の定着や持続を象徴するものであったとすれば、次に我々の視線は、その内部へと向かわざるを得ない。すなわち、植物を構成する最小単位としての「細胞」である。本作において細胞に相当するのは、視覚的形象それ自体ではなく、声や音楽、そして演技といった、目に見えない運動である。監督も言及するように、音楽と声の演技は、言葉以前の次元で作用しながら、視覚表現の背後に静かな緊張を与えている。
かつて俳優・声優の永井一郎は、現代のアニメ声優の必読文献と言える「細胞でとらえた演技」の中で「行動とは細胞のベクトルを揃えること」であると述べていた。本作における演技もまた、ばらばらに存在する感情や運動の方向を調整し、まとめあげる試みであると言えるだろう。その細胞的な運動は、線となり、面となり、さまざまな形をとって視覚化されていくことにもつながる。「オリビアと雲」が示しているのは、視覚表象があらかじめ与えられたものではなく、声や演技といった音の力を受け取りながら、その都度生成される場であるということである。線が走り、面が立ち上がり、細胞のベクトルが揃えられるその瞬間に、映画は、初めて立ち現れるのだ。
(小城大知)


