山逢いのホテルでのレビュー・感想・評価
全28件中、1~20件目を表示
意外と良かった
はじめ「山の上のホテル」と勘違いしてましたが、 それだと神田のホテルじゃないか・・・ まぁ、はじめはよくあるアヴァンチュール映画かと思い それ程興味はなかったのですが、 ダムを歩くクロディーヌの遠景ショットが アラン・レネ「去年マリンエンバートで」の庭園ショットのようで 興味をそそられました。 こういう映画にありがちな悪意ある人が出て来ず 「ミスターグッドバーを探して」にならずに良かったです。 まぁ話はデビッド・リーンのイギリス時代の「逢引き」のようでもあり、 ダグラス・サークのハリウッド50年代のメロドラマに近い話ですね。 なにか、この映画を観てジョン・フォード「静かなる男」を観たくなりました。
クロディーヌは地元では有名人
成人した脳性小児マヒの息子のひとり親である中年女性のクロディーヌは子供を他人に預けている間にアルプス山岳鉄道に乗り、山間のホテルのレストランに通っては単独宿泊の男性客を物色し、男の部屋での性交渉を繰り返す。ホテルのフロント係りの青年にチップを渡し、宿泊客の情報を得て、ターゲットを絞る。客の中には彼女の噂を知っていて、自分からアプローチしてくる男もいる。地元では有名なヤリマン美熟女なんでしょうね。
文化の違いを感じます。
息子役の俳優さんは実際に小児麻痺の俳優さんなのでしょうね。さすが。俳優の層が厚い。
映画の解説文からは日々の介護のストレスをセックスで発散しているだけかと思ったが、障害児を持つひとり親の寂しさや老いの恐怖から逃れるためのようにも感じました。さらには、誰にも訪れる人生の寂寥感を埋めるために焦っているようにも思えました。更年期近くの女性で身に覚えのある人も結構おられるでしょうね。
ひとり息子から子離れできない母親が息子に恋人が出来た途端に裏切られたと感じ、精神のバランスを崩す話をアルプスのダム湖や特殊なシチュエーションを背景にドラマ仕立てにした映画かなぁ。ダム底のガラス窓(映画セット?)の前に立つクロディーヌとドイツ人技師のミヒャエルのシーンや空港行きのバス停でクロディーヌが過換気を発症するのはオンディーヌ伝説(呪い)を想起しました。
地団駄踏んで悔しがる最後のカットはたぶんコウメ太夫よろしく「チクショー」って叫んでいたような。こういうラストシーンをエスプリに富んだユーモアと言うんでしょうか。
主演のジャンヌ・バリバールはかつてマチュー・アマルリックの奥さんだったひと。
うーん。
時々、カルセール麻紀に見えちゃったんですよね〜
イザベル·ユペールでは齢取りすぎだし、ジュリエット・ビノシュでは男たちが羨ましく思えちゃう。
なるほど~
シネスイッチ銀座に。一階の男子トイレはまだ和式のままでした😭有楽町マリオンのシャネルN°5の巨大ポスターのモデルがマーゴット・ロビーでした🤩ちょっと得した気分。
キモキモおばさん
綺麗なおばさまが“普段と違う自分”になるために似合わないどぎついお化粧を施し、お決まりの若作り真っ白ワンピにアンクル丈ブーツという出で立ちで週に一度二度山逢いのホテルに赴き、妖怪男漁りとなるお話。 いや〜入り込めなかった。共感要素ほぼ皆無。 映画が悪いのではなく、きっと結婚も出産も子育ても、自分が常に寄り添っていなければならない人との生活何もかも未経験だから自分の経験不足によるもの。 唯一好きだなぁ💜と思ったのは摺りガラス越しにうつったクローディーヌの体育座り下着姿。とっても色っぽかった。 それ以外はなんだか気持ち悪く感じた。 一方で、自分も将来あんな風に気持ち悪くなったらどぉしよぉという妙な不安も覚えた(←タブン、コノエイガノポイントハ、ソコデハナイ)
ありのままに生きたいと
許されぬものなど何もない、 介護の中の一時の安らぎに。 仕立て屋の糸を細く紡ぎ、 離婚を背負う女が、 山のホテルで男を探すのも、 車椅子の息子が、 ダイアナ妃の切り抜きを宝とするのも、 それは人生の賛歌。 静謐なスクリーンに宿るもの、 それは自由を希う魂の声。 束縛の影を抜け出して、 ただありのままに生きたいと、 静かに、しかし確かに、響き渡る叫び。
献身的母親、時々女
障害のある青年の息子を持つシングルマザーが、女性本能を満たすために、町から離れたスイス山中のホテルに時々通う、というお話。 ベッドシーンも多く、官能的といいたいところだが、熟年男女の裸には、正直辟易した。 スイスアルプスの光景が美しく、母と女の感情に揺れ動く女性を、ジャンヌ・バリバールが目ぢから強く表現。しかし、ストーリーは淡泊で、やや物足りなさを感じた。
人は独りでは生きられないけど、ひとり立ちの時は来る
なかなか難しかったですね。 母として子供に対する愛の注ぎ方、人として心を開放したい気持ち。 分かったようで分からないような、そしてここが良かったね、ここはいけなかったね、とも言えない気持ちを持ちながらエンディングを迎えますが、最後に観る人の心情に委ねられて、感じることは人それぞれ、同じ人でも観た時の心の立ち位置でも異なると思います。 親子にはいつか別れは来るものだから、どんなタイミングでそれを迎えるのかが大事ですね。 振り返って右手を上げた息子の顔がすがすがしく見えたワタシでした。 ダイアナ妃の事故が起きた1997年が舞台、タバコが当たり前でビデオデッキが使われる時代設定には何か意味があったのかなぁ……
誰だって自分のバランスを取りたいですから。
あの「氷山」は、水の上に7分の1を浮かべているのだそうだ。 そして誰にも見えないけれど、ほの暗い水の底に、残りの大きな塊を沈めている。 人も同じ。 クローディーヌは 自分の存在について、高低の、あるいは左右の、もしかしたら裏返しの、存在のバランスを取りたかったのだろう。 人は違う自分を手探りする。そして同時に今の自分を保ってゆくためには 場所と時間と相手を変えて、違うシチュエーションに生きる特別の時間が、何処の誰にでも、「息抜きのため」には人間には必要だからだ。 僕たちも時折、独りになりたくなる。 旅行に行ったり、自分だけの友人に会いに行ったりして、いつもの日常を離れる機会を自分に奢っているではないか。 映画館に出掛けるのもそうだろう。 大げさでなくても、均衡を保つため、無意識に我々は別の世界を求めている。自宅で誰だってコーヒーは淹れられるのに、例えば我々は外に出てカフェに行くではないか。 クローディーヌは 週に一度、バスとケーブルカーを乗り継いで山に登り、ミネラルウォーターを頼み、そして必ずタバコをふかす。 ホテルで男たちと肉体関係を持つ。 彼らが本名を名乗っているのかも、何処から来た何者なのかも疑わしい、お互いに行きずりだ。 ワンナイトだけで彼女にとっては終わってしまう逢瀬で、それぞれがクローディーヌの充電と気分転換のためだけの相手だった。 だから、注意深く長期滞在者を避けたし、一両日中には発つ客を選ぶ。次の週には決して顔を合わせない相手を選ぶことで、彼女は深入りはしない。 裸にはなるが、親密にはならない。それは彼女の頑なに守るルーティンだ。 体と心の障壁はクローディーヌの砦だ。 ところがドイツ人のダム技術者ミヒャエルと名前を交わし、言葉を交わしてしまった事で、彼女の“自慰”の生活と、週に一度の行きずりの習慣は壊れてしまったわけだ。 なぜバス乗り場で、クローディーヌはミヒャエルについて行けなかったのだろう。 理由は何だろう。 ミヒャエルの行き先が南米ではなくたとえ隣町であっても、やはりクローディーヌは足がすくんだのだろう。 息子がもう何の問題もなく、施設で安住していても、それでもこの母は あと一歩が踏み出せなかったのだろう。 理由は分からない。 突然に怖じ気づいて息が出来なくなること、 過呼吸でもう自分が駄目になりそうなこと、 壊れそうな自分の喉の奥から、抑えようのない動物のような絶叫が出てしまうこと。 僕たちにもそれは有るのではないか。 氷山が黒い水の中で動くのではないか。 ・ ・ まるで地の果てのような世界。ホテル。 自作自演の手紙だけがクローディーヌの支え。 バティストの世話をしてくれる婦人は、クローディーヌの“秘密”を知っていても、このシングルマザーの事情を黙って支えている。 人間の存在を揺るがす、まるでドイツ映画のようなスイス・ベルギーの合作作品。 会話はフランス語を主体に各国の言葉が飛び交う。 水と空を隔ててそびえるコンクリートのダム躯体が ついに“決壊” 出来なかったクローディーヌの心中を表すように、無情にも、微動だにせず立ちはだかって視界を塞ぎ 映画は終わった。 僕も目を伏せて映画館を出た。 誰にも会いたくなかった。 ·
ダムってカッコ良いなぁ。
ジャンヌバリバール素敵。 調べたらメモリアとコールドウオー見てた。 こんなカッコいい俳優だと全然気が付かなかったよ。 ダムのあっちとこっち、それが自分自身。 決壊してはいけないのがダムなのよ。 エロやフェチはあるけど全体的に抑えた表現がやはりダムです。 お針子さんや子供と接する柔らかな表情とホテルで獲物探ししてる時の表情の違いがグッときます。 熟女好きはマストです。
壮大な自然と女性性
まず、ロケ地が全部美しい。家の周りにある大きな樹も含め、美しい絵画のよう。 そしてメインテーマの女性性と介護の話、これはもうジャンヌ・バリバールさんじゃなきゃ成立しない色香と演技力、まさにおフランス映画という感じで、すごく異国感あって良かった。 これぞ非日常の映画体験。
【”愛を交わすと姿を消す女。”山間のリゾートホテルを舞台に、障害ある息子への献身と少しの欲望の狭間で生きる仕立て屋の女の姿を詩情を漂わせて描いた作品。】
■アルプスが見える小さな町で、障害がある息子バティストを育てるクローディーヌ(ジャンヌ・バリバール)。 彼女は、仕立て屋を営みながら、リゾートホテルで一人旅の男性との情事を愉しんでいた。そして、その男の語る旅の物語を、バティストの”父の手紙”として投函し、彼に聞かせていた。 だが、ある日、ドイツ人のダム設計屋のミヒャエル(トーマス・サーバッハ―)と出会い、彼女は彼に惹かれ、ミヒャエルもクローディーヌに惹かれて行くのである。 ◆感想<Caution!内容に触れています。> ・良き母と、たまの情事を着飾って愉しむクローディーヌを演じるジャンヌ・バリバールの二面性の演技が、ナカナカである。ゴックン。 ・夜は10時に寝て、朝は6時に起きるルーティーンの日々の中の、クローディーヌの束の間の愉しみ。 ウエイターに”もうすぐ帰る男は?”と聞いてチップを上げ、妖艶にテーブルに近づく姿と、腕の良い仕立て屋として働く姿と、障害がある息子バティストの好きなダイアナ妃の写真を切り取ってあげたりする姿のギャップが凄いが、クローディーヌがバティストを大切にしている事は良く分かる。 ■ミヒャエルとは、何度も情事を楽しみ、お互いに惹かれて行く姿。そして、クローディーヌは、母としての道から女としての生き方を選ぶシーンの描き方が、ナカナカである。 ミヒャエルから、仕事先のアルゼンチンへ一緒に行かないかと誘われ、悩んだ末に・・。だが、障害がある息子バティストは、手を振ってからサラッと障害施設の方へ駆けて行ってしまうのである。振り返りもせずに・・。 <今作は、山間のリゾートホテルを舞台に、障害ある息子への献身と少しの欲望の狭間で生きる仕立て屋の女の姿を詩情を漂わせて描いた”様々な事情を抱えた大人の恋愛映画である。>
フロントマンの絶妙なフォローがちょいと楽しかった
週に一度同意の上でその場限りの情事で 心身のバランスを保っている様な主人公クロディーヌ 山の麓の小さな町で仕立て屋を営み息子に献身的な愛を注ぐ彼女…ほぼ素顔に近いナチュラルなメイクとシンプルなファッションのママの顔の方がむしろ美しく見える 真紅の口紅で山歩きに不似合いなブーツを履き 山のホテルに向かう彼女に何故だろう どこか老いの痛さをも感じてしまう マダムとママ…演じるジャンヌ・バリバールの 表情と動作に凄みを見せつけられた ある男性との出会いが彼女の折返しに入った 人生に葛藤と決断を求める状況になる 障害がある息子の世話をしてくれる隣家の女性が言った「あなたは間違っている」…いや彼女の選択には多分正解も間違いも無いのかも? と思えた結末でした
障がい者の家族ケアからの解放の結末の一つ
脳性まひの息子の世話を隣人に頼んで、母親は性交渉の相手を色々選んで楽しんでいるというのは、日本人の感覚では許し難いところだろう。息子や隣人が時々みせる不満も当然のことだろう。相手を変えていた母親も、一人の男性に関心が向いてしまい、その男性から、隠していた息子のことを知られてしまった。隣人の不始末を咎め、契約を切り、息子を施設に入れることにした。いざ息子と別れることになると、二の足を踏むことになり、息子は割り切って施設に行ってしまい、母親は選択を後悔して慟哭に暮れる。『ギルバート・グレイプ』も、家族へのケア役割から逃れたい願望のある人物の話ではあったけれど、偶然の事故からその役割から半分解放され、恋にも希望がもてるようになっていて、本作とは違った結末であった。
熟女のベッドシーンは観たくない(例外はありますが…)
前置きとしてストーリーは記しません。シニア目線のコメントです。主演女優 ジャンヌ・バリバールが、母として女としての気持ちの葛藤を演じた作品だと思う。一番のポイントはスイスの景観が美しいこと。映画館で観る醍醐味だと感じた。ジャンヌは、母としての感情とひとりの女性として男に恋する気持ちの推移を演じきっていた。ところどころの葛藤する表情や切なさ、やるせなさの表情が鑑賞者に伝わってきた。
反面、数回出てくるベッドシーンに興ざめしてしまった。私は還暦過ぎているので、人のことは言えませんが、失礼ながらジャンヌさんの裸体はどうかなぁ…と思ってしまった。彼女は実年齢56歳だが、たとえば歳の近いソフィ-・マルソーだったら歓迎だし、日本の女優さんだと同年齢の鈴木京香、飯島直子、大塚寧々さんだったら大歓迎です😅。(←外見の判断ですが…)ジャンヌさんの演技が良かっただけに、ベッドシーンではなくて、他の表現方法を取り入れて欲しかった。
ヒロインの分裂がラストに従って頂点になること、何も語らないこと、な...
ヒロインの分裂がラストに従って頂点になること、何も語らないこと、など面白かったとはいえ、テーマは古い。
ダイアナ妃が亡くなった1997年
息子のバティストはダイアナ妃の大ファン。 ダイアナ妃の写真を切り取っているクローディーヌは、山の麓のホテルで自分から男に声をかける。 どれも一度かぎりの相手。 主役のかたは1968年生まれ。 相手役の男性は1961年生まれ。 熟年から初老の世代の情熱が美しい。 仕事に子育てに介護、、、 誰だって解放されたいと思うこと、ありますよね。 舞台は1997年のスイスですが、あえて?風光明媚な観光地ではなく、欧州最大のダムがある場所。 せきとめられている水に、彼女の「解放されたい」という声が聞こえてくるかのよう。
ジャンヌ・バリバールの演技が凄い!
ジャンヌ・バリバールはバティモン5やボレロ永遠の旋律で観たが、彼女の主演作は初めてなので観た。 ストーリーそのものもあるが、妖艶でセクシーさはさすが。 さて、この作品は彼女の息子が障害を抱えている。息子の世話をしながら洋服の仕立て屋をやり、ストレス発散?でホテルまで行き男性を奉仕する。ドイツからきた水のビジネスマン男性に惹かれつつも障害を持つ息子が心配で迷う。 迷いを仕草や表情など演技で見せるジャンヌ・バリバールは見事だった。 ただ、ストーリー・脚本は今年公開したパリの小さなオーケストラ同様もう少し掘り下げてもいい。 ストーリーは最後落ち着き良かったが。 ジャンヌ・バリバールの演技、日本語題の山逢いの逢を敢えて使ったのは評価したい。
感情に流された母、現実を見ていた息子、その先にあったのは何?
2024.12.3 字幕 アップリンク京都
2023年のスイス&ベルギー&フランスが合作の映画(92分、R15+)
避暑地のホテルでアバンチュールを楽しむ母親を描いたヒューマンドラマ
監督はマキシム・ラッパズ
脚本はマキシム・ラッパズ&マリオン・ベルノー
原題は『Laissez-moi』、英題は『Let Me Go』で、「放っておいてください」という意味
物語の舞台は、1997年の夏、スイス・ヴァレー州にある山麓のホテル
毎週火曜日に白いワンピースを着てそこに向かうクローディーヌ(ジャンヌ・バリバール)は、ホテルマンのナタン(アドリアン・サヴィニー)から情報を経て、もう少しで帰る男性一人客に声を掛けていた
男から住んでいる街の話を聞き、自らが部屋へ誘導して情事を重ねていた
彼女には障害を患う息子バティスト(ピエール=アントワーヌ・デュぺ)がいて、火曜日だけは隣人のシャンタル(ベロニク・メルムー)に預けていた
ある日のこと、ダムの上を歩いていたクローディーヌは、測量か何かをしている男とすれ違う
男は場違いなところに場違いな服装の女がいるなと思い、彼女に興味を持った
男はドイツから来た水力発電の専門家ミヒャエル(トーマス・サーバッハー)で、ホテルで彼女を見つけた彼はアプローチを開始する
クローディーヌは彼の誘いを受けて一度限りの関係を結ぶが、その出会いはいつもとは違うものだった
物語は、クローディーヌの日常を描き、彼女が裁縫師として、服の仕立てで生計を立てていることを描いていく
だが、馴染みの客ぐらいしか相手にできず、いずれはジリ貧になることはわかりきっていた
息子の介護に従事することを覚悟していたが、そういったものがミヒャエルとの出会いによって変化していく
また、バティストはダイアナ妃の大ファンだったが、彼女の訃報がどのような影響をもたらすか想像できなかった
映画は、ミヒャエルがアルゼンチンにいくことになって、それにクローディーヌが付いていくかどうかを問われる流れになっていく
当初は家を売り払い、息子を施設に入れることを決断していたが、最後に迷いが出てしまい、ミヒャエルは行ってしまう
その後、息子の元に向かうものの、彼は施設利用者と仲良くやっているようで、家に帰りたがらなかった
束縛のある生活の中で、解放を欲していたはずのクローディーヌだったが、全てを失うことで自由を得てしまう
息子には新しい居場所があり、自宅に帰っても仕事はもう無い
隣人とは訣別したし、ミヒャエルも地球の裏側にいるようなもの
結局のところ、自分を自分たらしめていたものの正体を知ることになるのだが、彼女は女性として再出発する道すらも放棄してしまっている
制約があることの生きづらさよりは、自由すぎることの生きづらさが重くのしかかるのだが、これはそれまでの人生というものが意外とうまく回ってきたからなのだろう
いずれにせよ、人生を賭けてきたものの喪失というのは意外と埋めるのが難しい
クローディーヌは、息子、仕事、恋人の3つを同時に失っていて、それをもたらしたのが優柔不断さだったのいうのは致命的なのだろう
息子に関しては、クローディーヌの加齢とともに施設に頼らざるを得なくなるし、仕事も年々減ってきている
火曜日のアバンチュールもそのうち相手にされなくなるので、ミヒャエルとの関係は最後のチャンスだったように思える
「放っておいて」というタイトルがジワる作品ではあるものの、この結末を予想できるなら、クローディーヌの人生はもっと解放的なものだったのかな、と感じた
シャンタル・アケルマンを思い出した
映画の中の大きなダムは、1995年「007/ゴールデンアイ」に出てきたヴェルザスカ・ダム。ロカルノに近いスイス南部のイタリア語圏ティチーノ州にある。 フランス語を話す主人公のクローディーヌは、ふもとの村に住んで、障害のある成人の息子を養いながら、仕立て屋をしている。しかし、火曜日になると、ケーブルカーで山を登ってリゾートホテルに行き、フロントマンの理解を得て格好の男を見つけ、言葉の要らない時間を過ごす。 彼女は、決して「その場限りのアヴァンチュールを楽しんでいる」のではなく、束の間の「Plaisir de la vie」生きる喜びを味わって力を得、やがて息子との生活に戻ってゆくのだ。そうだ、この映画は、あのシャンタル・アケルマン監督の傑作「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080, コメルス河畔通り23番地」の続編なのだ。 しかし、彼女にも息子にも未来がある。さて、どうするか。 私は、クローディーヌに扮しているジャンヌ・バリバールは、ワイングラスを手にする時、最も美しく輝いて見えたが、皆さんはどうだろうか。 この女優さんは、インタヴューに答えて、日本映画以上、巧みに、女性の表面上の(社会的な)顔とは異なる別の顔を描いた映画はない、と述べている。なんて、傑出した女優さんだろう。限りなく、共感を覚える。
全28件中、1~20件目を表示