悠優の君へのレビュー・感想・評価
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等身大という最上級
悠優の君へ ― 静かなビッグバン
59分の物語は、余計なものを削ぎ落とし、ただ「生きていること」だけを映し出す。
監督が求めたのは演技ではなく、彼女たち自身だったのだろう。
だからこそ、あの涙は役のためではなく、心の奥底から溢れ出したものに見える。
手を洗う所作。それは清めるための行為でありながら、どこか自傷に似ている。
違うのは形だけで、その根幹は同じだ。
自分を守りたいのに、傷つけてしまう。
結局、自分の心は自分でしか持てない。
その強い観点が、様々な所作に現れる。そこに垣間見える自己否定と自己憐憫。
悠は、異常なほど手を洗う優乃を見て、自分自身を重ね合わせる。
彼女の所作を言葉にすることで、それを共有し、分かち合った。
その些細なことが、静かなビッグバンとなり、優乃の心を救い上げる。
それでも彼女は、手術前の看護師のように手を洗い続ける。
そして、それを忘れるように悠に電話する。
やがて、両手で桜の花びらを捉えようとする。
自己憐憫を静かに破壊する、無邪気さという名のビッグバン。
七歳の優乃に何が起きたのかは語られない。悠の闇もまた明かされない。
焦点はあくまで現在の二人であり、互いを見つめる視線だから。
タイトル「悠優の君へ」は、その視線の往復を示す言葉だ。
悠から優乃へ、優乃から悠へ。互いが互いに向ける、静かな祈り。
空は二人にとって憧れの場所。
空になりたいという言葉は、死を連想させる。
けれど、空は自由の象徴でもある。
二人はその空を見るために海へ行く。海では、空が一番大きく見えるからだ。
お互いの闇を告白し、「もう十分によく頑張った」と労わり合う。
たくさん傷ついたからこそ、優しさがあって、愛であふれていることを教え合う。
そんな時期の等身大の「私」を、ありのままに描いた作品。
それが『悠優の君へ』だった。
人との繋がりの見える柔らかな物語
主役の女の子は超美少女
映画のテーマは良いと思います。
しかし、チョイ役の高校生は全く演技になって無いし、ダブル主演の2人の女の子の演技も気になる。
途中から慣れてくるけれど。
主役の女の子は超美少女です。
1時間弱の短い映画ですが、場面の暗転が十回くらいある。
暗転が多い映画って、シラケます。
そして、ロングショットの映像がガタガタ揺れて、気持ち悪くなりそうでした。
少し期待外れでした。
水道代エグそう
58分と短尺ながら、正直退屈でした。
まず、優乃はまだしも悠の演技に抑揚がなく機微が読み取れない。
モノローグも授業の教科書朗読レベル。
ほぼ二人芝居なのにこれでは観ていてキツい。
その上画面も似たようなカットが多く、物語の起伏も少なく、演技をカバー出来る部分もなかった。
物語としては単純で、それ自体は悪くない。
ただ、話したこともなかった2人の親密度が急上昇することへの納得感はもう少しほしいところ。
友情が支えとなり希望となることに異論はないが、ひとつの作品としての浅さは否めない。
強迫性障害について勉強になったとも思えないし、悠の背景もイマイチ描ききれていないので余計に。
台詞が直接的過ぎて、友情でなく百合っぽく見えるところも気になった。
演技、脚本、撮影規模(ロケ地や衣装の数など)、テーマの掘り下げなどは残念ながら高校の部活レベル。
エンタメにも啓発にもなりきれておらず、中途半端さを感じてしまった。
本人にしかわからない思いを、伝えることのむずかしさ
他人にどうしても理解してもらえない事を、胸に秘めている人はいるのだろうが、それをわかってもらえない苦しさが、十代の未熟な時期のやりとりとして描かれると、自分がかつて通った時期だからこそ胸が痛くなった 「それ」を自分で病気として認めることは大きな壁であるし、何度も苦しんだうえで心療内科や精神科を受診しても、たかだか数分の診察時間で伝えることの難しさを思うと、この主人公の優乃が一人で病院に行って大丈夫だったのだろうかと心配になった この映画、監督自らの幼少期からの体験がベースになっていることが語られていて、きっと監督は何らかの治療を受けて、今日こういった創作活動ができるところにおられることを思うと、完治することはむずかしくても、このテーマを解決すべく闘っている監督の姿を嬉しく思う 悠を演じた水崎さんと監督は同級生で、監督がこの病気と向き合っていたであろう地元神戸で製作されていることも、事実の重みを感じる
精神科や心療内科の医師、また相談支援を仕事にされている医療ソーシャルワーカーの方たち、患者や家族は大変な思いを日々している中で、自分の思いをやっとの思いで「受診」「相談」しているのだから、その思いに携わられている方は向き合って欲しいと思います
他人から見ておかしいと感じる「常識」と闘っている方たちが、相談しやすい場がたくさん作られますように(12月12日 京都出町座にて鑑賞)
傷付き続けていい人なんて、いないんだよ
人知れず不調を抱える優乃と、それを見守る悠が少しずつ接近し、前に進む姿を描いた物語。
引いた距離から二人を長回しで撮る場面の、ゆったり・ゆっくりとした独特の空気感に癒しを感じる作品だった。特に、波打ち際で二人が会話するシーンで砂の上を歩くふらふらとした歩みや、会話の受け答えの隙間に表れる人間味が心地よかった。
強迫症に対する理解が深まれば、と作られた作品だそうだ。
強迫症は行動こそ特徴的であるが、強迫観念と強迫行動の因果関係、またそれに対する当人の許容範囲が必ずしも合理的でないために周囲からの共感が得られにくいケースが少なくない。強迫観念や強迫行動は表出する一角にすぎず、ストレッサーとの関連性が薄い場合もある。そのため周囲が当人の困りごとに寄り添おうとしても共感したり説得して安心させることが難しく、かえって当人の孤独を深めてしまうことにもなりかねない。
本作はそうした強迫症の機微をとらえ、優乃の苦しみの表現や悠の寄り添い方について不調者ファーストの描写をしていたと思う。監督が強迫症の経験があるとのことで、きっと監督は自身の病識を得る方法や、寄り添ってくれる人と良い出会いをされたのではないだろうか。
心の病をケアする体験談においては度々、レアな環境や一足飛びの展開が『理解ある○○』などと揶揄されることも多い。おそらくそれらの体験談は本人の活動記録に終始し、『理解ある○○』の何がどう本人に効いたのかが整理できていないのだろう。自分は、悠の優乃への寄り添い方や優乃が悠に手を差し伸べ返そうとした形にこそ、ケアを支える人・ケアに臨む人・支え合う人々の普遍な形があるように感じた。関係の深さや長さ・実効性は別にして、『理解ある○○』は決して稀なものではなく誰でもがなれるのだと思う。
未診断の時点を描いている物語であるため、本編には強迫症という言葉は出てこない。だからこそ心と体が思い通りにならない生きづらさを抱える人全てに当てはまる物語だと思う。強迫症に悩む人だけでなく、多くの人に届いて欲しい物語だった。
物語はいまひとつ、描き方は好きだった
色々、考えさせられる作品
強迫症は名前に関して聞いたことがあってもどんな病気かわからなかった。
今回の作品は、強迫症について知ることができ良かった。悠も一人が好きで
人との付き合いが苦手。優乃は頻繁に手を洗わないと気が済まない。
優乃の行動がきになった悠が、話しかけたことがきっかけで優乃は本音を話す。どんな場面でも、人の悩みを聞いてあげ、自分も打ち明けてお互い理解
しあえば、乗り越えられる。この2人の行動から学んだ。素晴らしいストーリーで、色々考えさせられる作品だった。
本日定休
強迫性障害歴20年
(オンライン試写会はネタバレ扱い)/短い問題提起の映画としては良い内容
今年359本目(合計1,451本目/今月(2024年10月度)10本目)。
※ (前期)今年237本目(合計1,329本目/今月(2024年6月度)37本目)。
日本では統計や定義によって多少違いはありますが、あることをしたかどうか何度も確認するような症状が主に浮かべられる「強迫症」(例えば、旅行の時に蛇口をしめたかどうかを「過度に」気にすること)をテーマにした映画で、一説によると50人に1人とされるようです。
確かに強迫症といってもいろいろなものがあって、よく例として出される「蛇口をしめたかどうか過度にきにする」という類型等で言えば確かに「誰でも」「一時的に」そういう状況になることはありうるので(旅行の性質上、いきなり戻ると旅行代がもったいない)、その意味で考えると潜在的にはもっと多そうな気がします。おそらく「50人に1人」というのは、それらの「よくある例で、例示にはなっても社会生活自体に支障をきたすものではない」ものは除かれているのだろうと思います。
一方でこれらの行動は多くのことが知られておらず、また蛇口を何度も確認したり、あるいは手を洗ったか何度も確認したり(←結果的に水の無駄遣いが起きる)といったことそれ自体が民法上問題になることは少なく(刑法上も問題になることは少ない)、一方でこれらの相談先は心療内科や精神科などになると思われるところ、そこもまたこの強迫症を専門に扱っている病院は大都市である大阪市ですら確かに探せばできますが、逆にいえば探さず適当に行くと、しばしば「不眠のお悩みですか?」で睡眠薬が渡されるだけ…となって問題の解決方法が探しにくいというのは確かに言えますね。
また、日本ではこのことは多くのことが知られていない一方で、蛇口を何度もチェックしたり、過度に水を使って手を洗ったりという「度を越した行為」については「あの人変だなぁ」と思われるのも心外でしょうが、映画というまとまった表現媒体で公開されることによって、こういうことで悩んでいる人がいることを知ってほしいこと、にあるのだと思われるため、60分ほどのシンプルなストーリーで「こういう人もいます」ということを知ってもらういい機会になるのでは、と思います。
ミニシアター中心で公開されるようで、どこまでその「意図」が伝わるかはわかりませんが、身近でよく知られていないこの「病」(この「病」は身体的な病気だけではない。つまり、「健康な状態」に対して何らかが欠けていることで起きる状態を言う語)が映画公開によって理解が広まるとよいな、と思っています(この病気の性質上、「こういう人もいる」ということを知ってもらうこと、それ自体が本質的であるため)。
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