クィア QUEERのレビュー・感想・評価
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欲望の果てを楽しそうに演じるクレイグに拍手
監督のルカ・グァダニーノは17歳の時にウィリアム・S・バロウズの原作と出会い、いつかそれを映画化したいと考えていたとか。バロウズは既存の常識や価値観を否定し、新たな視座を提案する作家集団、ビート・ジェネレーションに属していた。ビート世代は性的嗜好や性欲そのものに肯定的な立場だったので、世間の目を性的マイノリティに向けさせる役目も果たしたと言われる。つまり、グァダニーノの映画作家としての方向性を決定づけたのがバロウズで、原作者の自伝的要素が強いその名も『クィア QUEER』は、長い時を経て、作られるべくして作られた作品。いつも製作リストにない新作を突然送り出してきてびっくりさせるグァダニーノだが、今作は彼にとって一際重みのある1作のようだ。
湿度が高い夏のメキシコシティのゲイコミュニティから、一気に南米のジャングルへと舞台をチェンジさせていく物語は、バロウズと思しき中年のゲイが、美しい青年に一目惚れして、ドラッグの力も借りて辿るさながら道行きのよう。飛ぶ(翔ぶ)という意味ではWトリップのような道程は理屈抜きで感覚優先。人によって置いてけぼりの危険性が大だが、人間と欲望の関係について描いてきたグァダニーノ作品として紐づければ、自然と共感できるはず。
何しろ、15年間に及ぶボンド時代からようやく解放されたクレイグが、男の前で踊ったり、泣いたり、やりたい放題で実に楽しそうだ。その至福感だけでも見る価値はあると思った。
「黄色」と「藤色」
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印象的に「黄色」と「藤色」が使われるスクリーンですよね。 タイトルバックの文字も、ポスターも。
この色合いは、優しい花畠の色です。
でもそれは「やわらかい補色」でもあって、つまり「うらはらの色」であり、衝動性とクールさの対峙も示している気がします。
この二色は リーと、ユージーンの色・パーソナルカラーであるかも知れません。
求めた男と、去って行った男の物語です。
予告編で「この鮮やかな色使い」に真っ先に目が奪われたゆえ、僕はぜひともこれ、鑑賞したいと願いました。
ウィリアム・バローズが原作者である事も、本作への興味が強烈であった理由。
(バロウズの映画はざっと50本もあるのです)。
本人登場のインタビュー・ドキュメンタリー「ウィリアム・S・バロウズ 路上の司祭」には僕は心底痺れたものです。
加えて「シェルタリング・スカイ」の作家ボール・ボールズ氏とこのバロウズ氏は《彼らは一緒に暮らしていた事があるらしい》から。
うーん。はいはい、なるほどなぁという感じ。
バロウズの自伝的小説がこの映画の原作となっています。
中南米や中東の砂漠地帯など、西欧人にとっては”辺境“と呼ばれる未知の世界が、彼らの「人間観察小説の舞台」になるようです。
・・
【俳優 ダニエル・クレイグ】
惹かれ惹かれてグダグダになり、
我慢出来ずにユージーンに恋い焦がれてゆくリー(第一部)。
メキシコの黄色い光がすべての場面を満たすけれど、意外とライトな雰囲気で物語が進行するのは、軽快な音楽を画面に重ねたゆえ。(サントラについては後述)。
この俳優ダニエル・クレイグさんがねぇ、
またホント良いんですわ。
「007」の6代目ジェームス・ボンドを彼は務め上げて、あのシリーズはその後しばらく途絶えている。5年もの空白期間に入っている。それだけ彼のキャラクターは大きかったと云う事だと思いますね。
孤児院育ち。内に秘めた陰と憂い。誰にも立ち入らせない過去のある男=ダニエル・クレイグの、あの人となりです。
この人が先代のピアース・ブロスナンからバトンを引き継いでの「新しいジェームス・ボンド」に抜擢だと発表されたときには、それまでとの毛色の違いに世界中が至極戸惑ったはずです。懸念しかなかったです。
こんなにも「暗い顔の男!」だったからです・・。
「歴代の 007」は
初代 : ショーン・コネリー
2代目 : ジョージ・レーゼンビー
3代目 : ロジャー・ムーア
4代目 : ティモシー・ダルトン
5代目 : 華やかなピアース・ブロスナン 、
そして
6代目が このダニエル・クレイグ( 〜2021)。彼は最終作「ノー・タイム・トゥ・ダイ」で死亡している。
彼は、人物としての深みと、不可解さのオーラを合わせ持っている。
諜報部員として、シリーズに奥行きを与えた、群を抜いていい役者さんだったと思うのです。
で、映画ファンとしては、007そのものであった彼らが、シリーズ降板のあとで、それぞれどのような「転身」を遂げるのか ―?。それも我々の大きな関心事だった訳でね。
そして今作の「クィア」なのです。
「そうきたかーッ!」ww が正直な感想。
会心作です。アクションものでなくてもこの人はこれだけイケる。台詞無しでもこれだけの長いカットを鮮烈に演じられる人だった。
映画館での鑑賞を逸したので、ようやく配信での視聴となりました。
一番沁みたのは、ここかな?
「部屋に戻り、モルヒネを打って、紫煙を深く吸い込みながらユージーンを想っている」「あの長回し」。
これ、計ってみたら2:40秒のワンカットだった。
ダニエル・グレイグ、ちょっとこの人は凄いのではないか。
⇒バックにはニュー・オーダー(New Order英)の「Leave Me Alone」がBGMに流れる。
ここまでの「第1部」だけで映画が終わってしまっても構わないほどの、その画面の充実感と完成度があった。
・・
映画はその後「短い旅路の第二部」を経て〜そして「第三部からは麻薬性の植物『ヤへ』による幻覚の世界」へと急展開。
密林のサスペンスの様相。
CGを駆使してのあの二人の融合は「アンダー・ザ・スキン」を求め合うトランス状態かも知れない。
でも実感としては一瞬のサブリミナルで良かったのに、この第三部のジャングルのパートは長すぎて少々飽きた気が。
つまり、かつての007を匂わせるようなミステリーな第三部は ”無くても良かった蛇足のパート“ だったと僕は思うのだが、皆さんの感想はいかに?
・・
【映画のコンセプト】としては
・他作=お利口さんなハリー・ポッターのダニエル・ラドクリフくんに「スイスアーミーナイフ」の死体役をやらせちまったあれとか、
・クリストファー・プラマーに意表を突いてゲイ・カミングアウトをさせた「人生はビギナーズ」とかに通じるスタイル。
つまり、《まさかの役どころ》に登用と云う意味で。
笑えたのは
しつこくじゃれつくリーを「おやじ、おめーウザったいんだよ💢」と突き飛ばすユージーン。
で、床に無様に転がる中年の酔っ払いのリーなのだが
つい、昔とった杵柄ですかね。受け身のダニエル・グレイグは007 のそれだったこと。
・・
【癖が強い監督】
「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督は、
その作風は、アカデミックさとプラトニックな愛をフルコースの”前菜“に供しながらも、
(しかし今作でも同様なのだが)、
後半では直截な性愛行為をぶち込んでくる作家だから、特異な作風ではあるが、
このセオリーに縛られず、いずれはもっと違う映画にもチャレンジしてもらいたい人だ。
つまりツギハギ感が否めない。
二作続けての同じレールなので。
ぜひダニエル・クレイグに習って監督も殻を破ってほしい。
・・
【総評】
無敵の英国諜報部員にメロメロの「クィア」を演らせた今回のアイデアは良かったけれど。僕としては大幅カットで第一部のプロローグと 巻末のエピローグだけでも十分だった。
原作味読ではあるが、ジャングルは要らない。レスリー・マンヴィルも要らなかった。
あとパンフレットやポスターに使われた「黄色いショールを肩に掛けた二人の笑い顔」が劇中には登場しなかったのは、とっても残念だったかな。
でも「薬草ヤヘを探し当てて、肉体だけでなくテレパシーでもステディの存在と繋がりたい」と無邪気に願うのは、ギャグではなくて
リーの、ユージーンに対するモノホンの愛だったのかも・・と
ここまで書いてみて
ようやく思った。
(了)
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付記、
【サントラについて】
検索オススメ
⇒[『クィア/QUEER』の挿入曲とサントラ ] 。
ご機嫌なラインナップでしたね。
ニルヴァーナ、プリンス、ニュー・オーダー、ベニー・グッドマンやコール・ポーターまで、
場面ごとに当てられた楽曲が、解説と動画付きで全曲紹介されています♪
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そして長くなったけれども、
そして書き落とすところだったけれど、
【自分の中の 《クィア》発見について】 ―こんな特別な体験があったのでメモを2点 ―
① 平日の昼間に、僕はスーパー銭湯に行ったところ、ほぼ貸し切りでした。脱衣室から広い浴室に入ったら、何となくあちらからずっとこちらを見ている気がするお兄さんがいて。
ん?知り合いかな? いや違うだろう。
で、目を閉じてゆっくり露天風呂に浸かっていたら 太ももに=誰かの太ももがそっと触れてきてびっくり。いつの間にか「あの彼」がピッタリ横にいるし!
驚いている僕の様子に、彼は静かにお湯の中を離れていきました。
「ハッテン場」だったらしいのです。
へぇ~、こんな事があるのかよ!と初めての、とっても不思議な体験でした。
だから、
リーがユージーンを見つめたカフェ「シップ・アホイ」での、あのシーンがね、なるほどなぁと思うのです。
(この映画を観たあとの今ならば、僕からも、せっかくの機会ですから何か話をしてみたかも知れない)。
② もう一つ。仕事場で起こった突然の心の動きについて。
いつも一緒に仕事をしている小柄な男の子を、なんだか突然抱きしめたい衝動に襲われて、自分自身の心の動きに驚愕。胸が堪らなくギュッと締め付けられたのです。
後から冷静に自己分析をすれば「ホモ・セクシャル」と「ヘテロ・セクシュアル」は、同じ僕という人間の中にもグラデーションのように、シームレスに備わっていて、
たとえば光の陰影や、風に流れる雲の様相のように、感情も本能も元々混在して、黄色や藤色の補色のように、
そのようにふと現れてくるのだと知ったし、
「父性愛」も「母性愛」も僕たちは普通に両方を所有していて、ちっちゃい子に対しては抑えようのない「保護衝動」が湧き上がるのだと理解した。
これは知っておいて良かった稀有な体験であった。
この①と②があったからこそ、映画「クィア」が僕にとっては、より既視感もある、実のある物語、になっていたのだと思われる。
片想い
永遠の片想い。
すごく簡単なあらすじを書くと、酒とドラッグに溺れる中年男性リー(ダニエル・クレイグ)が、若く美しい青年ユージーンに一目惚れしてどうにか彼を手に入れようと頑張るお話です。
なんかね、前半はリーがユージーンと出会って少しずつ距離を縮めて、なんとか体の関係まで漕ぎ着けるんたけど、ユージーンは掴みどころがなくてリーのことを翻弄するわけ。前半の見所はうつくしくも生々しい濡れ場だったりするんだけど、本当にリーがユージーンが好きで好きでがっつくところが可愛かったです。中年男性なんだけど、精神が中学生ぐらいな気がしました。
で、問題は後半なんだけど一気によくわからなくなってきて。あまりにユージーンの心が掴めないので、リーはテレパシーができるというドラッグ「ヤヘ」を求めて南米のジャングルにユージーンと一緒に向かいます。なんだかんだで2人はヤヘを口にして幻覚モードに突入。ここからは視覚的には面白かったんだけど理解はできないモードに。
ヤヘで強烈な体験をしたリーとユージーンはここで離れ離れになります。それからかなりの時が過ぎ、年老いたリーは記憶のなかのユージーンとベッドで足を絡めながら息を引き取っていくと言う。なんとも切ないラストシーンでした。
観て良かったとは思うんだけど、後半の擬似ドラッグ体験みたいなシーンが長くてちょっとダレました。まあまあかな。
ダニエル・グレイグの演技は見事。
配信(アマゾンレンタル)で視聴。
この監督の作品は昨年公開のチャレンジャーズ以来だが、まさか同性愛のストーリーとは思わなかった。作品全体はそこまでささらなかったが、ダニエル・グレイグの演技は素晴らしかった。まだ、観ていないが、ダニエル・グレイグは007シリーズの主演俳優。彼の作品も観てみたい。
ぞっこんメガネ
妻殺し、ジャンキー、ゲイ、SF小説家…様々な肩書きをもつウィリアム・S・バロウズによる未完の半自伝小説を、同じくオープンゲイの映画監督ルカグアが自由に翻案した映画である。ダニエル・クレイグが演じている主人公作家リーが一応バロウズという位置付けになっているが、お相手のユージン・アラートンを演じたドリュー・スターキーが若きバロウズにクリソツなことにお気づきだろうか。手前勝手な推測で大変申し訳ないのだが、ルカグアのオルターエゴであるリーが内に抱えた葛藤を、生前のバロウズに相談する架空ストーリーに翻案化しようとした作品だったのではないだろうか。
「バロウズの小説を読んだとき、この作品は私自身について語っていると感じました。小説としての形式が私の理想に近かったこと、そして他者との深いコミュニケーションを求めるというコンセプトが、私に強く訴えかけてきたのです。形式主義者として、ひとりの人間として、そして成長途中のアーティストとして、これこそが映画で語りたい自分自身の真実だと思えました」(インタビューより抜粋)
街で見かけたアラートンがクィアか否かを確かめたくてしょうがないリーが、イラついてテキーラをがぶ飲みするシーンが至極滑稽だ。ゲイバレを恐れずひたすら前進あるのみのリーは、“ムカデ”なみの欲望ギラギラオジサンである。若いアラートンが旨そうな料理にパクついていても、このリーなぜか一切食事に手をつけない。その欲望は100%“(アラートンの)男根?”に向けられ、観客の私たちもついつい、2本のタバコや支柱、二匹の闘鶏までもがそのメタファーに見えて来てしまうのである。酔っ払った勢いでついに「言葉の無い会話をしよう」とアラートンを自宅に誘い出すことに成功するリー。
「人は話をするとき、実際にはありとあらゆる方法で話しているものだと思います。言葉だけでなく、肉体や精神、魂、あるいは手足──それらすべてを使って。ただし、本当にすべてを使うかどうかには抑圧の問題があります。“ひとつの方法でしか話さない”と決めることは大きな抑圧ですから。リーとアラートンは、ありとあらゆる方法で話そうとしますが、しかしその激しさに耐えられなくなり、翻弄されることになります」(インタビューより抜粋)
どうにもこうにもアラートンへの肉欲が抑えられないリー。ひたすら“魚”を求めてメキシコシティを徘徊する白スーツ姿のリーは『ベニスに死す』のアッシェンバッハだし、劇中2人が見る白黒映画はゲイばれを隠さなかったジャン・コクトー監督の『オルフェ』である。アラートンと別れてからの奇妙奇天烈な展開は、誰がどう見ても映画作りに一切の妥協を許さなかったキューブリック監督『2001年宇宙の旅』へのオマージュであろう。自分の芸術作品に異常なまでの執着を見せる支配人レモントフのモデルもまたゲイであることを知るルカグアは『赤い靴』への言及を告白している。スーパーヒーローで唯一カミングアウトしている“グリーンランタン”はともかく、(オリジナリティの強い)映画監督のデヴィッド・ロウリーやリサンドロ・アロンソがちょい役でカメオ出演していることからしても、本作はもしかしたら“映画についての映画”だったのではないだろうか。
「私は、『クィア』というこの映画のタイトルも美しいと思っています。なぜならこの映画は、ある意味で昔からある既存の映画の言語に従うことを望んでいないから。つまり、この映画自体が形式的にクィアなのです。映画というものは形式がすべてであり、それ以外の何物でもありません。1本の映画が“異なること、奇妙なこと”という名誉のバッジを大胆にも掲げ、同時に古典主義や映画言語をまといながら、今日のありふれた映画の陳腐さに対抗する――それは大いなる抵抗であり、クィアネスの行為だと思います」
(インタビューより抜粋)
(バロウズの妻殺しを想起させる)夢の中で足のない裸の女と交わっているリーや、ヤヘを飲んで扉が開いたものの“オフィーリア”のごとくリーの前から姿を消したアラートンの幽体が語っていた「私はクィアでは無い」とはどういうことだったのか。ゲイバレへの恐怖をネタにした昔の映画や、“多様性”テンプレートに組みこまれつつあるゲイムービーを、ルカグアは“(実態の無い)幽体離脱”に例えたのではないだろうか。(映画のテーマを)盗まれても盗まれても若い男を自分の部屋に呼び続けるギンズバーク似のジェイソン・シュワルツマンのごとく、あるいは死と再生を繰り返すウロボロスのごとく、宇宙で唯一無二の純粋クィア映画を作ること、多分それがルカグアの夢なのだろう。ちょっと分かりにくかったけどね。
ムカデがシンボル テレパシーを求めて南米の奥地までいっても不安はぬぐえない。
クイアはオカマとか変態とかの意味だ。。
もともと差別用語。
マツコデラックスが「わたしたちオカマはさぁ」みたいなノリで「クイア」が逆説的にLGBTqのように使われるようになったのは極最近の話。
この映画の背景は1950年代のメキシコシティというのであるから、クイアにLGBTqにあるような肯定感はゼロだと思う。
「俺はクイアか?」とは「俺はオカマに見えるか?」という風にとらえるべき。
ゲイという言い方は、原作「Queer」が発売された1980年代当時には一般的ではなかったはずだ。
邦題は「オカマ」とか「変態」としてもいいくらいの刺激的なタイトルだったはずである。
映画の中で「ゲイ」が使われないのは、そのような言葉がなかったからであり、「クイア」を自称するのは、なかば自虐的に、そして「だからなんだというのだ」という反逆的なニュアンスである。
ここで「ムカデ」が重要だ。
主人公のウィリアム・リー(ダニエル・クレイグ)が最初に寝ることになる男のペンダントがムカデ。
恋人のユージーン・アラートン(ドリュー・スターキー)が、最後、幻想のなかで射殺されるとき、うごめくペンダントがムカデ。
死ぬ間際のリーとユージーンの絡む足の下に動いているのがムカデ
(映像に写っていたでしょうか?ポスターにあったけど。)
ムカデは多分「クイア」のシンボルだ。
気持ち悪いものをペンダントとしている。それがムカデだ。
この映画の肝は、もうそろそろゲイ(クイア)として現役を終わることが見えている初老の男が持つ、まだ、自分は終わりじゃないという焦りの気持ちである。
リーがユージーンを道で初めて見染めるとき、リーは彼を「お仲間」だと直感する。
ところが次に会う時はユージーン初老の女性といる。若い女ではない。多分リーと同世代。
リーは紆余曲折を経てユージーンと寝るが、ユージーンの反応は今一つはっきりしない。
この男は本当に俺を求めているのか?
観客にもストレートにユージーンの気持ちが伝わってこない。
まさに、このユージーンのよくわからなさ、がリーが初老のゲイである不安を表していて秀逸である。
ユージーンはリーを愛しているの?嫌いなの?どっち?
「よくわからない」のが肝なのだ。
リーはユージーンを南米の旅行に誘うが、あの過酷な旅にユージーンがついてくるというだけで驚きなのだが、それでもユージーンの気持ちはクリアにならない。
果たしてあの第3章は必要だったのか?
原作通りなのだと思う。
ここで例の初老の女が出てくる。
女は二人を隔てる壁の象徴にもみえる。
ユージーンは本当にリーを愛しているのか?
幻影ではないのか?
言葉が止まらないリーと反応しないユージーン。(切ない)
あなたたちは特別だ、あと二三日残るべきだ。惜しい。
と言われて二人は帰ってしまう。
これも肝だ。
映画の最後まで答えは出ない。
この謎の感じは好きです。もう一度見に行こうかしら?
尖りすぎた実験映画です
えーと、この映画に関しては、おすすめしたいというより、
私自身の解釈を整理し記録したいので、レビューする形となります。
そのため、ネタバレ含めてのレビューとなります。
こんな解釈もあるんだな、程度に"鑑賞後の方"がご覧いただけましたら幸いです。
まず、この映画は、"殆どがリーの空想および妄想である"と仮定してください。
どこから空想かと言いますと、
『ユージーンと一緒に飲めるような顔見知り程度の関係になった頃』から、『リーがラブホテルを覗いていて、中にリーが入っていきユージーンを射殺する』ところまでと、私は思ってます。
なぜなら、彼の手の影の演出が、現実で出来てないことを意味していて、妄想の世界にしては絶妙な意識の表現だからですね。
それを整理すると、リーとユージーンは現実では互いに深く知り合ってもない、"リーにとってかっこいい人"程度の認知であるわけです。
その上で、彼が妄想を働かせ、彼が行動的にしながら恋の駆け引きをしていくシーンが連なっていくのですが、
どこか"リーにとって理想的な都合がいい存在である"ところが散見されます。
ただ、それだけではリアリティが薄れるのか、難しいキャラクターであることを着色して演出するのです。
そしてこの妄想は、現実と一部リンクしている、と仮定してみましょう。
最初の方は恋の駆け引き、途中から南米の旅、そして植物博士と出逢い、心臓を吐き出してユージーンと融合するメチャメチャな状況へ。
途中まではなんだか甘酸っぱい話ですが、途中から妄想の様子がだんだんおかしくなっていくのがわかるでしょうか?
つまり、リーの現実の状況に異変があったのだと思われます。
それは酒や薬の影響でしょうか?わかりませんが。
そして、彼の妄想の中で、私にとって大きく引っかかるところがあります。
リーが食事をしているシーンが無いこと、仕事をしているあるいは収入を得るシーンが無いこと、ですね。
これは、人間が生きている表現に必要な映画的要素であり、キャラクターの背景を理解する重要なキーになります。これは、どんなにディストピアな世界であってもサバイバルな世界でも、食事は絶対にあります。この映画ではリーが食べるシーンが存在しません。
それは何故か。妄想だからですよ。
お金も出処が意味不明です。使う発想のお金が湯水の如く出てくるし、収入どこですかと違和感が凄いです。私は最初、ユージーンが家に来た時に映ったタイプライターで、一瞬小説家として生きていて落ちぶれたけど印税収入を得ている人物である、とリーのことを定義しましたが、これすらもちょっと怪しい。そのシーンすら妄想だからですね。
彼がゲイと表現するのでなく、『クィア』というワードで物語を進行させたのは、
現実での振る舞いでもそうですが、どこか直接的なワードを避けて、曖昧化する傾向を感じました。
現実を直視したくない、という心理からかもしれませんね。
彼は妄想の最後にユージーンを射殺します。
彼は彼自身の妄想を最後に殺したんですね。
その次のシーンで、老人になったリーが現れ、よろよろの姿でベッドに倒れます。ここは現実なのでしょうね。
さて、やっとここまでは私なりに整理して解剖できました。
では、この映画で語りたかったことってなんでしょうか。
それは妄執と孤独、それによる悲痛な侘しさ、でしょうか。
ここまで妄想を膨らませるほど、現実には起こりづらいパートナーを探すことの難しさ、迫り来る孤独、襲ってくる侘しさ。
リーはずっとそれを妄想の中で呟き続けていたのでしょう。
リーを現実に引き戻すような誰かがいれば、物語の途中で妄想は途切れ、現実に引き戻されたかもしれません。そんなことはなかった訳ですが。
そして残酷なことに、誰も手を差し伸べてくれることもなく、終わりを迎えました。
ああ、なんて悲しい映画なんでしょうか。
そして、そのリーの究極の侘しさを汲み取れる者がどれだけいるのでしょうか。
分からないから、誰も助けなかったんでしょうか。
みたいな、私なりの"妄想"をしてみました。
映画としての総評はレビュータイトルの通りです。
尖りすぎた実験映画です。
ダニエル・クレイグ目当てや、ジェンダー関連映画として見に来た方、可哀想ですが結果的に合わない映画、という評価になるでしょうね。
配給の広報が勘違いさせるのが問題だと思いますけど、
予告編をよく見ると答え書いてるんですよね。
ずるいですねぇ。
007がカッコ悪かった
1950年代のメキシコシティで、酒、タバコ、薬で日々を過ごしていたアメリカ人駐在員ウィリアム・リーは、美しい青年ユージーン・アラートンと出会い、ひと目惚れした。リーはユージーンを求め、彼も応えていたが、彼を求めるほどリーの孤独は深くなっていった。やがてリーはユージーンと一緒に人生を変える体験をしようと、彼を南米の旅に誘い、テレパシーを得られると噂のヤヘを求め・・・さてどうなる、という話。
ゲイで良いんじゃないかと思って観ていたが、クィアなのはユージーンがバイだからかな。
自分を保てないほど一途にユージーンを求めるリーのカッコ悪さが印象に残った。演じてたのが007のダニエル・クレイグだから余計に落ちぶれ薬物中毒になったゲイの熟年男、という感じは出てた。
南米へ旅行に行ってからはそこそこ面白かったが、それまでは好きでもないゲイの絡みが多くて冗長で面白くなかった。
ユージーン役のドリュー・スターキーはスタイル抜群でイケメンでカッコよかった。ダニエル・グレイグが身長低く顔が大きくスタイル悪いのと対象的だった。
南米のジャングルで研究していたドクターのオバさんは良かった。
とてもひと言にまとめられないよ!
恋愛映画というより欲望映画だった!
冒頭は、美青年と出会ってテンション上がってる主人公リーと、自分がクイアである事をまだ受け入れられていない(多分)ユージーンの駆け引きで、
見ていて共感できる所もあり、普通に楽しんで見ていた。
しかしこの映画途中から様子がおかしい。
相手の心を本当に知りたい、というのは登場人物の心境として珍しくないものだと思うけど
そのために「南米のジャングルに行って、テレパシーが出来るようになると噂のヤヘとかいう植物をキメにいこう!」
という発想はぶっ飛んでいて面白かった。
(後からバロウズ本人の経験が元になってると知ってマジでビックリした)
そしてヤヘのガンギマリシーン。
同じバロウズ原作の映画「裸のランチ」が好きなので、何か変なものは見れるだろうと期待はしてたけど、
前半の雰囲気から全く違うところに連れていかれて良い意味で期待を裏切られる楽しさがあった。
他にも途中で出てくる女性のトルソーとか謎シーンも多い。
多分原作者の奥さんのイメージかな?と原作者と結びつけて考えてみたり、
主人公もかつてはユージーンのように自分がクイアだと気付いてそれを受け入れていく過程を経験したという事を示唆しているのかな?とか
色々と想像が掻き立てられて楽しい。
結局、人間の欲望はどうしようもないけど、
そのためにジタバタすると面白い事を沢山経験できるよ!
みたいな余韻なんだけど、これで合ってるんだろうか笑
個人的には、もっと分かりやすく感情的にワクワクしたり、新しい刺激があるような映画が好みだけど、
今回みたいに監督の想いや感性を思いっきり詰め込んで丁寧に作られている作品は、
鑑賞者の好みを超えて観る価値があると思った。
Queer
けっこうよかった
バロウズの本は何冊か買っているのだけど今に至るまで全然読んでない。『裸のランチ』は見た。主人公のリーが男を漁る様子が、非常にあさましく見ていられない。そんなかっこ悪さがもしかしたら同性愛のリアルなのだろうか。「彼はクイアだ」「いやクイアじゃない」などと語られるが、結局何がクイアなのかよく分からない。普通のゲイと何か違うのだろうか。同性愛の場面は興味がなく、見ていてきつい。毎日遊んで暮らしていて、やることしか考えてなくてそれはそれで苦しそうだ。
一方、バロウズは有名なヤク中で、ラリッている場面は楽しい。わざわざジャングルまで行ってラリる。
リーは自分本位のろくでもない人物で、しかしその果ての5年ぶりに訪れたメキシコのなんとも言えない寂寥感に心が苦しくなる。
ボンドからバロウズへ
6月の映画サービスデー1本目。
ジェイムス・ボンドではないダニエル・クレイグは、ジェイムス・ジョイスではなくウィリアム・バロウズとなって再び我々の前に現れてくれたわけで。
齢57歳でこの身体とルックならさぞモテそうと思ってはみても、フケ専でもオケ専でもない多分ノンケのゲイフォーペイの若者をなんとか心まで自分のものにしたいと願う演技は痛々しくも甲斐甲斐しくて、我が身に置き換えて反省するなどした。
結局、相手の心まで自分のものにしようとするな!お互い会ってる時だけ楽しければ良いだろう!ずっと一緒にいて楽しいのはどちらも大好きで始まった恋愛の最初の3ヶ月だけだよ!あとは惰性だよ!みたいなことを伝えたいのかなと(違う)。
これ、設定が1950年代なんだけど出てくる人の顔つきがあまりにもスタイリッシュ過ぎてクラシックカーの出てくる現代の話に見えてしまったのはメキシコの強すぎる光のせいかもしれない。
確かにメキシコシティは標高が高すぎて普通に日本人観光客ぶっ倒れたりしてたしな。あと窓から見える富士山みたいな綺麗なお山はメキシコのポポカテペトル火山5426メートルで富士山よりうんと高いです。メキシコ人(マヤ人の方ね)と日本人(縄文人ね)の精神的な共通性はこんなところからも来てるのかもね。
ということで。
一夫一妻も男女のノーマルな性愛も文明が発達して宗教的タブーが生まれて始まったことだから、人間の原始的な本能として幾つになっても多様な恋愛にときめいていたいですよね。
あとニルバーナのカート・コバーンはバロウズの大ファン。
come as you are, as you were, as I want you to be.
この歌詞に主人公の気持ちの全てが入ってるのかもしれない。
もう一個。バロウズが当時24歳だった妻を射殺したのは頭上にグラスを載せて「ウィリアム・テルみたいに打ってみな!」っ煽られたからって説もある。
この2つを知ってると理解度少し深まるかな?
ちなみにバロウズの原作「Queer」は、「おかま」って邦題で
かの山形浩生訳で1989年にペヨトル工房から発売されてるよ。
それではハバナイスムービー!
なんの話だったのか
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 人を好きになった時の立ち尽くす様なあの感覚・気持ちを上手く表していると思う。言葉無しに気持ち・感情を伝える/読み取るという意味で「映画」もテレパシーと同じかも。
①「立ち尽くす」とよく似た日本語に「立ち竦む」という言葉がある。辞書を引いてみるとどちらも呆然としたり体が固まって動けない佇まいを表現する言葉だが、前者が感動・(良い意味での)驚きによるというポジティブなニュアンスが有るのに対し、後者は恐れや不安、(悪い意味での)驚きによるというネガティブなニュアンスがあるとのこと。
恋に落ちると胸の中に幸福感・多幸感が沸き上がるのと同時に、切ないような泣きたいような気持ちにもなる。
だからどちらにしようかと思ったが取り敢えず前者にしました(字数も足りなくなるし)。
②人前では諧謔的にならざるを得ない習い性の小説家を好演するダニエル・クレイグだが、アル中でジャンキーにしては良い身体をしているのが玉に瑕。
ヤヘを求めて‼️
今作は「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督作品、ダニエル・クレイグ主演、タイトルは「クィア QUEER」‼️てっきり中年男性によるボーイズ・ラブを描いた作品かと思ってた‼️前半はメキシコシティを舞台にクレイグ扮するリーが、酒やヤクに浸りながら男を求め、やがて魅力的な青年ユージーンと出会い、一目で恋に落ち、リーの心はユージーンを強烈に渇望する。まるでヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」のアクティブ版、ハード版といった趣ですね‼️そしてリーはテレパシーを強めるという幻の薬草「ヤヘ」を探すため、ユージーンを誘い南米旅行へ。まるでアドベンチャー映画のように南米のジャングルを進み、「ヤヘ」を見つけてからは、「ヤヘ」に取り憑かれて幻覚を見るジャンキー映画のような展開へ‼️そしてラスト、老いたリーは静かに死を迎える・・・‼️別に主人公を殺さなくてもよかったと思うんですが、様々な要素が描かれてて、何を伝えたいのかイマイチ分からないところはありますね‼️ただ散らかっている印象を与えず、作品としてまとめ上げたグァダニーノ監督の演出は素晴らしいと思うし、ダニエル・クレイグの熱演も役者として一皮剥けた印象‼️
ルカ・グァダニーノ×ダニエル・クレイグの魅力全開
ダニエル・クレイグ演じるウィルアム・リーがクィアであり、
イケメンの若者ユージーンに恋焦がれ、その一挙手一投足が実に面白い。
ユージーンにアプローチするリーがニコニコニヤニヤしすぎていて
もはや笑えるが、うれしい気持ちはいやというほど観客に伝わるのだ。
後半ジャングルを探検する感じになり、
ややホラー描写とかありつつファンタジー化していくのは、
ルカ・グァダニーノらしいかなと思った。
リーの冒険目的は「テレパシー」能力を身につけて、
言葉にせずとも心と心でコミュニケーションがとれるようになることだが、
ユージーンの気持ちがハッキリわかるところはせつないし、悲しい。
こういう能力って必要ないよなと思うし、リーも思ったに違いない。
ラストもファンタジーに感じた。
リーはユージーンを殺したのか、それともファンタジーか、
実はユージーンはジャングルで亡くなったのではないか?とか
いろいろ妄想した。
老いたリーの回想であり妄想込みかもなぁとも。
それにしても、ダニエル・クレイグはカッコいいなとつくづく思う。
ダニエルの面白くもせつない演技を観るだけでも価値あり。
但し、ルカ・グァダニーノ節なので、好みは分かれると思う。
劇伴はすごくよかった👍
前半と後半で別の映画を観たよう
序盤は美しい映像と音楽、そして洗練された雰囲気に、ただ気持ちよく身をゆだねて観ていられた。今回はダイニングシアターでの鑑賞ということもあり、作中に登場する喫食シーンと自分の体験が重なって、五感でも映画世界を味わえたような、心地よい時間を得た。
物語が進行し、2人がジャングルへと分け入っていくにつれ、映画のトーンも大きく変わっていく。どこか幻想的で距離のあるまま進んでいた人間関係は、次第に緊張感と不穏さを増していく。
根拠なく、淡くも温かい終わり方を想像していたが、終わってみれば、「とらえどころのない若者を好きになってしまった、中年男性の悲しみ」が強く胸に残った。彼の想いは報われることはなく、ただ静かに滲み出して消えていく。その余韻がなんとも切ない。
第一章はクィアネスだった
Larghezza
「チャレンジャーズ」制作チームの最新作、スパイ任務から解放されたダニエル・クレイグの作品という事でどうなるんだろうと思いながら観ましたが、これはどういう事だ?と困惑しっぱなしの1本でした。
漫才師やコント師でいうところの幅を見せたかったのかな?ってくらいのトンチキっぷりで、そのトンチキっぷりが自分には合わなかったです。
純粋なトンチキと練られたトンチキとではやっぱモノが違います。
序盤からいきなり若い男にハァハァしているイケオジなルーが出てきて、こういう感じでハァハァしながらの作品なんだろうなーと腰を据えたんですが、中盤から突飛な展開に走り出し、終盤なんてファンタジーでいくところまでいってしまったんですが、全ておクスリという事で飲み込める不思議。
でも好みではないというか、今までの作品とのギャップを相まって原作込みでも自分の世界すぎない?となってしまいました。
章仕立てで区切られてはいるので、そのタイミングでここはこういう感じでいくんだなとはなるんですが、それでもガラッと変わると違和感しかないものです。
何回も終わりまっせみたいな雰囲気を醸し出しつつ、もうちょっとだけ続くんじゃをやるのでもう流石に勘弁してくれってくだりをくらいまくりました。
天丼もし続けると拒否反応がこんにちはしてきます。
エピローグゲロ長いです。
メイン2人筆頭に俳優陣が強かったのでなんとか観れたといった感じです。
くたびれてスケベェなダニエル・クレイグがとても良いですし、ツヤッツヤな若造のドリュー・スターキーもとても良かったです。
今作を観た翌日に川崎のチネチッタに行ったのでこの街並みはやっぱ好きだなーってなりました。
いつかのタイミングでチネチッタの現地に行ってみたいもんです。
鑑賞日 5/23
鑑賞時間 17:40〜19:55
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