晦渋な物語から突如として放り出されるという快楽。映画にはそういう類の快楽がある。その最たる例がハワード・ホークス『三つ数えろ』であることに異論はないだろう。錯綜する人間関係に散々付き合わされた挙句の、肩透かしのようなオチ。我々は一体何を見せられたんだ?という衝撃と困惑。
しかし不思議と嫌な気はしない。そもそも映画とはあらゆる意味で暴力的なメディアであるし、観客はその暴力性をマゾヒスティックに消費したいと欲望して劇場に足を運ぶのだから。
ただしこれを作り手側が打算的に、あるいは露悪的にやり過ぎると逆効果だ。自称ドSの「ほら、これが気持ちいいんだろ?」にシラけてしまうのと一緒だ。その点本作はちょうどいい塩梅で観客を放り出すことに成功している。
本作主人公である冨樫を取り巻く人間関係は非常に複雑だ。ただでさえ探偵、依頼主、情報屋、警察といった複数の組織が関わってくるうえに、そこへ過去のレイヤーが差し込まれる。相関図はさながら70年代のヤクザ映画のように混迷を極める。
しかしながらそれでもどうにかこの物語についていこうと思えるのは、冨樫の助手であるテツの存在ゆえだ。彼の底抜けの間抜けさとそこからくる無知ぶりが、スクリーンの内外を繋ぐ中継点として機能している。その点では『三つ数えろ』よりよっぽど親切かもしれない。
現代と過去が交互に語られていくことで、少しずつ問題の核心が炙り出されていくのだが、最終的に彼らを待ち受けていたのは「小さな事実で外堀を埋めていく」という探偵の本分の全き外部、すなわち超常現象だった。神をも恐れぬ清々しいまでの放り出し方に感動してしまう。
凡百のミステリー映画であればここで超常現象でさえも何らかの論理に回収させてしまうところだが、本作はスッパリと諦め帰路につく。ここがすごい。
濱口竜介は『他なる映画と Ⅰ』でミステリー映画について、ミステリー映画はいかなる解決がもたらされようと解決がもたらされた時点で決定的につまらなくなると語っていた。一方で、解決がもたらされないミステリー映画に観客は満足しないとも述べていた。
こうしたミステリー映画の二律背反に、本作はなかなか面白いソリューションを打ち立てていると思った。超常現象を前にして冨樫とテツはスッパリ諦めるのだが、その「諦める」という行為自体には物語的妥当性がある。
物語序盤、探偵業務における冨樫の現金主義的な行動原理が如実に語られる。探偵とは貰った額に応じて業務を遂行するのであり、それ以上の労力が生じた際は別途で金銭を請求する。すべてはカネの寡多によって決定されるという単純な行動原理。
であるならば、超常現象などといういくらカネを積まれたところでどうにもならないような事象については諦めるのが当然なのである。ゆえに彼らはスッパリ諦める。
超常現象をめぐる謎は謎としての豊かさを保持したまま、物語は順当な完結を迎える。なかなか上手い終わらせ方だなと思った。
あとは地下道で繰り広げられるアクションシーンが派手でよかった。予算が増えればさらに素晴らしいシリーズになること請け合いだろう。続編ではさらにテツが痛めつけられることを切に願う。