「究極化が生んだ過剰さ──鬼滅の刃・無限城編の光と影」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
究極化が生んだ過剰さ──鬼滅の刃・無限城編の光と影
率直にいえば、作画と映像の力はやはり“圧倒的”であり、アニメーション表現の一つの到達点を見せつけられた作品であると感じた。無限城という異空間を立体的に描き出し、キャラクターの呼吸や斬撃の軌跡までもが観客を巻き込む。これほど徹底した密度を2時間半にわたって維持できるのは、世界でも限られた制作体制をもつufotableだからこそ。大スクリーンで映像を浴びた体験としては、疑いようもなく成功している。
しかし、問題は“構成”にある。鬼滅シリーズの特徴である「戦闘と回想の交錯」は、原作に忠実であるがゆえに映像化するとリズムの停滞を招きやすい。今作では猗窩座の背景を丁寧に描くことに力が注がれたが、その長尺の回想は戦闘の緊張感を分断し、観客を二つの別作品を観ているかのような感覚に陥らせる。制作側は戦闘の一部として回想を溶け込ませるつもりだったのだろうが、観客に伝わったのは“融合”よりも“乖離”だったのではないだろうか?映像が完璧だからこそ、この構成上の歪みがより目立ってしまう。
一方で、声優の演技は映像以上に観客を引き込んだ。石田彰の猗窩座は、鬼としての獰猛さと人間としての哀切を声だけで往還し、観客を泣かせにかかる。花江夏樹の炭治郎の怒りと悲しみの叫びは、映像の洪水を突き抜けて心に刺さる。もし声優陣の芝居がここまで高水準でなければ、長い回想を観客に耐えさせることは難しかっただろう。まさに演技が構成上の弱点を補った作品と言える。
さらに言えば、ダブル主題歌の採用も話題を呼んだが、これも「三部作開幕の祝祭性」を強調する演出以上のものではなかった。作品の二面性を音楽で表現するというこだわりは理解できるが、一本の映画としては主題歌の焦点が散漫になり、結果として統一感を弱める副作用もあったように感じる。
総じて、『猗窩座再来』は作画と演技の圧倒的クオリティで観客を席巻する一方、構成の問題で評価が分かれる作品と感じた。興行的には大成功し、国際市場でも高く評価されるだろう。しかし「映画」としての完成度を問うならば、三部作第一章としての位置づけと、戦闘と回想の統合をどう処理するかという課題が浮き彫りになったのではないだろうか?第二章、第三章でこの歪みを解消できるか否かが、『鬼滅の刃』というシリーズ全体の総括に直結すると考える。
フォローとたくさんのイイネをありがとうございました!うーん、こちらのレビューの腹落ち感あり。YouTube界隈でスターウォーズの宇宙空間バトルシーンのみとか、オビワンとアナキンの伝説の戦いのみをくっ付けた動画とかあったりしますけども、鬼滅もあんな感じで戦闘シーンのみ繋げてみたら、シチューのお肉だけ食べてるような贅沢感あるのかもですね!(なんだそれ)
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。

